第四章【浮力と有力】3

 ――電車はすぐに元いた駅へと俺を運び、そして去って行った。先程よりも緊張の糸が強く張られた心情で階段を下り、上る。コンビニの入り口の右、壁に寄り掛かるようにして橘さんが立っていた。


「あ、こんにちは」


 俺に気が付いたらしく、至って気さくに声を掛けて来た橘さん。緊張など、ましてや警戒などする必要は何処にも無いのだと教えてくれているような気すらした。しかし俺自身、良く分からないのだ。この張り詰めたものの正体が何なのかが。


「急で悪いね」


「いえ」


「本当は近所のレストランとか考えてたんだけど、こっちまで来たからさ。相模原君、いるかなーと思って」


 そこの喫茶店で良いかな? と、駅の隣のドラッグストア、その更に隣にある喫茶店を示した橘さんに返事をすると、じゃあ行こうか、と先に立って橘さんは歩き出した。


 喫茶店までのその短い距離の中、


「相模原君は綾が好き?」


 と、心臓が驚愕する問いを、まるで何でも無いことのように橘さんは自然に言って来た。


「え」


 それに対して俺は、たった一音しか俺は発することが出来なかった。






「懐かしいなー。シナモンロールとメロンパンで迷うんだよなあ」


 店の奥、静かな窓際の席に着いてメニューを広げ、開口一番、橘さんは言った。


「ああ、良く学校帰りに来てたんだ」


 不思議そうな俺の視線に気が付いたのか、尋ねられる前に橘さんはメニューから顔を上げて告げる。


「相模原君や綾と同じ高校だったんだ、俺」


「あ、そうなんですか」


「そうそう。時々、ここでパン食べたりコーヒー飲んだりしたんだ。本当に懐かしいなー」


 と、感慨深そうに言った後、橘さんはメニューをこちらへ向けて手渡してくれた。


 ――それぞれに注文をすると、注文を繰り返してウェイトレスが足早に去って行く。そうなると、静かで落ち着ける喫茶店独特の雰囲気が顕著になり、窓の外に見える外界とは遮断されたような気分に陥る。聴き覚えのあるクラシックが流れていた。


 俺は何となく水を飲み、そっとグラスを戻すと、それを合図にしたかのように橘さんが口を開いた。


「さっきの質問だけど。どう?」


「どう……というのは」


「回答は何かなーと思ってさ」


 にこにこ。という文字を背負っているかのように、橘さんは悪意の感じられない笑顔でそこにいた。


「ええと……」


 ええと、に繋がる言葉が俺は思い浮かばなかった。本当に言葉が浮かばない。思考する為に動かすポインタのようなものが存在するとしたら、今まさにそれは脳内で同じ箇所をぐるぐると小さくなぞっているに過ぎなかった。


「いや、そんな難しい話じゃないんだけどさ。綾が家に誰かを呼んで良いか聞くのって初めてだったから。仲が良くなかったら呼んだりしないだろうし、もしかして付き合ってるのかなーと思ったんだよね。でも違うって言うからさ、じゃあ相模原君は綾をどう思っているのかなと」


 そういう経緯での質問です、と橘さんは付け足して。


「俺は橘さんが片桐の彼氏かと思ったんですけど」


「違う違う」


 ふと口をついて出た俺の疑問は即座に否定された。が、


「前に付き合っていたけどね」


 と、サラリと足された発言があった。


 店内の穏やかな雰囲気の中、いつも通りの心持ちを少し取り戻し掛けていた俺は、再びそれが緊張の糸にくるまれてしまうのを感じていた。


 カラン、と飴色のグラスに入った氷が溶ける音が響く。


「そう……なんですか」


 その音に導かれるようにして俺が言った言葉は、それだけだった。他に何と言うべきか分からなかったとも言える。


「そうそう」


 まるで俺とは正反対の様子、ポンポンと軽く弾む感じで、さっきのように橘さんが答える。


「気は合うんだけどねー」


 その後に何か続くのかと思っていたが、それ以上に言葉を橘さんが紡ぐことは無く。


 橘さんが一口、水を飲む。俺も飲む。すると先程のウェイトレスが、お待たせ致しました、と二人分のコーヒーとパンを置いて行った。


 サクサクと、橘さんはシナモンロールにナイフとフォークを入れて行く。俺は自分の目の前のミートパイに一度視線を落とした後、その様子を何となく見ていた。そして、片桐を思い出した。ああ、片桐もナイフとフォークを綺麗に使っていたな、と。


「ん?」


 俺の視線に気付いたのか、橘さんが顔を上げた。


「あ、いえ何でも」


 俺はミートパイに意識を戻し、それを一口大に切って口に運ぶ。出来立てだったのか、ほわりとした熱さと共に、ジュワリとした挽き肉とトマトと玉葱の味が口一杯に広がった。


 俺達はしばらくの間、互いに黙々と自分のパンを食べていた。俺は三口目を食べたところで温かいエスプレッソを飲んだ。深く穏やかな香りがした。ただ、片桐から貰ったコーヒー豆で淹れた、エスプレッソの方がうまい気がした。何となくだけれど。


「どうして綾と付き合っているかとか好きかとか尋ねたかっていうと、もしもそうだったら安心出来るなと思ってさ」


 唐突に何の前振りも無く橘さんがそう言ったので、一瞬、コーヒーの香りもパイのおいしさも吹っ飛んでしまったかのような錯覚に陥った。


「えーと……それは、どういう」


「綾とはどれくらい親しいの?」


 質問を質問で返され、少しばかり戸惑いつつも、


「一緒に帰ったり、メールしたり出掛けたりです」


 と、俺は答えた。


「それなら気付いていると思うけど、綾は凄く一生懸命に生きていると思わない?」


「思います」


 即答した。本当にその通りだと思った。片桐といえば懸命、というくらいに、俺の中では既にイメージが形を取りつつあったのだ。

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