第三章【目撃と訪問】2

 冬休みの最終日。片桐から貰ったコーヒー豆は、まだ半分以上残っていた。


 年末は、例年のように紅白歌合戦を観ながら年越し蕎麦を食べた。正月には、おせち料理、雑煮を食べた。気のせいか体が少し重い……気がする。気のせいかもしれないが。餅は意外に体内に蓄積されるようだ。


 そして冬休み明け、だるく重たい体を引き摺るようにして登校した新学期初日。また面倒で単調な、連続した学校生活かと思うと本当にだるい。教師もクラスメイトの顔も見飽きてしまった。みんな、お面でも着けてくれば良いのに。変化があって新鮮で楽しいと思う。俺は着けないが。などと勝手なことを考えつつ、俺は始業式をやり過ごした。


 新学期初日から通常通りの授業が始まるということで、今日から早速、時間割通りの授業である。だるい。眠い。帰宅希望。救いは、五、六時限目が音楽だったことだろうか。しかし、逆に脳味噌のフワフワ感に拍車を掛けたような気がしないでも無い。


 だるだる感の漂う一日がようやく終わり、さあ真っ直ぐ帰宅するぞと軽く意気込んで俺が鞄を手にしたところで、


「あ、相模原」


 と、担任教師に呼び止められた。


 俺の帰宅を邪魔するからにはそれなりの用事なんだろうな、つまらない用だったらどうしてくれよう、いや、どうにも出来ない。


 という心情など露ほども出さず、


「はい、何ですか」


 と、俺は尋ねた。


「明日の漢文、自習なんだ。悪いが、今からプリントを取りに来てくれ。で、明日の四時限目に配ってくれるか」


「はい、分かりました」


 心とは真逆の返答をし、俺は担任に付いて廊下を歩いた。


 実は俺は学級委員という非常につまらないものをやっている。高二の一学期、誰も立候補者がいなかったので沈黙が流れる教室内において、こともあろうに俺を推薦した奴がいた。同じ中学校だった友人、響野ひびきのの高らかな推薦によって、俺は学級委員になってしまったのだ。一年間通じての。学級委員なんて結局はパシリみたいなものだ。面倒この上無い。


 ――先日、響野は「高校生の時の恋愛は高校生の時にしか出来ない」という当たり前のことを、ひどくもっともらしく俺に語った。


 何が言いたいのか良く分からないが、響野は恋愛願望があるということだろうか。高校生という今において。対する俺は、別に恋愛がしたいとは思わない。恋愛がしたくないわけでも無いが。つまり、あまり興味が無いのかもしれない。


 今日、


「そういえば、あの子と仲良くなった?」


「片桐のことか?」


「そうそう」


「別に仲悪くは無いけど」


 という会話を響野とした。


 どうも、アイツは俺と片桐が付き合う一歩手前だと思っているらしい。勘違いも甚だしい。そういえば、俺と片桐って何だろう。友人だろうな、多分。そんなことは考えなくとも分かることだ。響野がうるさいから余計な思考が生まれてしまった、それだけだ。


「じゃあ、これ。新学期早々に自習で悪いが、よろしくな」


 担任教師から渡されたプリントは数十枚でワンセットになっていて、それが人数分、つまり三十六部もある。厚さも重さもある。後者は、大したことは無いが。どのみち教室に戻るのなら鞄を置いて来れば良かった。仕方無い、鞄を横に持って、その上にプリントを積むか。本当に面倒だな。そう思いながら持ち運びやすいように鞄とプリントを抱え直し、踵を返したところで、視界に片桐の姿があった。考えてみたら俺と片桐は学年が違うせいか、校内ですれ違ったことは無いかもしれない。だから、帰る時以外で片桐を見かけるのは珍しいな、そう思いつつ職員室の出口に向かって歩いていた時だった。


