第四章【浮力と有力】2

 ――昼休み半ばから、教室に戻り音楽室に移動するまで、俺と響野の会話は続いた。そして昼休み終了を告げるチャイムが鳴り、音楽室に入る直前、まるで励ますかのように響野が俺の背中を軽く叩いた。何処まで失礼な奴なんだ、コイツは。俺はそう思いながらも、響野の話は何となく脳内に記憶されてしまったらしい。五時限目の音楽は、その話と授業の間を行ったり来たりしている脳味噌で俺は受けることになった。


「あ、相模原君」


 約束通り、教室の扉を開けたいつものところに立っていた片桐。今回は携帯電話の姿が見えず、ホッとした。加えて、登校していることにホッとした。


「帰るよね?」


「ああ」


 他のクラスもホームルームが終わっているらしく、廊下には大勢の生徒が喧騒と共に溢れ出していた。その隙間を縫って廊下を歩きながら、俺は何となく辺りを軽く見回してみる。確かに、男女で連れ立って帰ろうとしている奴らはいない。


「どうかした?」


「ああ、いや。何でも無い」


 響野が余計なことを言うから余計なことを考えてしまった。


「じゃあ、下で待ってるね」


 そう言い、片桐は一段飛ばしに階段を跳ねるように降りて行く。


 俺は革靴を履いたところで靴箱を背にし、素早く携帯を取り出した。半分だけ開き、そのまま短いメールを書く。




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 To:橘芳久


 Sub:夕食など


 Text:先日にお邪魔した相模原です。その節はありがとうございました。お誘い頂いた件、今週で空いている時間がありましたらご連絡下さい。


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 送信しました、の文字を確認して俺はすぐに携帯を畳み、鞄に滑り込ませるようにして戻す。


 あれだけ片桐に注意しておいて自分はどうなんだ、という問い掛けが生まれてしまったが、片桐のように堂々と実行しないだけ良いだろう。という勝手な言い訳を盾にして、俺は自身でその問いを跳ね返した。


「やっほー」


 今までに何度も見て来た三百ワットの笑顔で片桐が手を挙げて見せる。そこには暗さなど微塵も感じられない。


「今日は帰りに数学の小さなテストがあったんだ。終わった人から帰って良いって」


「どうだった?」


「全然、分からなかった」


「えっ」


 ちょっとした衝撃を受けた俺を見て、慌てた様子でブンブンと片手を振った片桐。


「あ、大丈夫。出来たことは出来たんだ。ただ、あれって問題集から出題されるから、どれが出るか分かってるんだよね、事前に。それを暗記して書いただけ。だから内容は全然理解出来ていないけど出来たってこと」


 ね、大丈夫。言って笑う片桐の表情には一点の曇りも無い。そこは少しばかりでも翳りがほしかったところでは無いだろうか?


「それは出来たって言わないんじゃないのか?」


「厳密に言うとそうなるかも」


 俺の素朴な疑問に、さっと回答をして来た片桐。先程までとは違い、今度はその明朗さに不安を覚える。


「片桐って、数学苦手?」


「苦手だし嫌い」


「得意科目は?」


「現代社会」


「……だけ?」


「だけ」


 大丈夫か? という率直な言葉が俺の脳裏に閃く。


「あ、暗記は得意なんだ。だから、ただ覚えるみたいなのは簡単。英単語テストとか、今日みたいな数学テストは楽勝です。現代社会も覚えれば良いことばっかりだし」


 それだと、応用が利かないだろうな、と俺は思う。そういえば今まであまり気にしたことが無かったが、片桐の成績はどんな感じなのだろう。


 ふと、単位、という言葉が目の前にチラつき、片桐の姿と重なる。単位を落としたら当たり前だが進級出来ない。成績以前の話だ。


「ん、何か気になることでも?」


 軽く首を傾げて片桐が尋ねて来たが、単位大丈夫なのか? とストレートには聞きづらい。


「いや、片桐の成績ってどうなのかなと思って」


「成績かー。良い方には入らないと思う、多分。ギリギリ崖っぷち的かも」


 ギリギリ崖っぷち。そのフレーズが俺の脳味噌にサクリと刺さった。


「ギリギリって……喩えば?」


「喩えば物理。担任の先生が生物はやめろって言うから物理にしたんだけど、全然分からない。電子についてとかの辺りはまだ良かったんだけど、化学反応式が元素がとかになったらサッパリ。一年最初の中間試験は四十五点だった」


 ピキリ。瞬間、俺は自分の体が凍ったかと錯覚した。本気で。四十五点……?


