第三章【目撃と訪問】8
――以降、黙々と何度かに分けて炭酸水を飲み続ける片桐を、俺は何とか話をしてくれる方向へと引っ張ることに成功した。一度、決めたら動かないタイプなのか単に本当に面倒だったのかは分かりかねるが、ポツポツと降り落ちる雨のように片桐は少しずつ話してくれた。
全体的な印象として俺が思ったのは、片桐は学校を含める日常というものを本当に大切にしているんだなということ。そして、それゆえに期待も大きいらしいということ。ここへ来る途中に考えた俺の予想は当たった。また、本当に俺とは正反対に近いなということ。学校という場を含め、そこに関わる全てに俺は期待をしていない。今のところは大学進学を考えている為、このまま成績良好を保ち、平穏無事に高校卒業を迎えたいと思っている。というか、高校に限って言うならば、それしか考えていない。
そういう俺なので、
「この間の音楽の授業なんだけど、先生が無駄話を二十分もしてね、つまり全体の半分弱が無駄に潰れたの。しかも、その内容っていうのが幸せについて。今、あなたは幸せですか、みたいなことを急に話し始めて。そして時々、生徒に話を振って来るの。何あれ」
と片桐に言われても、確かに何だろうな、ぐらいの感想しか思い浮かばないのである。
「すっごく時々ならまだしもなんだけど、絶対に授業の始まりはそういう変な話からスタートするの。聞いているだけで疲れるし腹立たしいし、私に質問されても困る」
至極不満そうに片桐は言うわけだが、俺としてはあんまり良くは分からない。多分、その場にいたとしたら音楽教師に対して授業料返せと静かに思うだろうが、片桐ほど不満を抱えることも無いだろう。何と言うか、教師や授業に対してあまり期待をしていないのだ、俺は。とは言え、授業はしっかり
ポツポツと水滴が落下しているかのような話し方だった片桐だが、いつしかザアザア、どしゃ降りの雨のような話し方になっていた。きちんと返答をする俺という存在がいなくとも充分過ぎるくらいに充分では無いだろうかと考えてしまうくらい、片桐は良く喋った。
「それで、ね」
喋り尽くしたのか、不意にプチリと片桐が言葉を
「それで?」
先を促す俺を、チラと片桐は見上げて、
「この間、二者面談があったの。担任と保護者の」
と、先程までとは打って変わった様子、遠慮を滲ませたかのような声で呟いた。
「ああ、俺も一年の時にあったよ。二年になる時にクラス分けもあるし、重要な時期として見ているんだろうな」
「相模原君は、どっち?」
「俺は理系」
「ほほー」
意外だったのか予想通りだったのか、どちらとも付かない調子で片桐は反応した。そして一人、思慮深そうに何度か頷いて見せる。
「そんな感じですね、確かに」
「どの辺りが?」
「合理的な辺りとか雰囲気」
「合理的か」
理系って合理的なのか? という疑問が俺の頭上を掠めて去って行く。今は考えなくても良いだろう。
「で、面談がどうしたって?」
「冬休みに入る前にね、あったんだけど。あ、ちゃんと面談のお知らせは渡したよ。渡したんだけど……来なかったらしいんだ」
「家の人が?」
「そう」
少しの
「私、それ知らなくて。親が行かなかったこと。面談日の翌日に、教室で担任の先生から聞いて。知らなかったから、知りませんでしたって言った。そしたら」
今度は長い間が空いた。エアコンが送り出す丁度良いはずの暖かい空気が、じわりと肌に纏わり付く。そんな錯覚を覚えたほどに、この時の空気は重たかった。
沈黙の時間は長く。片桐は目の前のグラスをじっと見つめたまま、自身の膝の上に置いた指先すら動かす様子を見せなかった。言葉を口に乗せることを躊躇っているような、何かに怯えて不安そうな、そんな心もと無さそうな様子で片桐はそこにいた。
「何か、あったのか。その時」
まるで俺の問い掛けを合図としたかのように、片桐の目のふちにジワリと涙が滲んだ。
「私、本当に知らなかった。だから、そう言ったのに。嘘をつくなって。嘘じゃないって言ったら、それなら私と親の仲が悪いからこんなことになるんだなって。その時ね、放課後で、教室で。まだクラスの人はほとんど教室にいた。みんな、こっち見てた」
片桐の目に滲んでいた涙がみるみる溢れんばかりになって行き、表面張力でそこにかろうじて
