第五章【糖分と塩分】4

 ――翌朝、いつもの時間通りに目を覚ました俺は頭痛の大きさがかなり小さくなっていることに気が付き、安堵した。床に置いていた携帯電話を拾い上げると、メールの着信に気が付く。




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 From:片桐綾


 Sub:おはよーう!


 Text:頭痛、治った?

無理しないでね。学校に来るなら今日は雨だから傘をお忘れ無く。午前中は晴れだけれど、午後は降水確率七十パーセントですよ。


 気象予報士の片桐さんより


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 微かに笑いが洩れた。受信時刻は今朝の午前六時十五分。朝からテンションが高いなと思った。


 その助言通りに俺は傘を持ち、家を出た。朝の空は、うっすらと青く白く。雨が降るとは思えない静かな空だった。


 電車に揺られて高校の最寄り駅に着くと、驚いたことに片桐がいた。駅前のコンビニの壁に体を寄り掛からせて、携帯電話を持っている。またか、と思った。


「だから学校付近で携帯はやめろって」


「あ、おはよう」


 近付き、半ば呆れたようにそう言うと、片桐はまるで罪の無い笑顔で俺を見上げた。


「最近、校内での使用は控え目にしているんだよ?」


「校外でも、学校に近い場所ではやめて下さい」


「ところで、相模原君はクッキー好き?」


「甘すぎなければ」


 唐突に振られた話題に返事をしつつ、俺は前を行く片桐を追った。


「今度ね、ウチでお茶会するんだ。良かったら相模原君も来ない?」


「お茶会?」


 聞き慣れない単語が片桐の口から飛び出し、俺は思わず聞き返していた。


「そう、お茶会。と言っても、友達同士でお菓子食べたり、お茶飲んだりして話すだけなんだけど。一度、やってみたら意外に楽しくてね。それ以来、時々実行しているのです」


「片桐の家でやるのか?」


「うん。来週の土曜日を予定しています。いつもはかえでと二人でやるんだけど、相模原君もどうかなーって思って。男の子一人だと来づらかったら、響野さんも一緒に。あ、でも響野さんはクッキーとかスコーンとか、お菓子は好きかな?」


「好きだとは思うけど。スコーンって何?」


「んーと、小麦粉とかベーキングパウダーとかを混ぜて作った生地をオーブンで焼いた、まるいパンみたいな」


 いつもは結構退屈な、この高校までの長い道のりが片桐の話を聞いているおかげで退屈せずに済んでいる。とてもありがたい。


「行って良いなら行こうかな。でも、片桐の友人も来るんだろ? 俺や響野って初対面になるし、大丈夫か?」


「平気平気。楓はそういうの気にしないし、二人だけじゃなくて、もーちょっと人数がいるともっと楽しいかもって言ったのは楓だから」


 問題ナッシングです、と付け加え、


「じゃあ、来週の土曜日の午後二時くらいに来てね。あ、私の家の場所知らないか。高校から三つ下った駅なんだ。駅で待っていてくれれば迎えに行くけど、それでオッケーかな?」


 と、片桐は一息に告げた。


「ああ、よろしく」


「やったー! 楽しみすぎる! その前にテスト返却っていう地獄があるんだけどね」


「地獄って。まあまあ出来たんだろ?」


「多分」


 その返事にはお世辞にも自信が込められているとは言い難く、俺は背筋を這うような冷たい不安を覚えた。


 何しろ、片桐には単位が危うい科目があるのである。学年最後の試験で挽回出来ないような点数を取られたとしたら、目も当てられない。とは言え、試験は終わってしまっているのだから、あとは試験結果を待つしか無いのだ。


「そうだ、頭痛は大丈夫なの?」


 思い出したかのように片桐が尋ねて来た。


「薬を飲んだら結構良くなった。風邪っぽかったみたいだな」


「今日、休むかなと思ったんだけど一応メールしてみたんだ。お返事見てびっくりしちゃった。休むよーっていう返信かなあと思ってたから」


「俺は、滅多には休まない」


「そうなの? 偉いね」


 そう言いつつも、至極不思議そうに俺を見上げる片桐と目が合った。


「別に偉くは無いな。単に内申の為だから」


 答えた瞬間、片桐の内申書は大丈夫だろうかと疑問に思った。


 そもそも、単位が危ういということは授業の出席日数がギリギリだという可能性が高い。とりあえず卒業出来れば良いという考えなら、ギリギリだろうが構わないかもしれないが。


「そういえば、文系と理系、どっちに進むかアンケート取られた?」


「うん。どっちも向かない気はするんだけど、前に相模原君が言った文系に希望出してみたよ」


 あまり興味は無さそうに、舗道にあった小さな石をコツンと蹴飛ばし、片桐はそう言った。そしてまた、その小石を蹴飛ばす。


「相模原君は大学に行くの?」


「今のところは、そう考えてる。片桐は?」


「正直、考えたこと無いんだよね、大学とか。メンドい。昨日も芳久に同じこと聞かれてねー、メンドいって言ったら怒られた」


 芳久。その名前を聞いた俺の内側が、ザワリと騒いだ。そんな気がした。


「でも、まだ考えなくて良いよね?」


「大学に行くとしたら、あまり欠席をしない方が良い。あとは試験。点数が悪いと成績が悪くなって推薦が貰えない場合もあるし。だから進学するかしないかは今から考えておいた方が有利だと思うよ」


