第三章【目撃と訪問】5

 翌日、俺は一応、果物カゴとやらをスーパーで見てみたのだが、何と五千二百五十円という驚きの値段が付けられていて俺は諦めた。代わりに三百九十八円の蜜柑を買い、それを片手に俺は駅へと向かった。


 日曜日の午前十時半過ぎ、電車は割と空いていた。座席の端に腰掛け、膝上に置いたスーパーの袋の中に目を落とす。蜜柑で良かったかな、と俺は微かに疑問を抱いた。


 しかしそれよりも、片桐の家は二つあるのかどうかという疑問の方が強い。いや、普段は祖父母か親戚などの家に帰っているのかもしれないし、あまり気にすることでも無いのかもしれない。だが、それ以外にも気になることはある。昨日、電話で片桐が言った、家庭教師の存在だ。


 普通に考えて、夜の十時半を過ぎても教え子の家にいる家庭教師っておかしくないだろうか? 俺が家庭教師を頼んだことが無いから知らないだけで、そういうものなのだろうか。電話中に俺が感じた違和感は続いた片桐の言葉で一瞬、消されてしまったが、電話を切って乗換案内サイトを見ていた時、片桐の家の場所についての疑問と共にそれは再び浮き上がった。


 良く分からない。それが今の正直な気持ちだ。


 しかし、とにかく今は電車に揺られて都内に向かおう。それに、明日の月曜日は学校に来るかどうかを、直接、顔を見て片桐に聞きたい。


 ――俺は、少なくとも高校では、嫌なことがあって学校を休みたくなったことは無い。というか、嫌なこと自体が無いと言った方が正しい。


 それを以前に響野に話したらひどく驚かれ、


「良いねえ、ストレスフリーの生活が出来るサガミ君は」


 と、羨望と皮肉の混じったコメントをされた。


 別にストレスフリーというわけでは無いのだが、確かにイライラするようなことはほとんど無い。その代わり感動も無い。まあ、学校生活に感動なぞを求めるのは間違いな気がするが。学校という場に期待していないから落胆も無く、怒りも生じない。時々いる一部の非常識な生徒には若干の腹立たしさを感じる場合もあるものの、面倒だから関わりたくないという気持ちの方が強く、また、ムカムカするのも阿呆らしい気がして、その場も心情もスルーしてしまう俺がそこにいる。そういう姿勢や考え方が良いか悪いかは別として、俺は満足していた。疲れなくて楽だからである。


 蜜柑の入ったスーパーの袋を抱え直し、俺は正面の流れ行く景色に目を遣り、考える。片桐は、ひどく一生懸命に毎日を送っている気がした。学校では学年が違うせいもあり、校内で見掛けることはほとんど無く、授業中の態度とかを知るわけでも無いけれど。それでも。とても真剣に学校という場に立っているように思えた。いや、学校に限らず、当たり前の日常を大切にしている。そんな気がした。以前に片桐が言っていた、「毎日を楽しく」という言葉が、それを物語っているように感じた。


 だからこそ、きっと反動がデカいんじゃないかと俺は推測する。日常と正面から向かい合っていれば、楽しいことを見逃さず、また、それを何倍にも膨らませることが出来るだろう。反面、悲しいことや腹立たしいことがあった時、それらはダイレクトに心の奥底に刺さってしまうのではないだろうか。


 ――きっと、言われたくない言葉だったに違いない。それを真正面から受け止めた片桐は、真正面から柳田に反論したのだろう。


 それにしても、柳田は本当に変わっていないな。一年も経てば多少は成長しそうなものだが。職員室という、他の教師や生徒らが多数いる場で、デリカシーに欠ける発言をする奴の頭の中は一体どうなっているのだろうか。


 やがて乗り換えの駅を知らせる無機質なアナウンスが車内に響いた。そして、乗り換え先から更に三十分ぐらいを掛けて、電車は目的地へと到達した。


 駅前から短いメールを片桐へ送ると、「ごめん、今行く!」という焦った感じの返信が届いたので、焦らなくて良いと返事をしておいた。


 俺は待つことが嫌いではない。待ち合わせ場所付近をぼんやりと眺めながら相手を待つということが、結構、楽しかったりもする。ただし、夏は除いて。


 賑やかな駅前。日曜日だからだろう、行き交う人の数は多く、待ち合わせをしているような人も多かった。ふと目に入った改札口近くのケーキ屋。ガラスケースの中に並べられた種々様々なケーキやシュークリームが目を引いた。風邪のお見舞いにはケーキの方が良いのだろうか、という思いが頭をよぎる。


 ――お見舞いと名の付くようなことは父にしたことがあるだけで、当時、中学生だった俺は見舞いの品を用意するという発想も無く、手ぶらで病室に向かっては三十分から一、二時間ぐらいの雑談をして帰るということを繰り返していた。今にして思えば、蜜柑や林檎やケーキなんかを持って行くべきだったのかもしれない。俺は、学校や塾や友人やゲームなどの他愛ない話の数々を聞いてくれた父の顔はハッキリと覚えている。当時、見舞いの品まで気の回らなかった日々の自分を悔やむと同時に、定期的に病室へと足を運んでいた自分自身と、過ごした時間に安息に似た気持ちを覚えた。