「先生なら、何を言っても良いの? それとも私がいけなかったの……」
「違う」
即座に否定した。前半と後半、どちらにも掛けて。
「片桐は悪くない」
否定しなければならない、そんな焦燥感にすら包まれて俺は口にしていた。悲しみや困惑からか、片桐の歪んだ黒く丸い瞳と視線が重なる。
――どうしてこんなに苦しそうな表情をするのだろうと、心のひどく静かな片隅で俺の意識が呟く。俺の知る片桐は、三百ワットの電球みたいな明るい笑顔と、弾んでそのまま何処かへ跳ねて行ってしまいそうな声と。ハムスターのように夢中でパンを食べる様子と、それでね、と色々なことを次々に話してくれる懸命さ。時々見せる翳りが気にならなかったと言えば嘘になる。それでも、それでもこんなにも、零れ落ちそうなほど耐えていたものがあったとは思わなかった。
「片桐は悪くないから」
もう一度、俺は繰り返した。それにどれほどの意味があるのかは分からない。だが、俺の目の前でまるで何もかもを否定するかのように涙を流した片桐を、どうしても安心させたかった。どうしても。
ポタン、ポタンと、片桐の両目から
「そんなに泣かなくても大丈夫だから」
何がどう大丈夫かなんて俺には分からないし、言えない。それでも言わずにはいられない。
「……片桐の担任って、誰だっけ」
「
すん、と鼻を啜って片桐は不思議そうに答えた。それがどうかした? とでも言うかのように。
「せきじま……ああ、英語の教師か」
俺の記憶の端っこの方にいた名前を呼び出すと、一年の時の英語、ライティング担当だったことを思い出せた。俺は一口、炭酸水を喉へと流し込む。舌先と喉奥で、無糖の中に存在する清涼な炭酸がはじけるのを感じる。
「これ、味しないのにうまい気がする」
「あ、私も好きなの。炭酸強すぎないし」
ほんの幾分かだけ、明るさの灯った声で片桐が答える。その右手の人差し指で両目に付いた涙を拭いながら。それを見ていると、俺の中で更に急速に思考が練り上げられて行く。が、同時にデメリットも浮かび上がる。
急に黙り込んだ俺に違和感を覚えたのか、
「相模原君?」
と、片桐が尋ねて来た。
「ああ、ちょっと考えてたんだけどさ。やっぱり不利益があるかな……」
更に片桐の頭上にクエスチョンマークが増えた。
「いや、抗議してやろうかと思ったんだけど、それで片桐の内申が下がっても腹立たしいなと思って」
どうしたら良いのだろうかと、腕組みをして目の前のキッチンを見るとは無しに眺めつつ、俺は思考回路を働かせた。
――それにしても、この家は立派だ。玄関からリビングに通され、そこまでの全体的な印象としてそう思った。
廊下とリビングの床は木目が明るく美しく、リビングにはガラスの小さなテーブルに革張りのソファ、照明はまるでシャンデリアのようで、目の前にはおそらくシステムキッチンと呼ばれるであろうものがある。部屋の片隅にはベンジャミンが置かれ、それは白波のようなレースのカーテン越しに日の光を緩やかに享受していた。物の少ない、ひどく落ち着いた部屋だった。俺の部屋とは大違いだ。それ以前に広さの問題かもしれないが。
――思考する方向性がズレてしまっていた。軌道修正。
片桐の担任に、どう話をするかだ。しかし物事には、第三者が口を挟むと余計にこんがらかったりする場合もある。今回のケースでは、俺が関島に話をした結果、面白く思わなかった関島が片桐の内申点を下げるという可能性が有り得る。片桐の不利益になることは避けたい。どうすべきだろう。
良い案が浮かばない。その時、ふと静かになった隣を見ると、すっかり涙の乾いた顔でポカンと俺を見上げている片桐の眼差しとぶつかった。
「ん、どうかした?」
「やー……相模原君の意外な一面を知りました」
「意外?」
「そうそう、意外で驚いていたところ」
よいしょ、とソファに座り直してから片桐は改めて俺を見た。
「だって、私の担任の先生に何か言おうかって考えてくれてたんでしょ?」
「ああ。それが意外?」
「超。相模原君って面倒事は嫌いそうな感じがするんだ。だから、わざわざ先生に、しかも自分とは関係無い先生に意見を投げ付けようと考えてくれるなんて、今、すっごくびっくり」
そう言って片桐は僅かに笑顔を滲ませた。
「……ちょっと、嬉しい」
