第三章【目撃と訪問】3

 片桐の様子も気になるが、正直、俺達がいなくなった後の職員室の様子も気になる。俺にしては珍しく大胆なことをしたものだ。後悔はしていないが。それどころか、もっとスマートな方法は無かったものかと頭の片隅で今、考えている。つまり、あの場で何かをすることは俺の中で決定事項だったのだ。あのまま立ち去るということは選択肢に無かった。


 ――俺の前方を行く片桐の歩くペースは、いつになく速かった。


「おい、片桐」


 振り向く気配ゼロ。肩を掴むにも俺の両手はプリントと鞄で塞がっている。


「片桐! これ置いて来るからさ、そしたら……えーと、レモネード奢ってやるよ。だから正門で待ってると良い……かも」


 うまい言葉が思い付かず、しかし早歩きに進んで行く片桐を止めたくて、何とか言った言葉がそれである。俺は、もう少しボキャブラリーを増やした方が良いだろうかと軽く悩んだ。しかし、振り向きはしないものの片桐はピタリと立ち止まった。まるで床に縫い留められたかのごとく。レモネードは有効だっただろうか。


 だが、片桐はいつまでも振り向かず話さずのままだったので、


「えーと、レモネード。好きだよな」


 と、俺は更に「レモネード」という単語を重ねてみる。


 すると、小さく頷く片桐が見えた。


 ――良かった。その時、俺は何とも言い難い安堵感を味わった。


「じゃあ、正門で待っててくれ。プリント置いたら行くから」


 またも片桐は小さく頷いた。


「ん、後でな」


 振り向かず黙りこくったままの片桐が気掛かりだったが、とにかくこのプリントを教室に置いて来ない限りは帰れない。まったくタイミングの悪い担任だよ。急いで教室へ向かいながらそう思ったが、しかし担任が俺を呼び止め無かったら俺は速攻で帰宅していたわけで。そうすると、さっきの場面には遭遇しなかったことになる。ということは、担任のタイミングは良かったのか?


 物事ってのは何事もタイミング勝負だと思う。勿論、努力とか運とか環境とか、そういう色々な要素が絡み合って事は起こるわけだが、タイミングが悪いと流れが塞き止められてうまく行かない気がする。今だ、という瞬間を見極めるのは難しい。それだけに、その瞬間を見極められた時というのは大きな成功を掴めるように思う。また、成功云々関係無く、タイミングというものは不意に訪れる。まるでそうなることが必然であったかのように。


「悪い、待ったか」


「ううん」


 まるで、さっきのように。隣を歩く片桐は無言のままだった。その視線は自分のつま先辺りを見つめていて、顔が下向き加減で。表情は俺には見えない。肩の辺りでサラサラと揺れる黒髪が視界に入るだけだ。


 事の顛末てんまつを聞こうかどうか、俺は少し悩んでいた。言いたくないことを無理に言わせるのは気が引けるし、職員室にいた時から今までの様子を見ていると、気軽に尋ねて良いことだとは思えなかった。何より、話を聞いてほしいと片桐自身が思っているかが分からない。沈黙を続け視線を合わせないのは、つまりそういうことではないかと思う。構われたくない、と。


 だが、本当に構われたくないのなら、一人でサッサと帰ったはずだ。それとは反対の気持ちが少しでもあったから――だから片桐は今、ここにこうしているのではないだろうか。


 まさか、レモネードにつられたからだけとは思えない。が、否定も出来ない。どうするべきか思案しつつ、俺は何となくだが一つの仮説を立てていた。というのも、片桐と言い合っていた柳田という教師は、俺が一年生の時に英語を担当していて、あまり良い噂を聞かない教師だったのだ。他の生徒同様、俺も好きになれない教師ではあったが、俺は教師というものに大して期待をしていないので周囲よりは冷めた目で柳田を見ていた。


 しかし、大して期待をしていない俺からしても、教師として授業をする気があるのか? と思わせるようなことが多く、辟易していた。五十分授業の内の半分近く、つまり全体の中で合わせると二十五分近くが授業とは無関係な話に費やされるのだ。それも、ほとんど毎回。授業料返せと時々、俺は思っていた。払っているのは俺では無いが。その、授業とは無関係な話が雑学とか万人受けしそうな面白い話ならばまだ良かったのだが、九十八パーセントが家族自慢という始末。娘が誕生日にネクタイを贈ってくれたとか、奥さんが作ってくれたパスタがうまかったとか、そういう話から始まり、家族は何物にも代え難い大切なものだからとか、家族との会話は大切にしなくてはならないとか。このような結論で締めることが大半だった。


