第二章【山頂と山麓】9

 ――ケーキと紅茶の時間をゆっくりと楽しみ、少しばかり休んだ後、俺たちはレストランを出た。ちなみにケーキと紅茶は片桐が持って来たチケットのおかげで無料である。有り難い。有り難いのだが……やはり俺は先程の片桐の様子が頭から離れなかった。チケットについて尋ねた時の片桐の様子が。しかし今更、聞くことは出来ず、俺は自分の不甲斐なさを軽く嘆いた。


「おいしかったね!」


「ああ、そうだな」


「さーてと、次は何処に行く? 雪だるま作る?」


「いや、作らない」


 片桐の言葉は、何処から何処までが本気で、何処から何処までが冗談なのか分からなくなることが非常に多い。それが面白さと言えばそうなのかもしれないが。


「行きたい店があるんだけど良いか?」


「勿論!」


 雪に飾られたアスファルトの道を俺が先に立って歩き始めると、それに倣うようにして片桐が付いて来る。


 やがて隣に並んだ片桐は、


「真っ白で綺麗だね」


 と、前方を見ながらポソリと言った。


「雪が好きみたいだよな」


「うん。好き」


 夢みるような瞳で片桐が答える。


「雪が降っている時に良く思うんだ。このままずっと降り続けて積もり続けて、世界なんか隠してしまえば良いって」


 心ここに在らずのような夢見心地のような目で、片桐が語る言葉は悲嘆的だった。そして、その声は囁くように小さく、まるで雪に吸い込まれんとするかのようだった。


 どう返すべきか分からず――と言うよりも、片桐が突然に放ったそれに驚いて――俺は言葉を失ってしまった。


「あら、びっくりしちゃってる? 冗談だよ冗談。単に雪は魅力的だよねっていうお話だよ」


 少しの沈黙の後、片桐が明るくポップな様子で言った。


「こんなに綺麗なのに冬にしか出会えないんだから残念だよね。残念賞」


「そういえば、確か雪は空気中のチリやホコリを核にして、水蒸気を纏わせながら降って来ているんだったような……」


「えっ、チリにホコリ! 恐ろしい! 私は雪を食べたりしているというのに……もう食べられない」


「それって小さい頃の話じゃなくて?」


 え、今でもサクサクいただいていますよ? と、疑問に満ちた俺の顔を見上げて幸福に満ちた顔の片桐が言った。


「しかし、チリやホコリ……うん、今日でやめよう」


「今日もやめておいた方が良いぞ」


 真剣に呟いた片桐に、俺も真剣に返した。


 そういう、きっと他の人間から見れば他愛の無い会話を繰り返しながら俺たちは歩いた。いや、当人である俺たちからしても他愛の無い会話だろうとは思う。しかし、それがとても楽しく、ささやかでありながらひどく大切なものに思えた。日常は、そういうものの積み重ねで成り立っているように思えるから。空中を漂い泳いだ雪が、少しずつ地表に降り積もるように。


「見えて来た。あの店」


 俺が指を差して示すと、


「あっ、お花屋さん! 大好き! 花には人を幸せにする力があるのですよ。知ってる? 結婚式でも花束を投げるし、お祝い事には花束が似合うのです」


 と、幾分か興奮気味に片桐が言った。


 そう、お祝い事。本日、十二月二十五日はクリスマスであり、片桐綾の誕生日。それならプレゼントを贈ろうと考え、俺は生まれて初めて花屋に電話し、花を注文した。誕生日用ということでラッピングを頼み、二十五日の午後に取りに行くという約束を三日前にしてある。


 正直、花なんか良く分からない。道端に咲いているタンポポ、花壇に咲いているチューリップやヒマワリ、公園にある桜の木や、近所の通りにある藤棚ぐらいが、俺の花についての知識の関の山だ。冬の花とか、詳しいはずも無い。そんな俺が注文した花は、花の部分はとても小さく、花だと思っていたところは花では無いという、何とも不思議な花だった。


