第五章【糖分と塩分】1
――高校というか学校という場は、相変わらず俺にとって退屈なところに変わりは無かった。が、ひとえに片桐綾という存在のおかげと言っても過言では無いほど、何となくではあるが登校が面倒には思わなくなって来た相模原怜という存在がここにいる。
今までは高校における片桐との接点は帰りの時間くらいだった。教室の後ろ扉を開けると、日によっては片桐が壁に寄り掛かって立っている。最近は携帯を出していることは無くなった。特に約束をしているわけでも無いのだが、そうやって週に三回か四回くらいの割合で俺達は駅までの道を一緒に辿る。話題は、高校の教師やクラスメイトや勉強、紅茶、本、鉱石、暇な時間の過ごし方、趣味、睡眠時間など、多岐に渡った。
そんなある日の昼休み、食堂に行こうと俺が教室を出ると、片桐がそこに立っていた。放課後以外、校内で片桐を見ることはほとんど無かったこともあり、俺は軽く驚いた。その手には大きな手提げ袋を持っている。
「やっほう。お昼ご飯、食べに行くの?」
俺が肯定すると、
「一緒に食べて良い?」
と、片桐は期待に溢れている目を向けた。
それに答えようとした時、
「何してんの、サガミ」
と、後方から響野が声を掛けて来た。
何となく嫌な予感がした。そしてその予感は的中し、俺と片桐と響野は食堂にて一緒に昼飯を食べることになった。
食堂までの僅かな道のり、互いに顔を合わせるのは初めてにも関わらず、片桐と響野は楽しそうに話をしていた。それは良い。それは良いのだが、俺はどうも響野が余計なことを言うような気がしてならない。そのせいで、どうにも落ち着けない。
俺が食券を買おうと自販機に向かった時、
「あ、相模原君。良かったらお弁当食べない?」
と、さっきから持っていた手提げを軽く掲げて、片桐が俺に尋ねた。
「それは片桐のだろ?」
「超いっぱいあるの、お弁当。良かったら響野さんもどうですか?」
「是非とも頂きます」
響野の周囲には八分音符がルンルンと飛び交っている。俺にはそんな幻影が見えた。
窓側の席、真ん中辺りに座って俺達三人は弁当を囲む。
「さあ、どうぞー!」
片桐が手提げ袋から取り出し、広げた弁当。その量は明らかに多く、俺を圧倒した。見ると、響野も同様のようだ。
「片桐って、いつもこんなに食べてるのか?」
「いやいや、まさか。さすがの私もこんなには食べませんよ。あっ、遠慮しないで食べて下さいね」
おそらくは驚愕から固まっていた響野を、遠慮をしていると取ったのだろう、片桐は非常ににこやかな様子で響野に弁当を勧めた。
「あっ、頂きます」
まだ何処か驚きの
弁当のケースは三つ。しかも、大きいものばかりだ。おにぎり一つにしたって全部で十個もある。遠足にでも行くのかという勢いだ。
「相模原君も遠慮しないで食べてね。おにぎりはね、ツナ、鮭、昆布があるよ。あれ、でもどれがどれだったか分かんなくなった。ツナ食べたいんだけど……」
途中からは俺では無く、綺麗に並べられた九個のおにぎりに片桐の視線が移動して行った。そして真剣そのものといった顔付きで、おにぎりを見て悩んでいる。
「あ、これ鮭だ。うまい」
至って平和な声で響野が言う。
勢い良く広げられた量に面食らって忘れていたが、今の俺の空腹度は高い。頂きます、と断って、おにぎりを一つ手に取った。片桐はまだ悩んでいる。響野はテーブル上に置かれた割り箸を手に、卵焼きやら唐揚げやらも食べ始めていた。
「あ、ツナ」
俺が見えた具材をそう口にすると、
「えっ! ってことは、あと一個しかツナ無いってことだ。どうしよう!」
と、心から困った様子で片桐が言った。
顔を上げて俺を見た後、すぐに弁当箱の中のおにぎりに目を戻した片桐。
「サガミ。何、笑ってんの?」
「笑ってない」
「そうか? にしても、うまいよなー。これって片桐さんが作ったの?」
ようやく一つのおにぎりを選択した片桐は、それを片手に響野の質問に答えた。それがまた俺を驚かせる。
「ううん、芳久が作った。みんなで食べたらって」
俺は飲み込んだツナのおにぎりが喉のところで引っ掛かった。水が飲みたい。
「えっ、誰それ」
「えーと、家庭教師的人物」
「家庭教師?」
「に、近い人です」
片桐は以前、俺に言ったのと同じように響野に告げていた。
「その人が作ったの? こんなに?」
「みんなで食べたらって、いきなり。私もびっくりしたんだけどおいしそうだったし、相模原君と食べようかなーと思って持って来てみました」
「あ、邪魔だったかな」
「いえ、そんなこと無いですよー! むしろ楽しくて嬉しいです」
繰り広げられる会話が一段落したところで、俺は水を取りに席を立った。喉の奥辺りに、ご飯の塊が張り付いている。
「あれ、サガミ何処行くの?」
「水を持って来る」
「じゃあ俺のも」
「自分の水は自分で」
そう言うと響野も席を立った。片桐は黙々とポテトサラダをおにぎり片手に食べている。
