第三章【目撃と訪問】6
エレベーター内で片桐は無言だった。そして少しばかり俯き加減なその様子を見て、俺は何か言うべきのような気がしたのだが、「そんなに嫌な奴なのか?」というストレートな物言いしか頭に浮かばず、そうこうしている内にエレベーターは九階に停止した。
エレベーターから降りて通路を右に曲がった一番奥の扉の前で片桐は立ち止まり、
「よーし!」
という掛け声みたいなものを小さく呟いた後にドアノブに手を掛け、扉を開けた。
「ただいまー」
「おかえりー」
それはまるで
「はい、どうぞ」
と、片桐がスリッパを出してくれ、そこで俺は自分がぼんやりとしていたことに初めて気が付き、若干、慌てて靴を脱いだ。
「お邪魔します」
「うん」
スタスタスタとスリッパの音をさせながら片桐は廊下を歩き、奧へと向かう。僅かに気後れしながら俺も続いた。
気後れ。というのも、玄関先からして何だか立派な雰囲気を感じてしまったことと、奥にいるらしい男性、片桐が言うところの「家庭教師的人物」がどんな人なのか気になったゆえである。
木目が美しい廊下の先、開かれたままの扉を片桐に続いて思い切って抜けると、これまた立派な雰囲気のリビングがその姿を現した。
「初めまして」
部屋の様子に気を取られていた俺は、その言葉でハッと我に返った。
「あ、初めまして。えーと……片桐さんと同じ高校の相模原です」
「
タチバナ。ミカン科の木だ。
そこで俺は右手に持ったビニール袋の存在を思い出し、
「あ、これお見舞い品」
と、片桐に差し出した。
「えっ、何それ!」
片桐はビニール袋を受け取り、中を覗き込むようにして見ると、
「蜜柑!」
と、嬉々としてそれを取り出した。
「柑橘類、愛してるんだー! ありがとう!」
ひゃっほう、と付け足して、片桐はリビングに置かれた存在感たっぷりの黒いソファに座り、さっそく蜜柑の包まれた網を切ろうとし始めた。手で。
それに俺がコメントするよりも早く、
「綾、ハサミ使いな」
と、橘さんが片桐にハサミを差し出した。
――瞬間、心の何処かがザワリと言った気がするのは何故だろう。何も問題は無いはずの一コマが、小さな棘のようなものを携えて俺の耳と目に飛び込んで来た。そんな気がした。
「ありがとう」
橘さんから受け取ったハサミで赤い網を切り、蜜柑を一つ取り出す片桐。
「蜜柑、大好き」
嬉しそうに蜜柑の皮を剥き、サクサクと中身を四つに割り、その内の一つを手に持ちながら蜜柑を食べ始めた片桐。ビーズのような極小の何かが弾けるように、蜜柑の爽やかな香りがリビングに広がって行った。
「相模原君も食べる?」
蜜柑。そう言外に告げた片桐の言葉で俺は現実に引き戻された。どうもこの家に来てから、俺は何度か意識が吹っ飛ばされているようだ。確か、これで三度目だ。
何かが引っ掛かっている。引っ掛かり続けている。俺は自分の今いる状況を、何処か現実離れしたものとして見ていた。
――その時、まるでこれは現実だと俺に知らせるかのように、高らかな電子メロディが鳴り響いた。それは何かの警鐘のようにも思えた。理由は分からない。
メロディの
「綾、やっぱり今から出掛けて来る。戻りは夜だな、多分」
「夜遊びー?」
「違う。夜には戻るって言ってるだろう。夕食は何か頼んでも良いけど……明日はどうするんだ」
「お寿司の特上を頼んでも良いなら行くよ」
「それで良いからちゃんと明日行った方が良い。勉強遅れるし単位落としたらマズいだろう」
「……分かってるよ」
リビングと廊下とを繋ぐ、開け放たれたままの扉。その前に立ち、橘さんは片桐から視線を外さずに淡々と告げた。対する片桐は、手に持った蜜柑にいつしか視線を落としていて、最後の言葉は少しふてくされたような物言いだった。
二者の間で繰り広げられた会話。この場に何となく居心地の悪さを感じた時、
「それじゃ、相模原君。ごゆっくり」
と、橘さんは不意打ちで俺に告げた。
「あ、すみません」
何故か謝ってしまった俺。日本人は何かと謝ってばかりな気がする。と、一瞬の内に思考した俺の脳味噌などは露知らず、といった感じで橘さんは軽く会釈をしてリビングを後にした。俺は会釈を返すタイミングを失って、ただ彼の真っ直ぐな背中を見ていた。
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