第五章【糖分と塩分】9

 ――電車に乗り、手を振る片桐が徐々に遠ざかる。それを見送ってすぐに俺の乗る電車がホームにやって来た。発車後、スピードを上げつつガタガタと走行する電車に揺られながら、まるでそのリズムに呼応するかのように俺の思考は始まった。


 別に俺は自分の日常に不満を持っていなかった。勉強も嫌いでは無かったし、特に楽しさなど感じない高校という場に軽い退屈は覚えても、大嫌いと言うほどでは無かったし、読書やコーヒーなどの日々の楽しみもあった。明日が待ち遠しいほどの希望は無くとも、明日が来なければ良いと思うほどの絶望も無かった。輝かしい日常では無くとも、うまくやっている自信のような満足のようなものがあった。俺はそれで充分だった。


 だが、片桐を知り始めてからだんだんとその日常が変化していた。その事実に俺はハッキリと気が付いていたわけでは無かったが、退屈する回数が減っていたことは確かだった。


 片桐のいる毎日が嫌いでは無かった。少しずつ少しずつ、半紙に水が染み込んで広がって行くように、一滴一滴コップに雫が落ちて行くように、決まり切った輪郭しか持たなかった連続する毎日の中に片桐はゆっくりと自然に浸透し、蓄積されて行った。そのスピードは遅いような速いような、良く分からない不思議なものだった。ただ、俺に気付かせないほどの自然さを持っていた。


 片桐に惹かれていたと自覚したのは、片桐が俺にそう言ってくれた、あの日。それからの数日で、浸透するスピードは格段に速まったように思えた。いや、もしかしたらスピードは以前から大して変わっていないのかもしれないし、以前と同じなのかもしれない。変わったのは、俺の意識一つだけで。


 正直、片桐と付き合うことは予想していなかった。片桐がそう言ってくれるまでは。けれども今、俺が持つこの感情は明らかに好意から来るもので、反対の電車に乗って行く片桐を今日ほどに惜しんだことは無い。


 ――車窓から見える後ろへと流れ行く景色が、俺の目の中に入り込んでは瞬く間に去って行く。それと同じように心情が次々と浮かんでは何処かへ流れ、そして蓄積されて行くのを感じていた。


 駅に着き、定期券を改札機に通す。カシャン、と乾いた音が響いた。出て来た定期券を何気無く見ると、有効期限が迫っていることに気が付いた。それをパスケースに仕舞いながら、ああ、そういえば片桐が定期券を拾ってくれたんだなと思い出した。


 駅から家までの僅かな距離をスタスタと歩きながら、俺はぼんやりとその時のことを頭に思い描く。定期券を持って来た時の片桐の様子は本当に面白かった。ダダダダというような勢いで話をした片桐。思い出し、知らず小さな笑いが洩れた。


 時間は午後六時半を過ぎていたが、そんなには寒くなかった。きっともうコートはいらないのだろう。前ボタンを全て開けて着てはいるが、明日からは必要無い気がした。ようやくこれを脱ぐことが出来る、そう思うと解放感が生まれた。このセンスのかけらすら無い、ペラペラの、片桐曰く、魔女が大きな壷で煮込んだような色をしたコート。明日からは気持ちも身も軽く登下校出来そうだ。


 見上げた空には幾つかの星がチカチカと光を放っていて、何故だかそれがひどく綺麗だと思えた。コートに別れを告げることの出来る安堵のせいだろうか。或いは、数日後から春休みが始まるという現実から生じる解放感からだろうか。両方かもしれない。


 春休みが終われば三年生になる。三年生が終われば高校は卒業、今の意思のまま進めば卒業後は大学進学、大学が終われば就職か大学院か。そうやって確実に一日が積み重なり、一年が過ぎ、ゆるゆると時間が流れて大人になって行くのだろう。それは当たり前で、揺るがしようの無いことで。そこに何も引っ掛かりなど感じなかった。今までは。


 だが、今は違う。時間が流れることは全てに共通する当たり前のことだが、その流れの中に何も引っ掛かりを感じないことなど、もう無かった。次々と生まれ去って行く一日の積み重ね、それが動かしようの無いことなら、楽しい方が良い。片桐の声のように弾む毎日が良い。


 ――いつもいつでも明るく楽しく。片桐の声が、言葉が、頭の奥に響く。俺はそこまではまだ思えないが、少しだけそれを見習いたいと思った。それが、片桐が俺にもたらした変化だった。

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