いるかいらないか分からなかったので、俺は一応、片桐の分も水を持った。
「片桐さんには持って行くのか」
と、響野がボソリと言った。
返答せずにいると、響野が続けた。
「さっきの芳久って人は?」
「片桐の家庭教師だった人で、付き合ってた人」
「えっ、誰と」
「片桐と」
何故、響野がそこまで驚くのかは分からない。が、俺は響野とは別の理由で驚いていた。あの大量の弁当を作ったのが、橘さんだという事実に。
まだ何か言いたそうな響野を放ったらかして席に戻り、コップを置くと、
「あっ、ありがとう。ちょうどお水ほしかったところなんだ」
と、片桐が水をゴクゴクと一気に半分くらい飲んだ。
椅子に座って俺も水を飲む。存在を主張していた白米の集合体が喉を滑って胃へと団体移動して行った。ふと弁当箱に目をやると、おにぎりの残りが四個になっていて少し驚いた。片桐といると俺は何かしら驚いてばかりのような気がする。
水を飲んで一息ついたのも束の間、俺より少し遅れて席に着いた響野がミニトマトを食べた後に、
「そういえば片桐さんって好きな人いる?」
などと言うものだから、また喉に何かがつっかえた気がしてしまった。
もぐもぐ。と無心な様子で未だポテトサラダを食べていた片桐は、響野のその言葉に顔を上げ、一瞬、考えるような素振りをした後、
「いないよ?」
と、まるで興味無さそうに言った。
俺は卵焼きやアスパラの炒め物に箸を進めながらも、二人の会話が気になってしまった。食堂のざわめきの中で、その応酬だけがまるでそこから切り取られたかのように感じていた。
「そうなんだ。恋愛願望は?」
「願望? そんなに無い……かな? 多分」
「付き合って下さいとか言われたりするんじゃないかなーと思ってさ。片桐さん可愛いし」
「いやいやいや、可愛く無いですよ」
ふと片桐を見ると、ミニトマトを口に運ぼうとしているところだった。
「響野さんこそ言われないんですか、告白とか」
「実は一回あったんだけどねー」
「えっ、いつ頃のお話ですか?」
「つい、この間」
そんなことがあったとは知らなかった。普段、恋愛恋愛言っているくせに実際のところ恋愛とは無縁そうだよなと思っていたが。
別に響野のそれに興味があるわけでは無いので、この辺りからは俺はあまり話に耳を傾けてはいなかった。ただ、何となく弁当を食べながら、何となく片桐を見ていた。くるくると変わる表情、まるく弾む声。ミニトマトを持つ指先、微かに揺れ動く黒髪。さっきの、片桐と響野の会話を思い出す。可愛く無い……そんなことは無いよな。
「あれ、何かさっきから無言っぽいね、相模原君。お腹壊した?」
「いや、壊してない」
気付けば沈黙を通していた俺を、不思議そうに片桐が覗き込んで見ていた。その瞳は何処までもまるく、そして底が見えない。そんな気がした。
昼休み終了の十分前、俺達三人は立ち上がり食堂を後にした。大量と思われた弁当は綺麗に無くなり、弁当箱を仕舞う片桐は何処か嬉しそうに見えた。
食堂を出て、自販機に寄る響野を待つ間、俺と片桐は食堂の入口付近に二人並んで立っていた。その前を、校内へと戻って行く沢山の生徒達が通り過ぎて行く。中には、チラリとこちらに視線を向ける者もいた。
「そういえばー」
と、そんな周囲のことなど全く気にしていないような様子で片桐が口を開いた。
「相模原君は恋愛って興味ある?」
「無いわけじゃ無いけど」
「お付き合いしている人、いる?」
「いや」
「じゃあ、好きな人は?」
視線を下げると、こちらを見上げる片桐とカチリと目が合った。
「いない」
答えつつ、俺は何故そんなことを突然に尋ねて来るのかが気になっていた。さっきの響野の話の影響だろうか。
程無くして、烏龍茶のペットボトルを片手に戻って来た響野を加えて俺達は教室へと向かう。その途中、またも片桐は俺と、おそらくは響野にも質問を放った。
「高校生の恋愛って、偽物なのかな?」
と。
対して響野が、
「いや、絶対にそんなことは無いよ。年齢とか学生だからとかで、その恋愛が本物か偽物かは決まらないと思うし」
などと熱弁している内に俺達は階段のところまで来てしまい、軽やかにそれを上がって行ってしまった片桐に、俺は発言する隙間を見出だせなかったわけだが。
――俺は気が付いてしまった。片桐がそういう質問をして来た、そこに秘められた想いに。本人に聞いたわけでは無いのだから予測の域を出ないのは当たり前だが、あながち間違いとも言えない気がする。
片桐は、今も橘さんを好きなのではないだろうか。別れを切り出した橘さんという存在を、まだ受け入れていないのではないだろうか。片桐の中では未だ、行き場を失った恋心が彷徨っているのではないだろうか?
全て憶測に過ぎない。それでも俺は、浮かんだ考えを消すことは出来なかった。
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