第三章【目撃と訪問】7
やがて玄関扉の開く音、続いて閉まる音、施錠する音が聞こえた。
「鍵、閉めて行くんだね」
ふと思った疑問を俺が片桐に向かって尋ねてみると、
「うん。中にいる私が閉めないままでいた時が多くて、前に帰って来た時、不用心だとか言ってた。それで閉めて出るようにしたらしいよ」
と、相変わらず蜜柑を見つめたままの片桐から回答があった。
その後、無言のまま蜜柑を食べる片桐。立ち尽くしたままの俺。正直、物凄く居心地が悪い。雰囲気というか空気というか沈黙というか、とにかく全てが重い。唯一の救いと言えるものは、リビング中に漂う甘酸っぱい蜜柑の香りだけだった。
この後、俺はどうしたら良いだろう。一応は見舞いという名目でここへ来たものの、片桐曰く、もう体調は良いらしい。見舞い品の蜜柑も渡したことだし、それじゃあお大事に、とでも告げてスタスタ帰るべきだろうか。というか、他に何かすべきことがあるだろうかと仮に問われれば、それはもう片桐に聞きたいことが沢山あって「疑問をぶつける」という選択肢が瞬時に思い浮かぶ。が、そこまで立ち入ったことを尋ねるのは不躾な感じがしたし、それらの疑問は心配というより興味だ。興味本位で他者の環境や心情を探ることは俺が俺にストップを掛ける。
では、他に何をすべきか? 明日、片桐は学校に来るのかどうか、俺はそれを尋ねたかった。しかし先程の橘さんと片桐の会話を思い返すと、どうやら学校に行く予定らしいことが窺えた。それならば今、俺がするべきことは何も無いのでは――窓の向こう、景色の遠くを見遣りながらそう考えていた時、
「ね、蜜柑食べないの? さっきも聞いたけど」
と、無邪気な様子で片桐が言った。
ふわりとした言葉に引かれるようにして振り向くと、
「食べる?」
と、更に重ねられ、まだ剥かれていない蜜柑を一つ、ちょこんと手のひらに載せて差し出している片桐と目が合った。
「ああ……貰う」
見舞いとして持って来たものを、持って来た本人が食べて良いのかどうかという問いがチラリと脳裏を掠めたが、とりあえず今は気にしないでおくことにした。
俺は片桐の手のひらにオンしている小ぶりの蜜柑を受け取り、立ったまま皮を剥き始めると、
「座らないの? 疲れない?」
と、自身が座る黒いソファの隣を勧め、ボスボスとそこを叩いて見せる片桐。
勧められるまま、俺はその高級そうなゆったりとした二人掛けのソファの左隣に腰掛けた。思ったほど体が沈み込むことが無く、その意外性に驚いた。立派な、しっかりとしたソファ。まさか本革張りでは無いだろうなと俺はドキリとした。
「あ、そういえばお昼ご飯食べた?」
「ああ、軽く」
「お腹空いた?」
「いや、そうでもないな」
「じゃあ、何か飲む?」
そう言って、半分以上残っていた食べ掛けの蜜柑をポイポイポイと次々に口に放り込み、すっくと片桐は立ち上がった。
「何がある?」
「色々あるよ。コーヒー、紅茶、緑茶……」
言いながら片桐はダイニングの方へと回って行く。どうやら冷蔵庫を開けているらしい。
「あと、オレンジジュースと野菜ジュースと炭酸水と水。お酒が豊富なんだけど未成年だしね、私達は」
「炭酸って無糖の?」
「そうそう」
「じゃあ、それ貰って良いかな」
「いいよー。私もこれにしよっと」
冷蔵庫を閉めた音に続き、グラスを用意しているのだろう、カチャカチャという音が響いた。
この部屋は、ひどく静かだった。俺達二人だけということを除いてもだ。隣室などからの生活音はチラとも聞こえて来ないし、街の喧噪も届いて来ない。まるで無音の世界のようだった。
丸い木製のお盆に二人分の炭酸水を載せて片桐が戻って来た。ソファの前にあるガラス製のテーブルに一旦、それを置くと、俺の方へと先にグラスを差し出してくれる。
「ありがとう」
「いえいえ、どんどん飲んでね。おかわり沢山ありますよー」
元の通りに座った片桐は一度、両腕を宙へと伸ばした後に小さく欠伸をした。
そして一口だけ炭酸水を飲み、
「ね、何か話したい」
と、驚くほどに穏やかな声で言った。
静寂という水面にポタリと一滴の雫が落とされたような、そんな声だった。今まで片桐からそういう話し方を聞いたことがないような気がして、そしてそれは空気すら止まっているかのような室内の静けさと相まり、何故だか俺は心臓が強く鳴ったような感覚を覚えた。
「何かって?」
「何でも良いんだ。相模原君と話したら元気になれるかもって思って」
ああ、そういえば昨日、電話でもそんなようなことを言っていたなと俺は思い出した。片桐は今、元気では無いということなのだろうか。
「何でもって言われても迷うな。どういう話がしたい?」
「相模原君は何でも良いの?」
「いいよ」
「じゃあ、学校の話」
意外な選択だと思った。いや、意外では無いのかもしれない。片桐が六日間学校を休んだのは、あの職員室でのことが原因だろう。何か思うところがあって、それを話したいのかもしれない。うまく会話が出来るかは分からないが、片桐が明るさを取り戻せるなら。そう、思った。