 世の中には正論というものがある。世間一般的に見て、正しいとされる意見。そんなものは吐いて捨てるほどにある。ただ、それが全ての人間に当てはまるなんてことは有り得ない。価値観も環境もバラバラな多様な人間に、一つの意見がピッタリと綺麗に重なることは無い。そういう点を踏まえて考えると柳田は最悪と言っても過言では無く、家族自慢だけならまだしも、その自分の価値観や考え方を他者に押し付ける態度は敬遠されて当然のように思えた。


「あーあ」


 公共のバス停を過ぎたところで、片桐が溜め息をついた。


「瞬間的にリセットを発動させることが出来なかったよ。まだまだ子供だよね、私」


「子供だろ? 十六歳になったばかりじゃないか。それを言うなら柳田は三十六だぞ。大人として、あの対応はどうかと思う」


 不意に視線を感じて俺が目線を下げると、カチリと片桐と目が合った。


「柳田先生情報に詳しいね」


「俺が一年の時の英語担当だったからな。良くは思われてなかったけど」


「そっか、変わってないんだ」


「そういうことだな」


 再び、片桐が下を向いた。


「咄嗟にリセットを発動するのはやっぱり難しいなー。なかなか習慣にならない」


「そういえば以前に言ってたよな。嫌なことはリセットして忘れるようにしてるって」


「大正解!」


「さっき、嫌なことあったのか?」


 割と自然に尋ねることが出来たような気がする。俺は事の顛末を聞きたいという心情が、ただの興味本位から生じているのか片桐への心配からかなのか、明確には分からなかった。しかし、片桐が理由も無く教師に対してあのような態度を取るとは信じ難い。俺は、それが知りたかった。


「プリントをね、持って行ったのですよ」


「うん」


「サッサカ渡してサッサカ帰ろうと思っていたのに、呼び止められて」


「うん」


「片桐はお父さんが好きか? と」


 どうも、俺の予想が当たりそうな感じがする。


「で、とりあえず黙っておいたらですね。反抗期かもしれないがお父さんと仲良くしないとダメだぞ、と」


 お母さんは良いのだろうか?


「更に黙っていたら、家族っていうものは世界に一つしか無い、かけがえの無いものなんだ、だから大切にしないと、と」


 柳田の言いそうなことだな。


「それで、何て反論したんだ?」


「ご自身がお幸せなのは結構ですが、そのような軽率かつ不躾な言葉を他者に告げることはお控えにならないと人格を疑われますよ、と」


「うわ、言い過ぎ」


 俺は正直、凄く驚いた。まさか片桐がそこまで言ったとは予測していなかった。


 しかし当の本人は、


「言い過ぎかな?」


 と、激しく疑問に思っているような顔と口調で俺を見上げた。


「それは言い過ぎだろ、いくら何でも。せめてもっとこう、オブラートに包んで言うとか」


「でも、私だってあんなこと言われなければ言わなかった言葉だよ。言い過ぎはあっちじゃないの?」


 若干、不満そうに片桐は言った。


「確かに事の発端と原因は柳田にあるとは思うんだが……」


「ま、私が大人になりきれなかった愚かな子供というわけなのです」


「いや、何もそこまで」


「来年の英語は違う先生になると良い。じゃないと、英語の成績が下がりそうだよ」


 き道にあった小さな石を軽く蹴飛ばし、片桐はポツンと落とすように言った。俺は何だか居た堪れなくなり何かを言おうとしたが、


「ま、こんなにちっぽけなことを気にしていても始まらない終わらない状態なので、やめます。リセットします」


 と、綺麗サッパリな口調で片桐が言ったので、そのタイミングを逃してしまった。


「あ、リセットする前に一つお尋ねしたい事柄が。職員室でプリントをバサバサーっと落としたのって、故意と過失どっち?」


「故意」


「うわ、勇気あるんだね、相模原君」


「俺も自分で自分に驚いたよ」


 俺は、問題を起こさない・巻き込まれない・騒がない、をモットーとしている節がある、ような気がする。いわゆる、事なかれ主義というやつかもしれない。何て言うか、面倒なんだよな。くだらないことに、いちいち腹を立てたり注意をしたりすることが。そこに何のメリットがあるのか考えずにはいられない。特に高校なんて人生におけるただの通過点に過ぎず、今後、俺が大学に進学しようが就職しようがそういう長い人生の中で振り返れば非常にちっぽけな点でしかないわけだ、高校生活というやつは。


