第四章【浮力と有力】1
「ああ、相模原。知っているかもしれないが片桐が来ていてね。柳田先生や関島先生もホッとしていたよ」
「あ、すみません、こちらから申し上げなくて。連絡が付いたので先生方が心配されていることを伝えておきました。来ているなら良かったです」
一週間の始まりである月曜日。その昼休み、食堂へと向かう俺は城井に呼び止められた。
今日はパンの気分だったので、四時限目終了を告げるチャイムが鳴り、英語教師が教室を出たすぐ後に俺もそこを脱出して食堂へ急いだわけで。そんな俺を呼び止めた城井に正直なところウンザリしたのだが、そういう話なら別だ。
「相模原は片桐と友人だったよな」
「はい」
「それなら……」
城井は何事か考えるように言葉を途切れさせたが、すぐに思い切ったように続きを告げた。
「個人のことを他に言うのは良くないと思うんだが、場合が場合なんでな」
そう、前置きをしてから。
「実はな、片桐の単位数なんだが。この間に一学年主任の先生と話したところ、二教科ほどギリギリなものがある。まあ、あと約二ヵ月のことだから大丈夫かとは思うが」
しかし城井は、そこで黙り込む。
「これ以上、授業を休まれるとフォロー出来ないんだ。良かったら相模原からも言っておいてくれないか」
「分かりました、伝えます」
対教師用の言葉と顔で接しながら、俺は内心ひどく驚いていた。
その後、俺は当初の目的である食堂へと足を進めてはいたものの、先程のような勢いはすっかり失せて、パンがどうとかなどという思考は全く以て遮断されてしまった。だが、そんなことはどうでも良かった。先程の城井の言葉が鮮やかに目の前に蘇る。単位? 単位の心配をするのは大学生の仕事だと思っていた。しかも二教科?
よっぽど授業を欠席しない限り、単位が危なくなることは無いはずだ。六日間、学校を休んだから? いや、そんなことは無いだろう。そうしたらインフルエンザとかに
――その時、脳味噌を緩く覆うように滲み出て来た言葉があった。昨日、橘さんは言っていなかったか。単位を落としたらマズいだろう、と。
俺は、俺の頭の回転の悪さを悔いた。確かに昨日、気になったことの一つであったことに間違いは無かった。言い訳めいてしまうが、色々とあり過ぎて限り無く透過してしまっていたらしい。もしや、橘さんの話とはこのことではないだろうか。以前に片桐の家庭教師をしていたようだし、勉強面などへの関心は強そうな気がする。となれば、俺は橘さんに会って話を聞いてみたい。
そこまで考えた時、俺はようやく食堂へと辿り着いた。食堂は既に生徒で溢れ返っており、皆、テーブル席で定食やパンや弁当などを思い思いに食べている。それを横目に食堂の左奥にある小さなパン売り場に向かうと、そこにいる生徒は数人だった。ガラスケースの向こう側には、いかにも売れ残りました的なパンが数個、ぽつんと置かれているだけだった。期待していたハムチーズは無くなってしまっていた為、少ない選択肢の中から黒糖ベーグルとチョコチップメロンパンを選ぶ。惣菜パンは、ただの一つも残されていなかった。
それらを持ってテーブルの方へ戻ると、
「お、サガミ」
と、響野がしたり顔で俺を呼び、軽く片手を挙げて見せているのが目に入ってしまった。
俺は響野の向かいに無言で座る。するとテーブル上に置かれたツナサンドとコロッケパンが目に付いた。どうやら響野は人気のパンをゲット出来たらしい。
「あれ、お前って甘いの好きだっけ」
俺が無造作に置いた黒糖ベーグルとチョコチップメロンパンを見て、意外そうに響野が言う。
「嫌いではないけど。今回は不可抗力だ」
「ああ、売り切れてたんだ。それは残念でした」
絶対にそう思っていないだろうなという口調で響野は言った後、
「さっき、片桐さん見掛けた」
と、ツナサンドの封をペリペリと開けながら付け足した。
「食堂に一人で来てさ、一人で野菜サンド食べてた。ケイタイやりながら」
「またか」
思わず口から生まれた言葉。片桐は校内や学校の帰り道でケイタイを出すことを躊躇しないのだろうか。
「ちょっと喋ってみたかったんだけどさー。何か難しい顔してたからやめといた。あ、食うスピードがスゲエ早かった。そして凄くうまそうだった」
それを見ていたら自分が食べるの忘れててさ、と呑気そうに付け加えてツナサンドの一口目を響野は齧った。
「なあ、お前らって付き合ってないの?」
ツナサンドをスピーディーに食べつつ、響野が至極不思議そうに聞いて来た。
「誰が」
「サガミと片桐さん」
その質問には以前にも答えた気がするのだが。そう思いながら否定を口にすると、これまた至極意外そうに尋ねて来る。
「何で?」
何でって言われてもな。どう答えれば良いのか分からない。
既に昼休みが半分を過ぎていたので、俺も少し急ぎ気味に黒糖ベーグルを頬張る。もっとやたらと甘いのかと身構えていたが、思ったよりは控え目な甘さでホッとする。
「良く、帰り一緒に帰ってるし。片桐さんは教室前で待ってるし。携帯のアドレスだって互いに知っているし」
