第四章【浮力と有力】4
――結論から言おう、俺と橘さんの会話は非常に
橘さんは少し前まで片桐と付き合っていた。期間は一年に満たない。先日に俺が訪れた家は橘さんの家で、時々、片桐が遊びに来たり泊まったりする。片桐が泊まるのは学校を休んだ時が多い。片桐は高校一年の一学期半ばぐらいから遅刻、欠席、早退が多くなり、ゆえに単位数が危ういところまで来てしまったということ。
そう、これらを俺は橘さんから楽しい会話の後に聞かされたので困惑はした。困惑。それは、どれについてだろう。遅刻欠席早退の多さ? 単位数? それとも――。
「綾が付き合っているのが相模原君なら安心だったんだけどな」
橘さんのその言葉に嘘は無いように感じた。
知り合ったばかり、話した時間は四十分くらいだろうか。それでも、滲み出ている誠実さのようなものを俺は橘さんから感じ取っていた。
「明るく笑っている時が多いし、楽しそうに話している時が多い。そのほとんどは本心からのものだと思うんだけど、多分、時々無理をしている。突き詰めれば誰しもそういうものかもしれないけれど」
一度、言葉を切り、橘さんは手元のコーヒーカップを静かに持ち上げる。少し考え込むような間を空けてから、それを傾けて一口飲む。
それからも再び間が空く。客のまばらな喫茶店で、微かに店内をゆるりと流れるクラシックが聴覚を支配していた。
――時間にしてみれば、一分も無かったのかもしれない。だが、その極僅かな秒数の中、俺の思考回路は休むこと無く動き続けていた。まるで空間に網を張るかのようにして、そこから何かを得ようとしていた。それが何なのか、ハッキリとは分からない。分からない、そのことが俺は少し怖かった。
ソーサーに置いたカップを橘さんが再び持ち上げ、再び傾ける。そして、カチャリとカップを置く。その後に生まれた言葉はひどく静かで、けれど確かに感情の込められたものだった。
「綾を見ていてくれる人がいたら、安心出来るんだけどな」
静かで落ち着いたものだからこそ、そこに内包された熱のようなものが余計に強く浮き彫りにされた気がした。その熱に名前があるとしたら、それは。
「……橘さんでは、いけないんですか」
考えるより早く飛び出した言葉。
いや、どんなに短く瞬きのようなものであろうと、思考する時間があったからこそ言葉は生まれる。だが、それはほとんど反射的にと言っても良いくらい、俺から離れて橘さんの元へと辿り着いていた。
一瞬、橘さんが目を見開いたようだった。すぐに元の通りになった為に、もしかしたら見間違いかもしれないと思ったが、おそらくは見間違いでは無い。
「すみません、立ち入ったことを言って」
「いや、良いんだ。そうだね、俺がそれになれたら一番良かったんだけどね」
俺は謝意を述べてみるも、そこに宿る心は半分も無かった。興味本位で人の事情や感情を探ることは恥ずべき行為だと思っているが、その時ばかりは違った。俺は本音を聞き出したかった。親しくも無い、ましてや自分より年上の人に対して、そのようなことを試みるのは間違っている。俺はそう思う。
しかし、今ここで尋ねなかったら、いつ尋ねると言うのだろう。機会はあるかもしれない。だが、そんなことよりも俺の脳味噌が「今、尋ねるべき」と冷静に命令を下していた。
「更に立ち入ったことで恐縮なんですけれど。どうして片桐と別れたんですか?」
俺は何ということを質問しているのだろう。今すぐ、この穏やかで良質な空気を湛えている喫茶店から全力で抜け出したい気分だ。それでもこの両足が動かないのは、答えを求めているからに他ならない。
「ああ、気は合ったんだけどね。何て言えば良いのかな、うまく表現出来ないな……」
予想に反して、橘さんは気分を害した様子も無く、そう言った。そして言葉を探すかのように、少しだけ宙に視線を這わせた。
「本当に、うまく言えないけど。気が付いたっていうのかな、強いて言えば」
「気が付いた?」