 何となく安穏とした気分になり始めた時、不意にコンコンコンという足音が辺りの賑わいを掻き分けるようにして耳に届けられ、それに導かれるようにして俺が前方を見ると片桐が転びそうな勢いでこちらに向かって走って来ているのが見えた。


「ご、ごめんね。遅くなって……」


 走って来た勢いそのままに片桐は俺に駆け寄り、息を切らしながら告げた。


「急がなくて良かったのに。大丈夫か?」


「大丈夫、大丈夫。これくらいは余裕です。ホントごめんね」


「まだ十二時少し前だし、走らなくても……」


 腕時計を見ながらそう告げた俺を、片桐は驚いたように目を丸くして見つめた。ギョ! というような擬態語が聞こえて来そうな顔だった。


「だって居間の時計は十二時過ぎてて、自分の部屋の時計は十一時四十五分くらいだったのに何これ! って思って焦って走ってここを目指して来たんだけど……」


「居間の時計、進んでるんじゃないのか」


「かもしれない」


 なーんだ、と言いたげな顔に変わった片桐は、


「これじゃ走り損だよ」


 と言って、少し照れたように笑った。


 自分のミスを誤魔化し隠すかのように照れ笑いを浮かべた後の片桐は何故かその場から動こうとせず、俺は軽く疑問に思った。


 それを見て取ったのだろう、


「あー……えーと、良い天気だね」


 と、片桐は不意に視線を逸らして言った。


 冬、一月半ば過ぎの空は白く広く。昼時、その空には薄雲の向こう側で光を放つ太陽があった。


「まあ、良い天気……かもな」


 駅前は相変わらず行き交う人々で溢れ、待ち合わせをしている様子の人も相変わらずいた。その賑やかな空間、視界の片隅で、俺は待ち人に出会って駅前を後にして行く二人組を捉えた。


「えーっと、その、ちょっとした誤算がありましてですね」


「誤算?」


 片桐は足元に敷き詰められたカラフルな石畳に視線を落とし、言いづらそうに口を開いた。


「十二時には外出すると言っていた方が予定変更されまして。午後二時頃に出掛けるみたいなんですよね、どうやら」


 俺が話が見えず黙っていると、


「なので、今、行くとバッタリ会うわけです。それがちょっと……でも仕方無いか。よし、ご案内します」


 と、一人で話を完結させた片桐は、コン、と靴音を鳴らして俺の前に立った。


 そして、コンコンと更に二歩、足を進めて振り返ったので、それに続くようにして俺も歩き出す。


「さっきの話、良く分からなかったんだけど。家に誰かいるってことが言いたかったのか?」


「ザッツライト」


「で、その人に会いたくない?」


「大正解」


 片桐はトーンの落ちた声で答えた。


「金曜日には、昼頃出掛けるって言ってたのに。一度、口にしたことは守ってほしいよ」


 半ば独り言のように言った片桐に、


「それ、誰? って聞いて良いか分からないけど」


 と、俺は核心を尋ねてみた。


「家庭教師的人物」


「家庭教師……的、人物?」


 コンコンコンという軽快な片桐の足音とは裏腹に返答する声は若干、暗さを帯びていて、そして肝心の回答は要領を得ないものだった。


「家庭教師じゃないけど勉強を見てくれている人とか?」


「惜しい。以前に家庭教師だった人です」


「今は?」


「頼めば時々見てくれるけど、私はあんまり勉強って好きじゃないから宿題で分からなかったところがあった時に聞くぐらいかな、最近は」


 舗装された道を進む片桐の足元からは、会話中もずっとコンコンコンという軽い靴音が響いていた。


 俺がつられるようにそちらを見ると、深い紫色の靴が目に入った。ヒールは低いみたいだが、どうやらそれが軽やかな音を生み出しているらしい。


「ああ憂鬱だ。あ、そういえば『ああ無情』っていう物語あるよね。フランス文学の」


「いや、初耳」


「一本のパンを盗んだことから始まるんだ。司教が銀の食器と燭台を主人公に差し出す場面が私は印象的です、凄く。また読みたくなって来た」


「読書好き?」


「かなり!」


 そう言った片桐の声は先程とは比べようも無いほどに弾んでいて、俺は何だかホッとした。理由は分からないが。


 ――駅から片桐の家までは徒歩で十分くらいだった。その間、片桐は今までに読んだ純文学やライトノベルやケータイ小説などの話をしていて、非常に楽しそうな様子だった。


 しかし、とある建物の前に立つと片桐は、ふうと溜め息をつき、


「着いたよー」


 と、とてもやる気の無い声で俺に教えてくれた。


 片桐が右手で示した目の前に建つのは、かなり立派なマンションで少しばかり驚いた。煉瓦風の建物で、見上げてみると二十階ぐらいまではありそうだった。


「ああ気鬱」


 そう呟いた後、片桐はエントランスへと進んで行き、俺も後を追った。


 入口付近に配置されたパネルを慣れた仕草で操作し、電気錠によって施錠された自動扉を解除した後にも、


「気鬱だ」


 と、片桐は小さな声でポツリと落とした。

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