第五章【糖分と塩分】2

 ――その日は珍しく頭痛がひどく、正直なところ休みたいと思った。熱は計っていなかったがどうもぼんやりとしてしまい、気を抜くと眩暈に支配されそうな予感すらした。それでも登校する意思を掲げていたのは今日が学年末考査であり、更に言うならば四日目、最終日だからである。休むわけにはいかない。


「大丈夫か?」


 と、家を出る瞬間まで心配をしてくれた叔父に礼を言い、大丈夫と告げて玄関扉を開ける。二月の下旬の冷たい空気の中、いつも通りに俺は駅へと向かった。


 否、いつも通りとはいかなかった。頭痛が本当にひどい。ここまでのはなかなか無いと思うぐらいに、それは猛威を振るっていた。電車の走行や停止に伴う振動ですら頭に響く。別に睡眠不足というわけでも無いので、やはり風邪を引いたという判断が有力そうだった。


 今回、俺は通学バスに迷わず乗り込んだ。しかし席に座れなかった為に、電車よりも強いその振動に立って耐え、そして何とか高校へと辿り着いた。この時、頭の内部の中心を抉るようにして痛みを与え続ける何者かの存在感は、ますます以て俺の中で顕著になっていた。


 そのまま試験を受けることになった俺は、自分の体調管理の甘さと不運を嘆いた。学年末考査と言えば一年間のまとめだ。成績にしっかりと反映されるだろう。大学進学を考えている俺としては、ここで点を落とすわけにはいかない。という半ば意地のようなもので、一時限目の数学Bから三時限目の古典までの本日の試験を乗り切った俺は、四時限目は保健室に行くことにした。残り、三×五十分間の授業に耐えられるとは思えない。早退も考えたが、内申のことを思うとその選択は却下だ。四時限目と昼休みを保健室のベッドで過ごせば、多少は頭痛もマシになるだろう。


 四時限目開始早々、教師に告げて教室を出た俺は、久し振りに保健室への廊下を歩く。静まり返った廊下は授業中だから当たり前だったかもしれないが、保健室の中まで静まり返っていたのはどういうわけだろう。


「無人か」


 思わず洩れた声。養護教諭の姿も無く、極僅かなエアコンの音と壁に掛けられた時計の秒針の音だけが、そこに置き去りにされたかのように響いていた。


 程良く暖かい室内は、試験で疲れた頭を芯から柔らかく包んでくれるような効果があった。だが、その芯は未だに突貫工事でもしているのかと聞きたくなるくらいの痛みが支配している。勝手にベッドを使わせて貰うことにした。横になり、カーテンを閉める。しかし、せっかくの誰もいない空間だというのに眠るに眠れない。ベッドの上で右を向いていた体勢を反対にしてみても、何も考えないようにしてみても、仰向けになってただぼんやりと天井の一点を見つめてみても、眠れない。頭痛がひどすぎる。


「ダメだ」


 腹立たしさから体に反動を付けて起き上がってしまったせいで、それがまた頭の中央にダイレクトに響き伝わった。これは頭痛薬を飲むしか無い、勝手に探させて貰うしか無い。そう考えてベッドを取り囲む真っ白のカーテンに手を掛けた、その時。


「失礼しまーす」


 コンコン、という控え目なノックの後に聞こえて来た声があった。カーテンを引こうとしていた手が反射的に止まる。


「あれ、誰もいないっぽいね」


「ホントだ」


「でも別に良いや、寝たかっただけだし」


「寝不足になるほど試験勉強?」


「ううん、単に眠たいだけ」


 声は二つ。女子生徒。その内の一つは明らかに聞き覚えがある。


「四時限目だけだよね? 昼休み終わったら帰って来るよね?」


 聞き覚えの無い方の声が憂いを含んで尋ねる。


「うん。どうかした?」


 答える声は、あっけらかんとしたもので。


「だって、この間もそう言って家に帰っちゃったでしょ。五時限目に来ないから保健室に行ってみたら、片桐さんなら帰りましたよ、って言われて。私、本当にびっくりしたんだけど」


「あー、ごめん。何だか面倒になって帰っちゃった」


「鞄も持たずに」


「定期と携帯さえあれば困らない」


 最後の「困らない」の後には音符マークが付いていそうな感じだった。


「じゃあ、今回はちゃんと戻って来てよ」


「分かった」


 会話が終わり、扉の閉まる音が生まれる。


 そうして再び静かになった後、


「あー……ねむーい」


 という、くつろぎ切った声が室内に響いた。


 今、出て行くと会話を盗み聞きしたようで嫌だなと思った。が、俺の頭の中で行われている痛みという名のオーケストラは、いよいよクライマックスに差し掛かったようで、とても耐え切れるものでは無い。頭痛薬というものに今すぐ出会いたい。そういうわけで、俺は意を決してカーテンを開けた。


「あら、相模原君」


 そこには予想通り、片桐が立っていた。


「何してるの?」


「頭が痛くてさ」


 声を掛けられたものの、俺は今、あまり余裕が無い。とにかく頭痛薬を探すという選択肢しか存在しない。養護教諭不在の保健室、ガラス戸棚の中に整列している薬瓶やら何やらに視線を次々と注ぐものの、どれがそれなのか分からない。ハッキリと分かりやすく「頭痛薬」とラベリングしておいてくれないだろうか。