リビングの床を蹴るように片足を揺らしながらポツリと落とされた片桐の言葉。それが、小さくはじける炭酸水の気泡のように感じられた。
「いや、でもヘタに意見して片桐の印象が悪くなっても困るから、どうするのが良いかなと考えてる途中」
「……それだけで嬉しいよ。考えてくれたことが嬉しい。良いの、もう済んだことだから。でもちょっと今、飽和状態になって泣いちゃったけど」
へへ、と照れを隠すかのように、誤魔化すかのように片桐は笑う。
「あと二年だもんねー。長いのか短いのか」
ふっと、何処か心を手放し飛ばすかのような顔をして呟いた片桐は、
「相模原君は、あと残り一年だもんね。良いなあ」
と、言葉を付け足した。
――学校なんてものは小さな世界で、終わってしまえばあっと言う間に感じられるはずだし、当たり前のように何処にでも自分と合わない奴とか明らかに非常識な奴とかがいるし、そういうものの為に片桐がそんなに泣くほど何かに耐える必要など無いのだと。
そう、言えたらどんなに良かっただろう。しかしながら俺は、何故だろう、思った通りそのままに口にすることが出来なかったのだ。
「……何かあったら、さっきみたいに言うのって良いと思うな。ほら、言うだけで軽くなることってあるだろうしさ、聞いて何か考えて、事態解決に運べることもあるだろうし」
代わりに俺から生まれた言葉は、それだった。
「え、ホントに言って良いの? 相模原君に?」
「ああ」
「ホントのホント?」
「本当だって」
きょとん、としていた片桐の表情が半信半疑のそれになり、そして最終的にパアッと花開いたような笑顔に変わった。
「メールでも電話でも?」
「学校帰りでも良いし」
俺がそう答えると、ほんの一瞬の間の後、
「ありがとう、相模原君」
と、ポタンと落ちる水滴のように片桐が言い、笑った。その言葉が二人だけの静かな室内に滲むように広がり、そしてまた再び、元の静けさを取り戻す。その笑顔が、俺の奥底に届けられる。
「ちょっと、落ち着いた」
肩に落ちる髪の先を指に絡めつつ、片桐が言った。
「そうか。良かった」
俺は今日、やっと少し安堵した心持ちで残っていた炭酸水を一気に飲み干した。僅かにぬるくなっていたそれは、しかし先程とほとんど変わりない炭酸の刺激を含んでいた。
――その日、夕方六時過ぎに俺は片桐家を後にした。いや、正確には片桐家では無く橘家と言うべきか。尋ねたいことは多々あった。が、しかしそれは単なる興味本位が八割以上だった。だからその時、俺はその場で必要なことしか聞けなかった。
「片桐は、帰らないのか」
と。
「明日、帰るよ」
そう言って、にこりと笑った片桐に
「明日、来るよな?」
学校。暗にそう告げて俺は片桐を改めて見た。目に映り込む片桐の笑顔が嘘では無いと信じたい。嘘と言うか無理と言うか。
先々週の金曜日。片桐は笑顔で手を振って駅の階段を上って行った。その後、まさか六日も欠席するなどと誰が思っただろう。片桐は無理をしているのかもしれない、今、無理をして笑っているのかもしれない。まるで何事も無かったかのように。そう思うと小さな不安とでも言うべきものが、ススキが互いに柔らかくぶつかり合うような音となって心臓の深いところで生まれて来たのだ。その感覚を何と呼べば良いのだろう。
「学校でしょ? ちゃんと行くよ。大丈夫」
ほんの少しだけ首を傾けるようにして更に片桐は微笑む。その笑顔に、およそ無理など見当たらない。繕っているようになど思えない。それでも俺の心臓の深い芯のところで微かな音が鳴り止まない。
「明日の帰りさ、一緒に帰らないか。時間あるなら」
瞬間、本当に一瞬だけ片桐の両の瞳がパチリとまるく開かれ、すぐにまた柔らかく細められた。
「……うん。教室前で待ってる」
「ケイタイは仕舞っておけよ、面倒だから」
「うん」
「じゃあ、明日な」
――玄関扉を開けると、既に夜の気配を広げ始めた空が目に入った。冬は暗くなるのが早い。少しばかり夜気を含んだ風がヒュルリと目の前を駆け抜けて行った。
「相模原君」
振り向くと、さっきまでとは違った雰囲気を纏った片桐と目が合った。
「気を付けて帰ってね」
「ああ。またな」
扉を静かに閉めると当然のように片桐の姿は視界から消えた。エレベーターに向かって歩き出した俺一人分の靴音が、ひっそりとしたマンションの廊下に追想のように響いていた。
