第五章【糖分と塩分】5

 ――学年末考査の結果が出揃った。かなり良い結果だ。勿論、赤点などは無い。当たり前だ。まさか二学年最後の試験で悪い結果など残せるはずも無い。残したくも無い。そんな気分も上々の帰り道、俺は緊張に包まれながら片桐に尋ねた。


「結果、どうだった?」


 嫌な感じの間が流れる。何故だろう。その答えは一つしか無いのでは無かろうか。という非常に避けたい結論に俺が達し掛けたその時、


「いやー、それが不思議なことに結構良かったんだよね」


 という、暗雲回避の兆しとも言える言葉が片桐の口から飛び出した。


「本当に不思議だ。不思議すぎる。まさかこんなに良い感じになるとは全然思ってなかった」


 不思議。その単語をしきりに繰り返している片桐の様子を目にしながら、まあまあ出来たと言っていなかっただろうかと、俺は俺の記憶の正しさを確かめていた。


「やっぱり相模原君と芳久に勉強を見て貰ったおかげかな?」


「お役に立てたなら良かったよ」


「でも、まさかの数学七十五点、化学七十八点だよ? ミラクルすぎて本当にびっくりした。ありがとうね」


 見上げて来る片桐の瞳には感謝の色。見間違いや思い違いで無ければ感動も映り込んでいた。


 詳しく聞いてみると他教科も七十点から八十点くらいは取れたようで、俺は心の内でホッと胸を撫で下ろした。これで、おそらくは単位を落とすという事態にはならないだろう。残りの授業を欠席しなければ。


「よっぽど体調が悪い時以外、せめて一学年中はなるべく休まないでくれよ」


 そう俺が念押しすると、


「うわー、芳久が言いそうなセリフ。多分、今日、試験結果を報告したら言われる気がする」


 と、特別に意味などないというような、あっさりとした調子の声が片桐から返って来た。


 ――確かに。確かに、だ。橘さんも片桐の勉強を見ていたらしいし、元・家庭教師だ。試験の結果について報告するのは何の問題も無いというか、当たり前のような気さえする。しかし、俺の中で何かが引っ掛かる。この感覚は何なのだろう。


「あ、明日。二時に待ってるからね。忘れないで来てね? 間違ってもリセットしてはダメですよ」


 俺の胸中など知らずといった感じで、ルンルンという擬態語を背負った片桐が言う。しかし、その「明日」というキーワードが更に引っ掛かりの深度を深くした。


「明日ってさ、橘さんも来るんだよね?」


「うん」


 それがどうかした? と片桐は透明感溢れる様子で尋ねて来る。どうかしたというわけでは無いのだが……うまく言えない何かが存在するのは確かだ。


「お茶会、って言うんだっけ。時々やっているって言ってたけど、橘さんはいつも来てるのか?」


「ううん、今回初です。お菓子のレシピとか調べてたらね、お茶会の準備? って聞かれて。で、相模原君とか呼んだんだーって言ったら、俺も参加したいなって言うから、良いよってお返事しました」


「俺が来るから橘さんも来るってこと?」


「それっぽい」


 謎だ。いや、片桐の持って来た弁当が橘さん製と知った時にもそう思ったが、今、ますます謎が深まったのを改めて感じた。


 響野は、橘さんがどんな人か見てみたい、と明日を楽しみにしているが、俺は何となく何かが気になって仕方無い。その何かが何なのか分からないから、何だか心臓の辺りが気持ち悪い。どうしたら良いのだろうか。


 結局、その「何か」は駅で片桐と別れた後も正体不明のままで。電車に揺られながらぼんやりと考え続けてはいたのだが、さっぱり分からなかった。人の感情というものは自分で思うよりも遥かに複雑に出来ているらしい。


 家に帰って、お茶会って何か特別なものが必要かな、と叔父に尋ねると非常に驚かれた。お茶会に行くのか、と。いや、そんな大袈裟なものでは無くて高校の友達が自宅でやるっていうから呼ばれただけで。


 俺はそう説明したのだが、叔父は慌ただしく冷蔵庫を開けて、


「何も無いぞ……」


 と、軽く絶望を滲ませた声音で言った。


「お菓子とかは向こうが用意するからいらないらしいんだけどさ。何か他に必要なのかと思って」


「お茶会なんて行ったことは無いからな。どうなんだろうな?」


 男二人、揃って首を傾げる結果になってしまった。そして、まあ行けば分かるだろうという結論を出すに至った。百聞は一見に如かず、だ。






 ――そして迎えた土曜日、お茶会当日。片桐、響野、俺の三人は片桐の家へ向かってぞろぞろと歩いていた。


「そういえば、片桐のクラスメイトが一人来るんじゃなかったのか?」


「あ、楓はもう来ていてね。家で準備してくれてるんだ」


「お菓子ってどんなのがあるんだろうなー、楽しみだな」


 二月下旬。冬の寒さは少しずつ去りつつあり、午後の太陽はいつもより若干キラキラとしているような気がした。俺はあまり冬という季節は好きでは無いので、春の訪れが待ち遠しい今日この頃である。


 駅から十分程歩いたところに片桐の家はあった。一軒家だ。小さな庭もあり、玄関横のプランターには主に白く染まっている葉牡丹が植えられていた。小学生の頃、あれを見るたびにキャベツだと思っていたことを俺は思い出した。