「相模原君は学校って楽しい?」
「楽しくは無いかな」
「全然?」
「少なくとも、もっと休みが増えないかなとは思う。私立校だからか、月二回は隔週で土曜日も登校するだろ? あれが休みだったらどんなにか良いだろうと良く思うよ」
片桐は炭酸水の入ったグラスを再び手に持ち、しかし口を付けること無く、グラスの底から小さな泡が浮かび上がって来る様に視線を落としている。
「私、学校大嫌いなの、実は」
視線を固定したまま、静かに言う片桐。
「あと二年間もあるなんて。どうやって楽しくして行けば良いのか、こうやって時々分からなくなるんだ」
炭酸水から生まれているシュワシュワという音が、いやにハッキリと耳に付く。片桐がまた一口それを飲んだので、何となく俺も自分のグラスを傾けた。刺激が喉の奥を滑って行く。
「……そんなに深刻に考えなくても良いんじゃないかな」
「え?」
気持ち前屈みになっていた片桐が、疑問に満ちた顔で俺を見上げた。
「前にさ、毎日を楽しくしようとしているって話してくれただろ。あれを聞いた時、片桐って凄いなって思った。そういう考え方が新鮮だったし、何より俺には無いものだったから」
俺と片桐の視線はぶつかったまま、互いが互いを捉えたままだ。俺は続きを話して行った。
「うまく言えないけどさ。楽しくやろうっていうのは良い考えだと思う。でも、たとえば嫌なことがあって元気が無い時、無理にその考えを通さなくても良いと思うんだ。時間が経って来ると自然に元通りになることってあるだろうし、元通りとは行かなくてもちょっとずつ元気にはなって行くだろうし……俺がいい加減だからそう思うのかな」
微妙に何を話しているのか、何を話したいのか分からなくなって来たような気がする。誰か俺の脳内を整頓してくれ。そう切望した。
「相模原君が、いい加減?」
「え、意外? 結構な割合でそう言われるんだけど」
「見えない。しっかりしているように見える」
「あー、最初はそう言われる。で、だんだんみんな分かって来るらしく、いい加減という形容動詞をほしいままにする」
へー、と何故か感心したように片桐に呟かれる。ここは感心するところでは無いような。
「別に、いい加減に過ごせってわけじゃないんだけどさ。無理しなくても良いんじゃないかっていうこと」
「そっか……」
もっと分かりやすい励ましの言葉の方が良かっただろうか。しかし、無責任に「元気出せよ」なんて言うのもな。いや、無責任って言うなら今の俺の言葉も無責任か? なら、どう言えば良かったのだろう。だんだん分からなくなって来た。暖房が強すぎるのだろうか、脳が茹だって来たような。
「なあ、ちょっと暑くないか」
「あ、下げる?」
片桐は立ち上がり、リビングの片隅に置かれた小さなカラーボックス上にあるリモコンを手にした。
間も無く、ピ、ピ、という無機質な電子音が響き、
「二度、下げた」
と、振り返りつつ片桐が言った。
「何度にしてた?」
「二十六度になってた」
暑いはずだ。一月半ば過ぎ、今日は割と日も出ているし、室内温度としてそんなには必要無いだろう。
ボスン、と音を立てて再び隣に座った片桐は目の前の炭酸水を一息に飲み干し、気怠そうに肘掛けに半身をもたれ掛けさせた。そして、長い溜め息を下方に向かってつく。
「眠いのか」
「いやー……メンドいなあと思って」
「何が?」
「学校」
囁くような微かな声でそう言った後、片桐は不意に俺を見上げて視線を合わせた。その両目の光があまりに頼り無く、それでいて何かを訴え掛けるようなものだった為、
「明日は学校来る?」
と、俺は思わず口にしていた。
それは昨日の夜に尋ねたことでもあり、今日、片桐に会って俺が一番聞きたいことでもあった。しかし、俺はどうして片桐が明日登校するかどうかをこんなにも気に掛けるのだろう。
「多分……行くよ」
返って来た片桐の返事は断定では無い意を示す副詞を伴ったものであり、とろんとした溶け掛けのアイスクリームのように心もとないものだった。相変わらず片桐は肘掛けに寄り掛かったままであり、目の表面には弱々しさを湛えたままだった。
「分かった、全部話してくれ。一つずつ」
「え、何を?」
「学校、面倒だなって思う理由。打開策を考えよう」
「うーん……それもメンドい」
「いや、そこはやる気出してくれよ」
「話しても解決には辿り着かないと思うんだよね。卒業まで耐えるしかないと思われます、楽しくやる努力をしつつ」
もう諦めているかのように言い、片桐はゆっくりと体を起こしてグラスを片手に席を立った。そうして再び冷蔵庫の方へと回り、グラスになみなみと炭酸水を注いで戻って来る。対する俺のグラスは、まだ八割以上のそれで満たされていた。
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