第二章【山頂と山麓】3

 ――そんな風に、彼女は楽しそうだったから。


「やっぱり冬は寒いねー。冬なのに暖かいような異常気象よりは良いけどね」


 振り向いて、白い息を吐きながら言う彼女。


「もう雪は降らないのかな」


 人のまばらなプラットホームのベンチに座り、空を見上げて言う彼女。


「ね、今日楽しかった?」


 重く垂れ込めるような冬の薄暗い空から、パッと俺に視線を移して尋ねた彼女。


「ああ」


 俺が頷くと、ひどく嬉しそうに彼女は笑った。


「何か飲むか?」


「ねえ、ちゃんと名前覚えてる?」


 質問を質問で返され、俺は少しばかり戸惑った。その迷いが顔に出たらしく、それを質問内容への答えと受け取ったらしく、彼女は言った。


「覚えられていないのかな、私の名前。たった六文字、されど六文字。相模原君は七文字、ちゃんと覚えたのにな。私の名前は記憶からリセットされているの?」


「いや、覚えてるよ。なあ、この前の全校集会の時、壇上で表彰された?」


「あ、見ててくれたの?」


「見てたというか……クシャミの聞こえた方向を見たというか」


 忘れ掛けていた、少なくとも思い出すことの無かった十日前の記憶が、ふと呼び起こされた。壇上にて盛大にクシャミをし、「リセットで」と発言し、周囲の目など物ともしない流麗な動作でステップを下りて行った彼女。


「そのリセットって良く使うのか? そういえば、以前に本屋でも聞いたような気がするな。どっちの本を買うかで迷ってて」


「あ、それ私。絶対私」


 話を遮って勢い良く肯定をし、


「今日より前に結構多くの接点があったんだね」


 うん。と、一人頷きながら彼女――片桐綾は言った。


「あ。私、何か飲みたいな。買って来るね」


 チョコレート色の小さなバッグの留め金をパチンと開けた片桐が、財布を見付ける前に俺はベンチから立ち上がった。


「何が良い?」


「ごちそうしてくれるんだ! 凄い! ブラボー! 是非、レモネードをお願いします。あったか~い、にあると思う。無かったら、ミルクティー。それも無かったら、ストレートティー。よろしくお願い致します」


 アルファベットの「V」の小文字を小さくしたようなハートが、語尾に付いていそうな調子で片桐は言った。


「レモネードかミルクティーかストレートティーな」


「うん」


 丁寧に第三希望まで伝えて来た片桐。何となく「らしい」と思った。


 改札機横にある二台の自販機のうちの片方に、片桐の第一希望であるレモネードがあった。ボタンを押してすぐにガタンと落ちたレモネードを拾い上げながら、そういえば昨日もこれを飲んでいたなと思った。


 俺はいつものように缶コーヒーを買い、元いたベンチに戻り……掛けた。


 ――片桐は、目の前に広がる空を見ていた。時刻は午後五時過ぎ、十二月半ばの冬空は既に暗く。まだ月は無く、星も無い。その闇を、片桐はぼんやりと見つめて座っていた。まるで、さっきまでとは別人のようだった。楽しそうに笑っていた片桐は何処へ行ってしまったのかと、そんな疑問が頭の中に浮かんですぐに消えた。片桐は片桐だ。今、そこにいる。


 ジャリ、という俺の足音に気が付いたのか、片桐は瞬時にこちらを見た。


「あ、レモネードあったんだ」


 一度、視線を俺の手元に向けてから俺を見上げた片桐の表情は、明るい笑顔で満ちていた。今度は、先程の夜空を見ていた片桐が別人のように思える。


 レモネードを片桐に手渡し、俺は缶コーヒーを手にベンチに座ろうとした。すると、さっきまで俺が座っていた場所で、皓々こうこうと携帯電話のディスプレイが光っているのが目に入る。危うく圧力を掛けてしまうところだった。