「はい、どうぞー」


 片桐が扉を開けてくれ、俺と響野は礼を言って中に入った。


「上がって上がって」


 楽しそうにそう言い、俺達の後から入った片桐は素早く靴を脱ぐ。そして、居間と思われる部屋に続く扉を開いた。途端、甘い香りが届く。


「甘い匂いがする」


 と、響野は期待を滲ませる声で言い、まるで遠慮など知らないかのように出されたスリッパを履いてスラリと居間へと流れ込んで行った。


「あっ、お帰り」


 靴を揃えて立ち上がると、パタパタというスリッパの音と一緒に聞き慣れない声が耳に飛び込んで来た。


 開かれた扉の向こうは甘い香りがふんわりと漂った空間だった。そこにいるのは、テーブルの上に並べられたクッキーなどを見ている響野、ジャムと思しき容器を持って俺達を出迎えたエプロン姿の女の子、それに答える片桐、そして俺の四人。


「ただいま帰りました。あ、こちら、私と同じクラスのかえでちゃんです」


九条楓くじょうかえでです、よろしく!」


 くじょうかえで。そう名乗った女の子は、ぴょこんと一つお辞儀をして笑った。


 それにつられるようにして俺と響野が互いに自己紹介をした後、


「綾、苺ジャムの蓋が開かないの」


 と、手に持っていたそれを片桐に手渡し、九条さんはキッチンに向かって行った。


 紅茶、大丈夫ですか? と片桐が響野に確認した後、九条さんと片桐は四人分の紅茶を用意し、席に着いた。


「はい、お茶会始まりでーす」


 スーパーボールのようにポンポンと弾んで何処かへ飛んで行きそうな声で片桐が言うと、それぞれが目の前に並べられたお菓子に思い思いに手を伸ばす。俺はテーブル中央に小さな山を作っている、まるいパンのようなものを手に取った。


「それ、スコーンだよ。お好みでジャムを付けてもおいしいよ。頑張って焼きました」


「片桐が作ったのか?」


「うん、楓も一緒に」


 ね、と顔を見合わせて片桐と九条さんは頷いている。


「このクッキー、凄くうまい」


 俺の左隣では、響野が夢中になってクッキーを次々と口に放り込んでいる。


「チョコチップクッキーです。簡単なんだよ」


「もしかして、ここにあるのは全部、片桐達が作ったのか?」


「大正解です。せっせっせと作りました。オーブンも大活躍!」


「凄いな」


 俺はスコーンというものに苺ジャムを塗って一口、食べてみた。苺ジャムの甘さとふっくらとした生地のスコーンが良く合う。素朴な、シンプルなパンのような感じだった。


「おいしい? マズい?」


「おいしい」


 驚きながら俺がそう言うと、良かった! と、心から嬉しそうな様子で片桐が笑った。こういうのを作れるというのは本当に凄いなと感心し、俺はしげしげと食べ掛けのスコーンを見つめた。と、スコーンの向こう側からの視線を感じ、そちらを見ると九条さんと目が合った。


「あっ、ごめんなさい。じーっと見ちゃって」


「いや、気にしてない」


 言ってスコーンを再び齧ると、


「綾と付き合ってるんですよねー」


 と、俺の気のせいで無ければどこか感嘆を含んだ響きで九条さんは告げた。俺がそれを肯定しようとした瞬間、隣の響野が口を挟んで来た。


「全く、いつの間にやらって感じで俺もびっくりしちゃってさ。全然そういう話、してなかったのに」


 もぐもぐもぐ。続いたものは声では無くチョコチップクッキーを咀嚼する音だった。そして、それに重なるようにして更に九条さんが言葉を放つ。


「綾って、とても楽しいけど振り回されませんか?」


 その言葉に否定的な意は含まれず、友達が友達をからかう時のような響きだった。それに答えようとした時、今度は片桐が口を挟んだ。


「振り回されるって、そんな! そんなこと無いですよ。ね?」


 そして同意を求めて来る。まるい瞳が俺を見ていた。


「でも、橘さんは明らかに振り回されてたと思うけどなあ」


 俺の返事を待たず、九条さんが邪気の無い様子で言う。そこに存在した人名に、知らず俺の心臓が一際、大きく打った。そんな気がした。


 そこから始まった、橘さんの話題。意識せずとも流れるように耳に入り込んで来る会話。再び浮かび上がる疑問。一つ空いた席。何故か落ち着かない心。


 ふと届いた紅茶の香りに惹かれるようにして、俺は真っ白なティーカップを持ち上げ、一口飲む。アールグレイだった。それをソーサーに戻すと、紅茶がゆらゆらと揺れる。その水面みなもが穏やかさを取り戻し掛けたその時、ピンポン、と可愛らしいチャイムの音が一つ鳴った。


 芳久かも、と告げて片桐は席を立ち、スリッパの音を立てながら居間を出て行った。残された俺を含む三人は、さっきまでの歓談ぶりがまるで嘘のように黙り込む。示し合わせたわけでも無いのに、誰一人、口を開こうとはしなかった。


 響野はスコーンに苺ジャムを塗りたくり、九条さんはバタークッキーを摘まみ、俺は再びアールグレイを味わった。皆が一様に無言のまま。


 玄関の方から、片桐と橘さんの話し声が微かに聞こえて来ていた。それを聞くとは無しに聞いていると、


「あのー。非常に気になったのですが」


 と、何故か改まった様子の響野が遠慮がちに口を開いた。


「片桐さんって橘さんのことが好きなのかな」


 それは俺が聞きたい。そして、聞けずにいたことでもあった。引っ掛かってはいた。確信は無い、ただの推測というか、それよりももっと輪郭のおぼろげなものではあったが。


「実は私も、ちょっとそう思った」


 ぽとり、と控え目に落とされた九条さんの声。それは水面に確かに辿り着き、まるく広がる波紋となって存在感を主張し続けた。

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