「そう。別に付き合わなくても俺達は一緒にいられるよね、ってことに。勿論、無理して付き合っていたわけじゃない。互いが互いを必要で好きだったからこそ、付き合った。そういう形に自然になった。でも、俺と綾に限って言うならば、それは不自然だった」
「付き合うことが、ですか?」
橘さんは俺の問い掛けを肯定し、更に続けた。
「付き合っていなくても会える、電話もメールも出来る、一緒に勉強も出来る。付き合っていてもいなくても、接し方も気持ちも変わらない。だから付き合っていることに違和感を覚えた。そして別れたんだ」
分かるような分からないような話だった。
――その時、俺の脳裏に先程の言葉が浮かんだ。綾を見ていてくれる人がいたら安心出来るんだけどな、と。そして、橘さんの家で目の当たりにした、橘さんと片桐の様子。今の橘さんの言ったことが本当なら、あれらは何だと言うのだろう。
その疑問から生じる感情が顔に出ていたのだろうか、
「微妙に納得出来ない、って感じだね」
と、橘さんに指摘された。
「あ、いえ。そういうわけでは」
そう言いながらも、その言葉が表面だけのものであることを俺自身、手に取るように分かっていた。
「確かに綾のことは好きだし、心配になる。ちゃんと生活しているかなと不安になる。だから出来る限り力になりたいと思って、そうしてる。でも、それは恋人という関係にならなくても良いことなんだ」
「片桐は」
「え?」
「橘さんはそれで良くても、片桐はどうなんですか? その、片桐の気持ちは」
そういえば、橘さんと片桐、どちらから別れを切り出したのだろう。雫が水面に落ちて作り出す輪のように、俺の心の静かなところで何かが広がって行くのを感じた。そして、冷や汗が流れ落ちたような気がした。
勢い任せで口に乗せた俺の発言を受けて、橘さんは黙り込んでしまった。考えてみれば、俺には関係の無い話なのだ。片桐が誰と付き合おうと、別れようと。どんな理由や事情があって、目の前に座るこの人と恋人同士でいたにせよ、そして今は違うにせよ、俺が首を突っ込むべきことでは無いのだ。俺は片桐の保護者でも何でも無いのだから。
――それでも。それでも何故、俺は、どうでも良いことだと言い切ることが出来ないのだろう。単なる興味本位だろうか? 片桐がどんな人と恋愛をしていたのか、そこに何があったのか、ただ単に知りたいだけなのだろうか。
回り始めては止まり、止まっては再び回り始める。それを繰り返す俺の思考回路に、一本の矢のような言葉が唐突に放たれた。
「綾は、納得していないみたいだった」
それが俺の脳に痛みを伴って刺さった。そんな気がした。
「別れようと言ったのは俺からなんだ。それは、さっき話したことが原因なんだけど。他にも理由はあってね。やっぱりうまく言えないけれど」
目の前のコーヒーカップを軽く持ち上げて、橘さんは目線をその中に注ぎ込む。それは、話すことへの迷いの表れのようにも見えた。
「綾は多分、俺じゃなくても良かったんだ。自分を守ってくれる人なら、誰でも」
何処かにそっと落とすような響きを含んで、それは告げられた。
「誰でも、というのは言い過ぎかもしれない。そういう子じゃないのは分かっている。でも、俺でなくても良かったというのは間違っていない。きっと」
「……どうして、そう思うんですか」
「明確には言えない。付き合った人間、というか俺にしか分からないことだと思う」
何と言うべきか分からず、橘さんがそうしたように俺もコーヒーカップを傾け、静かに一口を飲んだ。
「綾は、いつも日常と戦っている。その苦しさを和らげてくれる存在がほしかったんだと思う。その気持ちを否定するわけじゃない。ただ、だからと言って恋人になる必要は無かったんだ」
――いつの間にか、外は夜の一歩手前に染まっていた。ボックス席の右側にある大きな窓の外の向こう側、ふとした瞬間に俺の両目がそれを捉えていた。店内を流れるクラシックは何回、曲が変わっただろう。今は、ポール・ドゥ・センヌヴィルの「渚のアデリーヌ」が流れていた。小学校の朝マラソン前の時間、この曲が流れていたことを思い出す。