「ね、何を探してるの? 体温計? それとも風邪薬?」


「頭痛薬」


 端的にそう返すと、つつつ、と片桐は俺の後ろを通って一番右のガラス戸棚をカタンと開けた。


「はい、お探しの頭痛薬。一つで良いの?」


 差し出された左の手、バファリンがあった。顆粒タイプ。


「ありがとう」


 受け取り、保健室内にある小さな台所みたいなところの蛇口を捻ると、


「大丈夫?」


 と、背中越しに片桐が言う。


 俺はサラサラと薬を含み、水で一息に流し込んだ。キュ、と水道を止めて振り返ると片桐と目が合う。


「風邪?」


「多分。あんまり近寄らない方が良いぞ。片桐は?」


 尋ねてから、ああ眠たいからここに来たのだったか、と先程の会話を思い出した。


「眠りに来た」


 大きく伸びをしながら片桐は悪びれた風も無く言うと、何故かその場で小さく跳ねて見せた。絶対に体調不良で眠りたいわけでは無いな、と思う。


「あー、それよりも。今回の試験、どうだった?」


 頭の痛みを堪え、壁に寄り掛かりながら俺は尋ねた。早く薬が効いてくれることを祈る。ダメなら帰宅後、病院に行った方が良いかもしれない。ちなみに風邪薬を避けたのは午後の授業で眠たくなったら困るからだ。


「まあまあ?」


 片桐が答える。何故に疑問形なのだろう。


「まあまあって、具体的にどれくらい取れそうなんだ?」


「んー……良く分からない」


「出来た、って手応えはある?」


「まあまあ?」


 会話が初めに戻ってしまった。片桐は話にあまり興味が無さそうに、また一つ大きく伸びをした。


「何だか凄く不安になるな、片桐見てると」


「えっ、何が?」


「うまく言えないけど、大丈夫かなって思うんだよ」


 具体的根拠があるわけでは無かった。ただ、俺の思ったことは、ぽつりと雨が落ちるかのように口から零れ落ちていた。


 片桐は、風船のようだった。ふわふわと自由に、そして頼り無く空を漂う風船。鳥につつかれる危険性や雨に打たれる可能性の中、まるでそれらを知らないが如くに、ただ自由に果てしない空をふんわりと飛んで行く。敢えて言うならば、それが根拠だろうか。俺はふとそんなことを思い、その情景が目に浮かんだ。


「何だか芳久と相模原君って似てるね」


 パチン、と風船の割れる音が聞こえた、ような気がした。この場合の風船は片桐では無く、俺の心の中にある何かを指す。


「どの辺りが?」


 平静を装い、俺がそう尋ねると、


「何かね、言うことが似てる。進路ちゃんと考えてるかとか試験どうとか、見てると大丈夫かなって思うとか、そういうのが」


 と、特に感情の込められていないような淡々とした調子で片桐は返して来た。


 実は今回の学年末考査、俺は片桐のことがどうにも心配になり、試験前に勉強を見ていた。何しろ単位を落とすかもしれないという情報を城井から聞いていた為、もしも一学年最後の試験の成績が悪かったら……と、最悪のケースを想像してしまっていた。


 試験前の短縮授業後を使い、全教科とは言わずとも苦手教科だけでも思い、理数系を教えていたのだが。どうやら片桐には応用力が不足しているようだった。記憶力は良いみたいなのだが形をそのまま覚えるだけらしく、ちょっと複雑な問題にぶつかると、クエスチョンマーク多発になってしまうようだった。確か、それを指摘した時にも告げられた。「芳久みたいな言い方をするね」と。


 何となく、心の内側がざわめく。澄んだ青空に僅かにノイズを含んだ黒い一本線が走るような、そんな感覚。理由は分からない。とりあえず頭痛が未だに続いているので、俺はベッドに座った。立っているよりは幾らかマシなような気がする。


「頭、痛いんだったよね。寝る?」


「そのつもりで来たんだけど、ひどすぎて眠れないな」


「そんなに?」


「そんなに」


 ここまでの頭痛は本当に珍しい。一刻も早く薬効やっこうが表れることを祈る。


「そういえば、片桐も眠りに来たって言ってたけど。授業は大丈夫か?」


 試験結果に問題が無くても、授業の出席数が足りなければ単位は取得出来ない。そんな俺の心配などは何処吹く風といった様子で、片桐はアッサリとした声で告げる。


「大丈夫大丈夫、今は漢文だから」


「何で漢文だと大丈夫なんだ?」


「漢文は割と真面目に出てるんだ、授業。成績も良いし。漢文って良く分からないけど、問題文そのものとか返り点の位置とか覚えちゃえば、出来るんだよね」


「確かに」


 それは共感出来る。俺は漢文が苦手なので、試験前はとにかく試験範囲の問題文暗記に努めた記憶がある。範囲には無い問題が毎回一つは必ず出題されるので、その問いの点数獲得率はあまり良くなかったが。

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