 しかも更に畳み掛けるように、


「勉強しなかったのがいけなかったかと思って、次の期末では勉強したんだけど。四十九点だった」


 と、これまた衝撃的数字を片桐は言い放つ。


「あんなに勉強しても四点分にしかならないと思ったらウンザリしてやめちゃった」


 アハハ、と、真夏の太陽と爽やかな風を思わせる笑い声を向けられたが、とても俺は笑えなかった。


 いつものように公共のバス停を通り過ぎ、しばらくは真っ直ぐに伸び行く道を歩く。その間、俺達は主に学校の勉強についての話をしていた。


 詳しく聞いていく内に分かって来たのは、おそらく片桐は文系だということ。得意科目は現代社会だけと言ってはいたものの、試験の点数とか普段の授業についてとかを尋ねてみたところ、現代文や古文、英語全般も割と良好だ。ライティングの担当教師が例の柳田なので成績は良くないのではと想像してしまっていたが、予想に反してそんなことは無かった。


 それについて尋ねてみると、


「だって何か悔しいから」


 という簡潔な返事が返って来た。


 ――二年生に進級する時、理系か文系かを選択することが出来る。仮に大学進学を考えているなら、それを視野に入れてクラス選択をすべきである。と、一年の時に俺は城井に言われた。しかし、当時まだ大学に進むかどうか決めていなかった俺は、何となくの好みで理系を選択した。もし大学へ行くにしても理系科目で受験をするだろうと思ったし、好きでは無い方をわざわざ選ぶ必要も無いだろうと思ったからである。


「片桐は決めてるのか?」


「良く分からないんだよね。理系も文系も、どっちも苦手な気がするし」


「さっき話を聞いた感じだと文系が合っているような気がするけど」


「そうー? 確かに国語系は嫌いじゃないけど」


 前方に見えた小石をコーンと軽やかに蹴飛ばし、


「じゃあ文系にしようかな」


 と、片桐は言った。


「勉強はねー、嫌いってわけじゃないんだけれどね。何か、飽きる」


 また別の小石をコンと蹴飛ばし、


「飽きない?」


 と同意を求めて来た片桐。


「長時間やってると飽きるけど」


「私は二十分くらいで飽きるよ」


「早いな」


「私も、ちょっとそう思う。でも勉強メンドい」


 ダメだよねー、と明るく笑う片桐の様子は、俺の懸念を煽るには充分すぎるほどだった。


 ――やはり、単位数のことが非常に気になってしまう。片桐から話を聞いたら余計に不安が膨らんで行くのを、俺はひしひしと感じてしまった。


 しかし、どうにも直球的な尋ね方は選び難かったので遠回しに質問をしてみたのだが、それがどうやらお気に召さなかったらしく、少しふてくされたような感じで返答が為された。そしてそれは、覚えのある引っ掛かりというか違和感というか……そういうものを与えて来たのだった。


「芳久みたいなこと言うんだね」


 文系しろ理系にしろ、これからどうしたいかって考えてる? というのが俺の質問だ。それに対する片桐の回答は、あんまり考えて無いけど、というもので。そして、ポンと付け加えられた言葉がポンと俺に小さな棘のようなものを投げて来た。これは一体、何だろうか。


「だってまだ高一だし、そんなに真剣に考えなくても良くない?」


「いや、もうすぐに二年になるわけだし、クラス分けもあるしさ。考えるのに早いってことは無いと思うんだけど……」


 と、俺が言葉を濁したのは、片桐の頬がプッと膨らんだことに目を奪われたからである。すぐに頬は元通りになったが。俺はハムスターの頬袋を連想してしまった。ヒマワリの種が何個入るだろうか。


「じゃあ相模原君は、ちゃんと考えてるの?」


 本気で怒ってはいないのだろうが、やはりふてくされた様子でぶつけるように言葉を発して来る片桐のその顔は、むー、というオノマトペが似合いそうで少し笑ってしまった。


「何で笑うのー」


「いや、つい」


 つい、って。と、更に片桐の不機嫌度が高まってしまったらしいので、俺は少し慌てて言葉を追加した。


「いや、でもさ。どうせ考えることになるんだし、今からある程度、決めておいた方が楽だと思うけどな」


「そうかなー」


 ちょっと機嫌の悪さが緩和されたような声で言い、考え込むように片桐は前方を見つめていた。その先には、いつもと変わらぬ姿を見せる駅がいつもの通りに存在していた。


 一月下旬、まだ寒さの広がる空気の中で。上空を覆う灰色が薄暗く、それがまるで俺達学生の将来に広がっているように思えた。なんて詩人めいたことを思っても、何も始まりはしないのだが。


 バイバーイ! と、元気に右手を振って電車に乗って行った片桐。それに軽く手を振り返し、すぐ後に来た反対側の電車に俺は乗り込む。すると、鞄の中で携帯電話が震えた。




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 From:橘芳久


 Sub:夕食


 Text:急だけど、今日これからはどうかな?

 今、高校の近くに来てるんだけど。


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 さっそく返信が来たことと、近くに来ているということに俺はいささか驚いた。驚きつつも了解の返事を送ると、間を空けずに再び携帯が震えた。




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 From:橘芳久


 Sub:Re:大丈夫です


 Text:駅前で待ってます。


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 パチンと携帯を閉じ、俺は次の駅で降りて反対車線の電車に乗り換えた。何故だろう、俺は何処か緊張していた。

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