「あ、ごめんごめん。つい、うっかり」


 サッと携帯を持ち上げてパチンと閉じ、押し入れるようにしてバッグに仕舞い込む片桐。


「大丈夫か、それ」


「だってバッグが小さくて」


 片桐はチョコレートカラーのバッグの留め金を無理矢理に閉めたようで、バチン、という力強い音がした。


 そして以前のように、ホットレモネードの入った小さなペットボトルを大切そうに両手で持ち、その温かさを手のひらで味わうようにしながら、少しずつ飲んでいる片桐。俺も以前のように缶コーヒーを飲む。冬の寒い外で飲むホットコーヒーは本当にうまいと思う。


「人間って、嫌な記憶は忘れて行ける生き物なんだって」


「え?」


 唐突に言った片桐に対し、思わず俺は振り返り、聞き返した。


「人間は、嫌な記憶は忘れて行ける生き物なんだって。でも、連続した毎日の中で生じる嫌なことの全てを、忘れられるわけじゃないと思うんだ。そんな仕組みだったら、多分困るし。でも、忘れたいことって、やっぱりあるから。だからリセットしてるんだ、私は」


 一息に言い、片桐は手元のレモネードに視線を落とした。その横顔が、少し寂しそうに見えたのは気のせいだろうか。あるいは、外の暗さのせいだろうか。


 何かを言おうと思うも、言葉が見付からず。結果的に黙ったままになってしまった俺に、


「あれ、黙っちゃった。さっき聞いたよね? リセットって良く使うのか、って。だから理由をお答えしてみた次第なんだけれど、何かおかしいこと言ったかな?」


 と、心底不思議そうに尋ねて微かに首を傾げた片桐。


「ああ、いや、おかしくない」


「そ?」


 ――その時、電車の到着を告げる、お決まりのアナウンスがホームに流れた。


「もう来た! 早く飲まないと」


「ペットボトルなんだから、キャップを閉めておけば良いんじゃないのか」


 という俺のアドバイス空しく、片桐は一気にレモネードを喉へと流し込んでしまった。熱くなかったのだろうか。


「相模原君も早く早く」


 確かに、缶コーヒーにキャップは無い。俺は片桐に倣うようにして残りのコーヒーを飲み干した。少し、熱かった。


 俺と片桐は、途中までは同じ電車だった。その間、片桐はとても良く喋った。電車内ということを意識してか、いつもより若干、小さな声で。その内容は、パンがやたらおいしかったとか、ヒヤシンスの水栽培についてとか、雪がもっと降ってほしいとか、もうすぐクリスマスだけどサンタクロースって信じてる? とか、そういう他愛の無い話ばかりだった。だからと言って退屈かと聞かれれば全くそんなことは無く、むしろ、ありふれたような話が片桐の口を通すと何故にこんなに面白くなるのだろうと、隣で片桐のそれを聞きながら、俺は心の片隅で考えていた。


「あ。次、降りるよ」


「そうか。乗り換え?」


「うん。相模原君は?」


「次の、二つ後」


 窓から見える景色は既に夜色に染まっていた。冬は日が落ちるのが早い。


 暗いし気を付けて帰れよ、そう言おうとした矢先、


「もうすぐ冬休みだね」


 と、片桐が言った。


「ああ、そうだな」


「何処か旅行に行ったりとかするの?」


「いや、行かない」


「私の誕生日、クリスマスなんだ」


 いきなり話が飛んでしまった。


「だから、是非お祝いしない?」


「片桐の誕生日を?」


「そうそう」


「えーと……」


 あまりに唐突で、俺は少しばかり考えた。


「あ、着いちゃった」


 電車は、片桐が乗り換える駅に停車しようとしているところだった。


「今日は来てくれてありがとう! じゃあ、誕生日についてはまた今度ね。ではでは」


 いくらか早口にそう告げて、片桐は電車を降りて行った。そして、降りたところでクルリとこちら側を向き、ダイヤモンドゲームの駒のように背筋をピンと伸ばして立っている。


 やがて電車がゆっくりと走り始めた瞬間、片桐は右手をひらひらと振って笑顔で見送ってくれた。つられて俺も軽く手を振ったが、電車は僅かにスピードを上げて走り始めていた為、それが片桐の目に入ったかは分からない。


 本来の勢いで走行を始めた電車が駅を後方へと送った時、急に気恥ずかしくなって俺は手を下ろした。電車内にあまり人がいなくて良かったと思った。

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