僅かに、目前の現実から離れていた俺の意識を手元に引き寄せる。そして皿に残っていたままのミートパイを口に運ぶと、それはとっくに熱を失っていた。
「綾のことで、話したいことがあるって言ったよね」
先程よりも少しトーンの上がった声で橘さんは言った。エスプレッソを飲み干し、俺が頷くと、それを待っていたかのように口を開く。
「相模原君が綾を好きなのか聞きたかったっていうのもあったんだけど。もし負担じゃなかったら、綾のこと、少しでも良いから気に掛けていてくれたらなと思って」
「というのは」
「付き合っていても別れても、やっぱり心配に変わりは無くてね。単位のこともそうだけど、高校でちゃんとやっているかなと。この間、相模原君が家に来てくれた時に思ったんだ。綾は相模原君を信頼しているんだなって。だから、もし嫌じゃなかったら」
そこで言葉は切られた。橘さんのその言葉にも目にも、確かに片桐を案ずる色が浮かんでいて。それが、ますます俺の困惑に拍車を掛ける。
「嫌じゃないです。でも、そんな気持ちがあるのに片桐と付き合うことは不自然なんですか? ちゃんと、片桐に確かめたんですか?」
立ち入り過ぎだと思う。分かっている。それでも俺は、そう聞かずにはいられなかった。
「こればっかりはどうにもならないんだ。付き合っている二人の内の片方が、そう思ってしまった。勿論、話はしたよ。それでも俺の気持ちは変わらなかったし、綾の、何て言うのかな、感情というか形というか。そういうものも変わらなかった。だから」
だから。それに続く言葉は無かった。けれども聞かずとも分かった。だから二人は別れたのだ。
送ろうか、と聞かれたけれど俺はそれを丁重に辞退した。一人、考えながら電車に揺られて帰りたかった。
橘さんは特に気にした風も無く穏やかな笑顔で笑うと、
「今日はありがとう。それじゃあ」
そう言って、真っ暗闇になる前の夜空の色、濃紺の車に乗り込んだ。そして、すぐにそれは遠ざかり見えなくなって行く。ぼんやりと車を見送った後は、まるで夢から覚めて現実に立ち返ったかのような感覚、空気が、周囲ごと俺を包んでいた。
僅か二十分の電車の時間、俺はずっと考えていた。次第に濃くなっていく夜の闇と気配を眺めながら、頭の中に浮かんでは回り、回っては何処かへ消えて行く、そしてまた再び現れる橘さんの言葉と存在について考えていた。考えずにはいられなかった、と言うのが正しいのかもしれない。
俺の思考力や理解力が足りないのだろうか。橘さんの話は、分かるような全く分からないような、何とも不思議な様相で脳内を駆け巡っていた。
ふと、俺は恋愛というやつについての経験や知識が不足しているのだろうかと考える。だから分からないのではないだろうかと。今まで、何となく気になる女の子というのはいても、付き合ったことなど俺には無い。そういうことをして来ていたら、橘さんの考えとやらを理解することが出来ただろうか?
いつもの通りに定期券を、いつもの通りに改札機に通す。カシャリ、という無機質な音が冷えた空気の中に響く。飛び出て来たそれをパスケースに仕舞いながら踏切を渡り、俺は家路を辿る。人の姿は多く無く、革靴が生み出す足音がいやに大きく聞こえていた。
家に着く少し前、立ち止まって何となく空を見上げると、猫の目のように細い三日月が空中にひっそりと佇んでいるのが見えた。猫目石のシャットヤンシーを思い出す。
その時、鞄の中で携帯が震えた。
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From:片桐綾
Sub:お誕生日
Text:そーいえば、相模原君のお誕生日っていつですか?
知りたい♪
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何故だろう、今、無性に片桐に会いたい。
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