「ふざけるな!」


 怒号が響き、それは俺の足を止めさせた。


 声の大きさに驚いたからというのもある。しかし、それよりも、怒鳴り声は片桐のいた方から聞こえてきたからという理由が大きい。


 気付けば、職員室中がシンとしてしまっていた。片桐と、その向かいにいる教師に視線が集まっている。


「ふざけるな、って馬鹿にするなという意味でしょうか。私は、そんなつもりは無いのですが」


「なら、どういうつもりだ!」


 冷たい水のように静かな片桐の声と相反するように、男性教師の声は燃え盛る火のようだった。


「どういうつもりと言いましても……先程に申し上げた言葉通りの意味なのですが」


「生徒が教師にあんな言い方をして良いと思っているのか?」


「では、教師ならば生徒に何を言っても良いとでも?」


「片桐、お前のその言い方がだな……!」


 二人の会話の応酬が始まってしまったところで、


「まあまあ柳田やなぎだ先生、片桐も。どうしたんですか」


 と、俺のクラスの担任であり学年主任でもある城井しろいが止めに入った。


「ああ、城井先生」


 柳田は城井の声に顔を上げたものの、そこから先を紡ごうとしない。片桐も黙ったままだ。


「一体、どうされたんですか」


 城井が重ねて尋ねると、意外にも口を開いたのは片桐の方だった。


「何ということはありません。柳田先生が発した言葉に私が言葉を返し、会話というものが生まれただけです」


「そう……か? 柳田先生、何か問題があったのでは?」


「問題というか……その、片桐の言い方がですね、生徒として相応しく無かったもので注意をしたんですが」


 しばし沈黙が流れた。


「そう仰るのでしたら私も申し上げます。あなたの言い方は教師として相応しくありません」


 と、沈黙は片桐の静かな声によって破られた。


「片桐! 大体お前は普段から人を馬鹿にしたような態度で、一度きちんと注意をしようと思っていたんだ。どうしてそういう物の言い方をする?」


「最後の問いは、そのままお返し致します」


「片桐!」


「柳田先生、落ち着いて下さい。片桐もやめなさい」


 城井が間に入ったものの、収拾は付かないままだ。


 その場を動けず、片桐たちから視線を外せなかった俺は、自分でも意外な行動に出た。


 俺が両手を離すと、勿論抱えていたプリントの山は鞄ごと一気に床に落ちる。そして、ドサドサドサッという大きな音がして、職員室にいる人間の注意も視線も俺に向く。


 案の定、片桐たち三人も俺を見ていた。


「あ、すいません」


 と、心にも無いことを言いつつ、俺はスタスタと三人に歩み寄った。


「差し出がましいようですが皆さん少し興奮していらっしゃるように思います。この場は収めて頂いて、その上で何かあるようでしたらまた後日、ということにしてはいかがでしょうか」


 灰色のスウィブルチェアに座っている柳田が、ポカンとした顔で俺を見た。


「あ、僕は二年一組の相模原です」


 すると城井が我に返ったように、


「そ、そうだな。柳田先生、私で良かったらお話を聞かせて頂けますか? 片桐にはまた別の日にでも、改めて話をする場を設けるなりした方がよろしいかと」


「あー……そうですな」


「じゃあ片桐、今日のところは帰りなさい」


「……はい」


 城井の言葉に返事をした片桐の表情からは、何も読み取れなかった。そして片桐は俺の横をすり抜けて、職員室の出入り口へと歩いて行く。


「それでは、失礼致します」


 と、俺は教師二人に頭を下げ、片桐の後を追った。


 片桐は、さっき俺が落としたプリントの束を拾い集めていた。その表情は見えない。俺も無言でプリントを集める。職員室内は静寂が押し包んでいて、何とも重苦しい空気である。


 パサリ、と目の前に差し出されたプリントの束。片桐は無言だった。


「ああ、ありがとう」


 俺がそれを受け取ると素早く立ち上がり、片桐は出入り口へと歩き出す。慌てて俺はプリントを揃えて鞄ごと横抱きにし、早足にて職員室を後にした。

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