「ポインセチア!」


 片桐が言った。


 そう、ポインセチア。十二月になると、花屋やホームセンターなどに多く並べられている。その多くは真っ赤だ。まるで火のようなその部分を俺は花びらだと思っていたのだが、どうやら違うらしいことが三日前に分かり、理解した。花びらのように見えるあの赤い部分は、花でも葉でも無い。花のつぼみを包む、ほうという部分らしい。花は、中心部に複数で固まっている小さなものだ。


 と、俺は花屋にポインセチアについて問い合わせた時に聞いた。


「うわ……真っ赤」


 店員が持って来たポインセチアは透明のフィルムにふんわりと包まれ、その上部は苞と同じ赤い色のリボンで結ばれていた。


「綺麗……」


 片桐は、この空間には自分とポインセチアだけだとでも言うかのように、じっと見入っていた。


 少し大きめの紙袋に収められたポインセチア。片桐は、それを大切そうに受け取った。


 花屋を出て、


「この後、どうする?」


 買い物とかカラオケとか。そう続けようとして、片桐が俯いていることに気が付いた。


「どうした?」


 俺の問い掛けに、片桐は黙って首を横に振った。


 何かマズいことをしただろうか。実は花が嫌い――さっきの様子から考えて、それは無いな。ポインセチアに何か悲しい思い出がある。体調が悪い。もう帰りたい。どれだ?


 考えても分からないのだから聞くしかない。そう思って再度、尋ねようとした時、


「花、貰ったの初めてなの」


 と、小さな声で片桐が言った。


「凄く、嬉しくて。凄く……」


 街のざわめきに掻き消されてしまいそうな小さな声は、けれど確かに俺には聞こえていた。


 ――花屋を後にした俺たちは、片桐の希望でカラオケに行った。片桐の歌声は、まるい、飛び跳ねるようなもので、まさに片桐そのものという感じだった。


 二時間、歌った後は駅前に戻り、雑貨屋に寄った。白を基調とした店内は明るく、所狭しと沢山の雑貨が並べられていた。鍵をモチーフにしたストラップやネコのぬいぐるみ、冬季限定ホワイトチョコレートなどを次々に見ては目を輝かせる片桐。


「あ、これ買おう。素晴らしくおいしそうだよ」


 片桐が手を伸ばした先には、水晶玉のように丸いガラス製の入れ物。中には色とりどりのキャンディーが詰められていた。


「買って来た」


 かさり、と小さな紙袋を掲げて見せた片桐は、宝物を見付けたような笑顔だった。


 雑貨屋を出ると、まだ夕方の時刻にも関わらず空は薄暗く染まっていて、そこにはいくつかの小さな星が光って見えた。


「あら、真っ暗」


「冬は日が短いからな」


「ね、夕食はどうする? 私ね、何だかお腹いっぱいなんだ。モリモリ食べたくない予感で満ちています。軽くなら食べたい」


「じゃあ喫茶店でも行くか?」


 ということで、俺と片桐は駅前のコーヒーショップに入った。


 俺はエスプレッソとチョコチップのスコーン、片桐はココアとアップルパイ。


「アップルパイを考えた人は誰だろう。こんなにおいしい食べ物を食べられる私は幸せだなー」


「片桐って、幸せが顔に出るよな」


「あ、そうかも。チョコレートパフェを食べている時に、おいしそうに食べるね、って言われたことがある。自覚は無いんだ」


「おいしそうに食べるってのもあるんだけど、何かこう、幸せって感じが顔とか片桐全体から発信されていると言うか」


 実際、見ていて本当にそう思う。こっちまで幸せになりそうな雰囲気が片桐から出ていて、それが辺りを包むような気がする。


 コーヒーショップを出ると、空は本格的に黒一色に染められていて、銀色の星の光が先程よりもハッキリと輝いて見えた。十二月の風はヒヤリと冷たく、冬という季節を確かに知らせて来る。駅に向かう俺と片桐は他愛無い話をする中で「寒い」と何度か口にしていた。