これで付き合っていない方が不思議だろ? と、いかにも俺は正しいお話をしています、といった感じで響野は言う。しかし俺は、そうか? と思うだけで特別そこに正当性は感じなかった。
一緒に帰る為に片方が教室前で待って、一緒に帰って、互いにメールアドレスを知っている。これがイコール、付き合っていることになるのなら、付き合うということが凄く簡単なことになってしまう気がする。
「何、言ってんだよ。簡単だよ。お互いが好きなら良いんだ」
二つのツナサンドを平らげ、コロッケパンに手を伸ばしながら響野が力強く主張する。
「大人になると面倒なんだからさ。今しか無いんだって」
訳知り顔で語るのは構わないが、お前は今、付き合っているのか? と、純粋な疑問を俺がぶつけてみると、
「付き合っていません」
という簡潔な返答が響野から打ち返されて来た。
「自分がちょっと良い感じになっているからって残酷な質問を放たなくても良いじゃないか」
本当に冷凍庫みたいな奴だな、と付け足されて。
「じゃあ聞くけど、お前は付き合う気無いのか? 片桐さんと」
ふと、俺は言葉に詰まった。別に恋愛に全く興味が無いわけでは無い。が、凄く興味があるわけでも無く。ただ片桐をそういう風に見たことは無く、そういう風と言うのは、つまり恋愛……。
「何、考え込んでるんだよ」
その言葉でハッとした。既にコロッケパンを食べ終えた響野は、それ食べないなら貰って良いか、と俺の買ったパンを指で差す。冗談じゃない。
だんだん人がまばらになってきた食堂で、俺はチョコチップメロンパンの封をガサリと開けた。甘い香りが、ふわりと漂う。それを食べている間、思考は先程の続きを無意識的に追い掛け始める。
片桐と付き合う。俺が? イマイチ、ピンと来ないのは何故だろう。というか、付き合うって何だ? 俺の思考回路は、そのレベルだ。
「それこそ簡単、単純明快だって。仮に片桐さんが俺と付き合うって言ったらどう?」
「……気の毒に思う」
「どっちが!?」
「片桐」
それはあんまりだ、言い過ぎだと響野が目の前でうるさく言うものだから、冗談だ、と俺は一言を付け加えておいた。一応。
「全く、サガミの発言は胃に悪いよ」
響野はそう言いつつ、揚げ物の挟まったロールパンを瞬く間に胃袋へと収めて行く。その勢いを削ぐこと無く完食した後、急に改まった口調で、真面目な話さ、と響野は切り出す。
「俺じゃなくても。誰かが片桐さんと付き合うっていう話を聞いたら、どう思う?」
「どう……と言われても」
「あ、その前に根本的問題があった。片桐さんって彼氏いるの? いないの?」
「さあ」
俺の返答に、大仰に溜め息を吐き出す響野。
「さあ、って。何なの、その興味の無さは。分かってんのか、彼氏がいる女の子とは付き合えないんだぞ、基本的に」
「そうだな」
「彼氏アリでもアタックするのはアリだけどな、最初に確認すべき事柄だろ、彼氏がいるかいないかは。あれだけ親しくしていて、そこを知らないとは」
ダメすぎる。そう呟き、
「あ、昼休み終わる。自販機行くけど?」
と、響野は立ち上がった。
「俺も何か買う」
チョコチップメロンパンは非常に甘いパンだった。喉の辺りに何かが張り付いているかのような感覚が残っている。緑茶などで、それを胃の奥へと流したい気分だ。響野の呟きと一緒にな。俺はそう思った。
「片桐さんと、そういう話しないの?」
響野は烏龍茶片手に尋ねて来る。まだ、そこに話を持って行くのか。正直、かなり辟易しながら俺は答えた。
「しない。なあ、この話題から離れないか」
「何で?」
「疲れるからだよ」
「そうか? 俺は面白い」
お前は面白くても俺は疲れるんだよ、と言おうとしたが、その前に緑茶を喉奥へと滑り込ませる。甘味の残響が残った喉では、なかなかに話しづらかった。
「じゃあ、片桐さんの他に好きな人が?」
俺が告げる前に、また響野が話し始めてしまった。失敗だ。
「いない」
「なら、何で片桐さんと付き合わないんだよ?」
「何で、お前は俺と片桐を付き合わせようとするんだよ」
「いや、そんなつもりはこれっぽっちも無いけどさ。俺からすると付き合っていないって方が不思議なんだよね」
サガミと片桐さん。そう言って響野は烏龍茶をゴクゴクと飲む。
「だってあんなに一緒に帰ったりしててさー。不思議すぎるんだよな、付き合っていません、ってのが。周り見てみろよ、一緒に帰ってる奴らなんかいないぜ? 男女で」
「まあ……それは俺も、うっすら思っていた」
「うっすら! え、それ、いつ気付いた?」
「最近」
「遅い! 普通、初日に気が付くだろ……!」
こっちが驚く勢いで響野が驚き、
「あー……サガミは、いわゆる鈍感ってやつかもなあ。付き合いの長い俺でも分からなかったが」
と、また非常に失礼な発言を飛ばしてくれた。
「鈍感、っていうのはあまりプラスポイントにはならないよなあ。いや、相手によっては成り得るのか……」
「おい、勝手に訳の分からない分析をするな」
「うん、まあ、頑張れ。俺は応援してるから」
「その同情っぽい言い方もやめろ」
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