 内申書が良ければ進学に有利。だから成績は上がるように努力して来たし、今もしている。推薦されて仕方無くとは言え、学級委員をしているのも、その為。素行に気を付けているのも、その為。


 別に、そこに不満も苦痛も無かった。逆らわず、反論せず、問題を起こさず問題に巻き込まれずにしていれば、日々は穏やかに緩やかに過ぎて行く。という、響野に言わせれば「緩い人生」とやらを送っていた俺が、まさか静寂に包まれた職員室という場所でわざとプリントの束を落として大きな音を立てた上、教師二人と生徒一人の間に入って仲介役を務めてしまうとは。


 他の誰でも無い、俺が俺に驚いたよ、本当に。


 しかし、片桐が柳田に言ったらしい言葉にも驚いた。確かに片桐はちょっと変わった奴かもしれないが、そこまでの発言を教師に向かって、しかも職員室でするとは。そういえばあの時、職員室にいた教師らの視線のほとんどが片桐達に向けられていたというのに、片桐は周りを全然気にしていない風だったな。肝が据わっているのかな。


「あ、レモネードをごちそうしてくれるんだよね?」


「ごちそうってほどでも無いけどな」


 駅前のコンビニが見えたところで、片桐が弾むような声で言った。いつもの通りに俺の分は缶コーヒーを買おうとしたが、何となく俺もレモネードを選んだ。


「あら、お揃い!」


「どんな味なのか気になってな」


 駅のベンチに座って、俺は生まれて初めてレモネードとやらを飲んでみた。


「甘い……」


「蜂蜜入りだもんね。でも、そんなに甘い?」


「普段、あんまり甘いものは飲まないから。でも、たまには良いかもな」


「私は毎日飲みたいです、レモネード。炭酸で割っても素敵なおいしさです」


 そう言い、大切そうにレモネードを飲む片桐。


 ――やがて電車がホームへと走り込んで来て、俺が立ち上がると何故か片桐も続いて立ち上がった。


「あれ、片桐はあっちだろ?」


「今日は、こっちなの」


 疑問に思う俺を追い越し、片桐は先に電車へ乗り込んで手招きした。


 ガラガラに空いた車内の座席に座り、俺は残りのレモネードを飲んだ。片桐はと言えば、携帯を片手にカチカチと忙しなく指先を動かしている。打ち終わったのか、片桐は脇に置いていたレモネードを手に取り、キュルリとキャップを開けるとおいしそうに飲んだ。


「幸せすぎる。ありがとね、相模原君」


「いや、そんな大したことじゃないし」


「大したことですよ! 大切なマネーを自分以外の人に遣うのですから」


「そういえばクリスマスの時に言ってたけどさ、なんか俺のことをお金大好き人間とか思ってない?」


「ん?」


「そう言ってただろ、あの日」


 片桐は罪の無い笑顔を見せ、


「何となくですよ、何となく」


 と、言った。


「何となくか」


 俺は、何となくお金大好きに見えるということだろうか。それは凄まじく嫌だな。


「ま、みんなお金は大好きなんだから、気にしない気にしない」


「いや、俺は金が大好きだと一言も言った覚えは無いぞ」


 そういう特に意味の無い会話をダラダラと続けている内に、俺の最寄り駅に到着した。


「あ、私も降りる」


 片桐は俺にくっ付いて来るようにして、電車から軽やかに降りた。


「じゃあ、私は乗り換えるからここでバイバイです」


「ああ、またな」


 ヒラヒラと舞う蝶のように片手を振り、片桐は階段を素早く駆け上がって行った。


 レモネード効果なのか、片桐自身のリセット効果なのか分からないが、どうやら少しは浮上したみたいだった。俺は安堵感を覚えつつ、改札を通って帰路を辿った。


 電車内で話している時は明るい声と表情だったし、別れ際に手を振って見せた時も片桐はニコニコ笑っていた。だから、俺は安堵したんだ。


 ――まさかその後、片桐が六日間も学校を休むとは思わなかった。

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