「ただ寒いだけなんて損した感じになるんだよね。寒いなら雪が降ってくれないと」


 駅のベンチに座って、片桐が不満そうに言った。


「あっ、これ。ささやかなクリスマスプレゼントです」


 はい、と片桐から唐突に差し出された紙袋から、ふわりとコーヒーの良い香りがした。


「コーヒー豆なんだ。挽いてあるからすぐ飲めるよ。あっ、コーヒーメーカーある? もしくはドリッパー。うっかりしてた」


「もしかして、さっきの店で買ったのか?」


 俺は意外性を突かれて少し驚きながら尋ねた。


「大正解です! あれ、コーヒー好きだよね?」


 少しばかりの疑問を含んで片桐が問い掛ける。


「ああ、好きだけど。言ったかな」


「ううん、何回か飲んでいるのを見たし。好きなのかなーと。当たってる?」


「当たってる」


「良かった! ザ・勘違いだったらどうしようかと思った。いらないよって返されても私はコーヒー飲めないし」


 片桐はホッとした様子になり、疲れを取る時のような感じで手足を伸ばした。


「片桐はコーヒー飲めないんだな」


「んー、絶対に飲めませんよってわけじゃないんだけどね、お腹痛くなるんだ。コーヒー自体は嫌ってないんだけれども。お砂糖と牛乳を大量に入れて飲むなら好き。まるでコーヒー牛乳のようにするんだ。あれはおいしい」


 おいしさを思い出しつつ言っているような片桐に返事をしながら、俺はもう一度、コーヒー豆に視線を落とした。


「これ、ありがとな」


「いえいえ。相模原君もありがとう、ポインセチア。大切にお育てするから安心してね」


 ポインセチア。そういえば俺はまだ、誕生日のお決まりのセリフを言っていない。


「片桐、誕生日おめでとう」


 その時、温かく笑っていた片桐の表情がびっくりしたような表情に一瞬で変わった。そして、きょとん、という言い回しが似合う目になってしまった。


 ――あれ、今日って片桐の誕生日だよな?


 俺は密かに自分に尋ねてしまった。それくらい、片桐の様子はきょとんとしていたからだ。


「あー……そう、そうだった。今日は私のお誕生日でした。そうだったよ」


 自分自身に確認を取るように、片桐は独り言めいた声で言った。


「え、嘘だったとかじゃないよな?」


「あら失敬な。本日、十二月二十五日は正真正銘、片桐綾のバースデイですよ?」


「それにしては今、思い出したみたいな口振りだったから」


「あ、ちょっとうっかりで」


 ちょっとうっかりして、自分の誕生日を当日に忘れるものだろうか。しかも今日は片桐が「誕生日だから祝って」ということで誘って来たというのに。


「誕生日を祝ってもらえるのって意外に嬉しいね。雪まで降ってくれたし、今日は本当に良い日だね。ありがとう、相模原君」


 疑問を感じている俺に片桐はそう言い、自身の黒髪を撫で付けながら微笑んだ。その笑顔は、いつものパッと明るく花開いたようなものでは無く、照れたような遠慮がちな表情だった。


「いや……良い日になったなら良かったよ」


「うん、ありがとう」


 静かな沈黙が、ごく自然な感じに流れた。


 ――やがて電車の到着を告げるアナウンスが響き、俺はふと電光掲示板を見上げた。


「片桐って電車どっちだっけ」


「あっちだよ、一番線」


「じゃあ同じか」


「同じですね」


 俺たちはどちらからともなく立ち上がり、一番線ホームに足を進めた。


 途中まで片桐と俺は同じ電車に揺られて帰路を辿り、その間にした話と言えば、さっき買ったキャンディーを食べるのが楽しみとか、さすがにもう雪は降らないだろうとか、サンタクロースの存在を信じるか否かとか、そういうささやかなものばかりだった。しかし、それらは非常に新鮮で楽しく色鮮やかなものとして俺の心に残った。そして、降車間際に言った片桐の明るい、けれど静かな言葉が特に心に残された。


「誕生日をお祝いしてもらうと、ここにいてもいいんだよって言ってもらえたような気がするんだ」


 ――降りたところで手を振る片桐はいつもの朗らかな笑顔なのに、俺にはどうしてかその笑顔が切なく見えた。

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