第二章【山頂と山麓】2
会計を済ませて店を出ると、
「おいしかったね! 凄く!」
そう言って彼女は俺を振り返った。「凄く」にアクセントを置いて同意を求めるように笑ったその笑顔が、まるで一枚の絵のように印象的で。
「ああ。にしても、本当に嬉しそうだな。こっちまで楽しくなる」
「ホント! 良かった! それが一番だもんね。私だけが楽しいより、一緒にいる人も楽しいと思ってくれた方が遙かに良いもん」
そう言って前を行く彼女。追い付き、並ぶ俺。
エレベーターで、デパートの八階から一階まで下りると、彼女は迷わず園芸コーナーへと向かった。
「花、好きなのか」
「うん。でも水栽培は初めての挑戦です。うまく行くかなー」
彼女によれば、ヒヤシンスの水栽培に適した時期は十一月だそうだが、十二月半ばを過ぎた今日でもヒヤシンスの球根は沢山、置かれていた。
座り込み、一つ手に取っては戻しを繰り返し。やがて両手に一つずつ持っては戻し、を繰り返し始めた彼女。
しばし沈黙が訪れた。
「ねえ、相模原君も一緒に見ようよ」
沈黙を破り、振り向いて俺を見上げながら言う彼女。その顔は、やや不満そうであった。
「俺はヒヤシンスがどんな花かも知らないが」
彼女の隣、球根が互いに押し合うようにしている木箱の前に座り込み、そう言った。
「ホント!?」
「……本当」
驚愕に満ちた彼女の声。それに誘導されるように左隣に顔を向けると、やはり驚愕の表情をしている彼女と目が合った。
「大体、何で球根にテープが巻いてあるんだ?」
「花の色だよ、ヒヤシンスの。これなら買う時に何色か分かるし」
――納得。
「あ、それは水栽培じゃないよ。土に植える方。地植えと鉢植え」
俺が何とは無しに手に取った球根を見て、彼女が言った。
「水栽培は、こっちのだよ。ほら、書いてある」
ね? と言うように少し首を傾げた彼女。
しかし、見比べてみても俺には双方の違いは分からなかった。
「私だって、何も書いてなかったら分からないよ。違いも知らないし。どうやって分けるんだろうね? 見た感じ、水栽培の球根の方が大きいよね」
「水栽培用ヒヤシンス」と手書きされたネームプレートの前の木箱から、彼女は一つの球根を取り出し、軽く掲げて見せた。ピンクのカラーテープがぐるりと巻かれている。
「何色にーしようかなー」
唐突に歌い始めた彼女。
「相模原君は何色が好き? この中なら」
木箱の中にぎっしりと詰められた球根には、白、ピンク、紫、赤のテープがそれぞれ巻かれていた。
「どういう花かも知らないからな」
彼女の右手から、ピンク色のテープが巻かれているそれを手に取ってみる。
「ラッパが沢山、咲いたような花だよ。小さなラッパの集合体。もしくはトランペットの先っちょ」
「ラッパの集合体……?」
イメージが湧きづらい。
「あ、ピンクが好き?」
俺が持つ球根を目にして彼女が尋ねた。
「嫌いでは無い」
「じゃあ、それにしよっと」
差し出され、広げられた彼女の手のひら。そこに俺が球根を到着させると、
「よし、次はガラスポット」
と言い、彼女は瞬時に立ち上がった。
――彼女は、終始楽しそうだった。少なくとも俺にはそう見えた。
ピンク色のカラーテープが付けられた球根と、水栽培に使う、とっくりのようなガラスの器を購入し。それを大切そうにバッグに仕舞った後、
「石鹸とかシャンプーとか見たいなー」
と、彼女は言った。
俺と彼女はエスカレーターで七階に上り、固形石鹸や液体石鹸、シャンプーやコンディショナー、ハンドクリームなどを物色した。
俺にはあまり縁の無い場所ではあったが、
「納豆石鹸だって!」
「『オレンジの香りでフレッシュなボディに』って、どのくらいフレッシュになれると思う? 少なくとも、そのまま冷凍して良いくらいの新鮮さ?」
「『溶け込むように手に馴染む、オリーブオイル配合ハンドクリーム』って、細胞の奥まで溶け込んでくれるのかな?」
など、興味深そうに商品を手に取っては、彼女はキャッチコピーや成分表を見て感想のようなものを述べてくれるので、退屈はしなかった。
「あ。相模原君、退屈?」
「いや、面白い」
「良かった! 何か買うー?」
「特には無いけど。楽しいから気にしないで良い」
宝探しをするように、それぞれの棚に並べられた商品を丁寧に見て行く彼女。一時間くらいは経ったのかもしれない。彼女は、小さな林檎のケースに入ったハンドクリームを買った。
「禁断の果実だよね」
「創世記のか」
「凄い! やっぱり物知り博士!」
「さっきから何だ、そのネーミング」
旧約聖書における創世記にて描かれる「禁断の果実」は「林檎」だとハッキリ定められているわけでは無い。後世の人々が勝手にそう解釈し、それが定着してしまったに過ぎない。と、言われている。
真実を自分の目で見たわけでは無いから断定は不可能だけれど。
そう付け加えると、
「博士……!」
と、俺を見上げる彼女の目が変に輝いていた……気がした。
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