「あ」
反射的に声が飛び出た。マンションを出てすぐのところ、橘さんが目に入ったからだ。向こうもほぼ同時にこちらに気が付いたらしく、とても爽やかに微笑み掛けて来た。マンションに入る前の片桐の様子からして、家にいるのは凄く嫌な人間なのだろうかと俺は思ってしまっていたのだが、先程も今もそんな感じは少しもしない。
「どうも、お邪魔しました」
「あっ、ちょっと待って」
進行方向、すれ違いに軽く会釈をして駅へと進もうとした足を橘さんが呼び止める。ごく少量の緊張が湧き出たのは何故だろうか。そんな俺の心情など知らずと言った感じで、橘さんは気さくに話し掛けて来る。
「今日はありがとう。綾の様子を見に来てくれたんだよね?」
「あ、はい」
「相模原君は何年生?」
「高校二年です」
「そうか。綾の先輩なんだね」
「一応、そうなります」
不意に途切れた会話。橘さんの向こう側、視界の上部に一月の夜空が織り込まれる。ちらちらと、白銀の輝きが幾つかそこに見え始めていた。
「相模原君は綾の彼氏?」
「え?」
その突然の質問は俺を大いに動揺させた。思わず、夜の空を取り込んでいた視野の全てを意識的に目の前に立つ人に総集合させてしまった。橘さんは、ただ単に俺の回答を待っています、というような感じでそこに立っていた。もう辺りが暗くなっているせいだろうが、その表情が良く見えず、俺はますます困惑を極めた。この人は何を考えているのだろう、と。
「いえ、違います」
「あれ、そうなの?」
「はい」
「そっかー……」
至極意外そうに確認した後、心なしか残念そうに言った橘さんは、
「今度、一緒にお茶飲まない? あ、昼とか夕食でも良いんだけど」
と、これまた驚くような発言を放った。
先程会ったばかり、交わした言葉は少なく。そんな人物に片桐の彼氏かどうかを突然に尋ねられた後、食事に誘われる。この後に展開される図は何だろうと、頭の片隅で考え始めた俺がいた。
「近くに、良い喫茶店があってね。この辺りはレストランも多いし。相模原君の都合が合う時で構わないからさ。どうかな?」
「ああ、えっと……」
言い淀んだ俺に、
「悪い、いきなりすぎたかな。綾のことで少し話がしたいんだ。今日は遅くなってしまったし、今度さ。気が向かなかったら断ってくれて良いよ。あ、連絡先……」
そう言って、橘さんは自身の右ポケットからダークブルーの携帯電話を取り出し、パチリと開いた。正直、戸惑いはあった。しかし半ばつられるようにして俺も携帯を取り出し、開く。徐々に深まって来た冬の夜、街灯を除くとほとんど暗闇の街中で、男二人が赤外線通信をする為に近距離でセンサーを合わせる姿は何処か滑稽な気がした。受信したデータを保存すると、「橘芳久」という名前が目に飛び込む。
気が向いたらよろしく。そう言い残して橘さんは俺とは反対、マンションへ向かって歩いて行った。
――駅への道は割と人通りが多く、駅に近付くにつれて光を
比較的、電車内は空いていた。乗り込んだ正面奥の扉横に寄り掛かり、俺は携帯を取り出した。電話帳には先程、追加したばかりの名前がある。
連絡をすべきだろうか。気が向かない、というわけでは無いのだが、かと言って気乗りしているかと聞かれればそうでも無い。良く分からないというのが一番、しっくりと来る。自身の心情も、橘さんの考えていることも。
気になるならば会えば良い、会って話を聞いてみれば良いと、俺の内側から声がする。確かにと思う。だが、素直にそれに頷く気になれないのはどうしてなのだろうか。
電車の走行音が、耳から遠く離れた何処かで聞こえている感覚に包まれる。押し流すように人を運び行くそれに揺られ、俺は帰途を辿る。
自室の扉を開けたのは午後七時半を回った辺りだった。そして夜の十二時、日付が変わる頃。明日の準備をして眠りに就く寸前、片桐からのメールが届く。
たった二つの文。それだけで俺は、今日が有意義だったと思えた。
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From:片桐綾
Sub:柑橘類
Text:蜜柑、おいしかった。ありがとう。
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