 俺が言うと、そっかー、と言いながら、またさっきと同じ小石をコンと蹴飛ばし、その飛んで行く先を片桐は見ていた。


「ま、私にはリセットが付いているから何かあったら押しちゃえば良いだけのお話なんだけどね。相模原君といると、それを忘れてしまうけど」


 そこから片桐の声は先程よりも明るさを含んだものになり、気のせいか足取りまで軽くなったように見えた。小石を蹴飛ばすことを止め、右手に持つ鞄を持ち直して片桐は続ける。


「私ね、今までかなりの頻度でリセットを押してたんだけど。相模原君と会ってから、その回数がとても減ったの。これって凄いことなんだよ」


「そうか?」


「そう! なかなかいないよ、そんな人。だから相模原君って凄いなーって思ってた。多分、そういう気持ちから相模原君を好きになっていったんだと思うよ、きっと」


 突然に告げられたその言葉に俺は少し動揺した。よって、すぐに返答が出来ず、俺はさっきの片桐のように目に入った石を軽く蹴飛ばした。


 黙った俺を気にする風も無く、片桐はリセットについての話を続けて行った。リセットをしたくなる瞬間、リセットの回数、リセットの頻度、そういうことについて、まるでそよそよと流れる春風のように、ごく自然に話し続けた。それらはひどく俺の興味を誘った。時折、相づちを打ちながら俺は耳を傾けていた。


 やがて正門に差し掛かり、俺は階段を上がった先の二階の玄関、片桐はその階段の裏側にある一階の玄関へと分かれた。


 靴箱の前に響野がいたので、


「お前ってクッキーとか好きだっけ」


 と聞いてみたところ、


「好きだ。くれるなら貰う」


 という返答が為されたので、俺はさっそく片桐の言っていたお茶会とやらについての話をしてみたのだが、


「片桐さんの家に行くのか! 凄く仲良くなってるんだな。ホント、それで付き合っていないっていうのが不思議だよな」


 と、本筋とは別のところに食い付かれてしまった。


 嘘をつくのもどうかと思ったので俺は正直に片桐と付き合い始めたことを告げてみたのだが、あれほど付き合わないのか付き合わないのかと聞いて来ていたにも関わらず、響野はオーバーだろうと言うくらいに驚愕していた。


 そして、ひとしきり驚いた後は、


「え、え、え?」


 と、納得していません的な音を三度発した後、これ見よがしに首を捻って見せて来た。何とも失礼な奴だ。


「そうかー、ついに付き合い始めたのか。友人として、おめでとうと言わせてくれ」


「ありがとう」


「何の感情も込められずに言われてもな」


 ――その日の帰りのホームルーム後、即行で帰ろうとした俺を響野が呼び止めた。珍しく駅まで一緒に行こうと言われ、あまり良い予感はしないなと思いながら俺は頷いた。結果は片桐とのことを色々と聞かれるに至った。やはり自分の勘というものは信じた方が良いかもしれない。


「どっちから告白した?」


「片桐」


「片桐さんの家って行ったことある?」


「無い」


 響野は質問を他に五つくらいした後、ようやく黙ったかと思えば、


「片桐さんって、家庭教師と付き合ってたんだよな。ちょっと気にならない?」


 と、更に無遠慮に質問を投げ掛けて来た。


「気にならないと言えば嘘になる」


「だよなー、気になるよな。片桐さんってあんなに明るくて良い子なのに。何で別れたんだろうな」


「さあな」


「恋愛は複雑怪奇なジャンルだからなあ」


 訳知り顔で言う響野は鞄から烏龍茶のペットボトルを取り出し、カラカラとそのキャップを開けた。


「あ、お茶会って何か持って行った方が良いのか? お菓子とかさ」


「いや、特に言って無かったけど。聞いておくよ」


 その時、鞄の中で携帯電話の振動する音がした。メールが着信したらしい。辺りに教師がいないか見回してから、俺は携帯を出して開く。


「メール?」


 響野の言葉に肯定の意を返しながら、俺はディスプレイから目を離せずにいた。短い本文。しかしながら破壊力は大きかった。




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 From:片桐綾


 Sub:お茶会


 Text:当日、楓(私のクラスメイト)と芳久が来るのでよろしくね。響野さんは来る?


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 携帯電話を持つ俺の手がピキリと音を立てて固まったような気がしてならなかった。


「どうした、何か固まってるぞ」


 そう言う響野の声が少しばかり遠くに感じられてしまうほどに、俺は衝撃を受けたようだった。

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