第二章【山頂と山麓】1

 ――結果から言えば、彼女は非常に良く食べた。それはもう表現し難いほどに。ねえ、それ、何日分? と尋ねたいほどに。


「……パン、好きなのか?」


「超!」


 その食べっぷりに対して「それ、何日分?」とストレートに聞くことは少々、はばかられる気がしたので言葉を変えてみたのだが、返って来た返事が「超+エクスクラメーションマーク=超!」という非常に分かりやすく簡潔なものだったので、食べっぷりに加えて俺はまた驚いた。


 店の奥にあるテーブル席に着き、パンとサラダの食べ放題セットと、それに付いて来る、選べる一品料理から各々好きな料理を注文した後、彼女は即時に席を立ち、丸く白い皿を手にしたかと思ったら、そこに次々とパンを積み、素早く席に戻って来た。


 そこから、俺の驚きは始まった。


 彼女が持って来た小さな丸い皿の上に、小さなパンが山になっている。十個以上はあるだろう。そのバランステクニックには賛辞を贈りたい。


「いただきます」


 と、とても嬉しそうに言った彼女は、山の頂にある四つ葉のクローバーのような形をしたパンを手にし、半分に割って食べ始めた。もぐもぐ。という音が聞こえて来そうなくらい、彼女の頬が動いている。ハムスターみたいだ。


「あれ、食べないの?」


 一つ目のパンを食べ終えて水を一口飲んだ後、彼女は初めて俺の存在に気が付いたかのように言った。


「……ああ、食べるよ」


 まさか、食べている様子が面白くて見ていましたとは言えない。


 俺も席を立ち、所狭しとパンがひしめき合っている地に向かった。確か二十種類と聞いていたが、こうして見るとかなりの種類数に思える。一種類に付き、相当の量が積まれているせいもあるだろう。


 とりあえず適当に五個を皿に載せ、席に戻った。彼女は自分の目の前のパンに夢中で、俺の方をチラとも見ない。


 何となく辺りを見回してみると、女性客が八割くらいを占めていた。パンとサラダが食べ放題、そして一品の料理が付いて二千円という値段は確かに安い気がするし、女性にとっては特に魅力的なのかもしれない。今回、俺たちは半額の千円でそれを頂けるわけで、非常に有り難い。


 皿の手前に置いたパンを一口、齧ってみたら、カリカリとした何かが歯に当たった。パンの中を見ると、木の実のカケラのようなものがいくつも詰まっている。多分、クルミだろう。ほど良く焼けた、もちもちとしたパンの中に結構多くのクルミが入ったそれは、素朴な味で懐かしい感じすらした。小さなパンなのだが、しっかりとした食べ応えがあり好感が持てる。


 クルミパンを食べ終えた俺が次のパンを手にし掛けた時、


「あ。それ、おいしかったよ。ヨモギパンかな、多分」


 と、彼女が言った。


「ヨモギか」


 顔を上げた俺の頭の上に、クエスチョンマークが浮かんだ、そんな気がした。


 見ると、彼女の皿にあったパンの山は二つのパンを残すばかりになっていたのだ。その内の一つに彼女は笑顔で手を伸ばす。


 待て。さっき見た時は、確かに十個はあったはずだ。それがどうして既に二個になっている?


 俺が席を立ち、席に戻り、軽く周りを見て、クルミパンを食べ終えるまでに、そんなに時間が経過したとは思えない。少なくとも、パンを八個程、食べられる時間だったとは明らかに思えない。


「なあ、さっきまであったパン、もう食べたの?」


「うん!」


 輝かしい表情、光溢れる返事。


 そして彼女は手にしていた丸いパンを食べ終えたかと思うと、最後の一つを手に取った。立方体のようなそれの表面の所々には、やはり立方体のような飾りが散らばっている。チーズかもしれない。


「あ、チーズ」


 一口、食べて言った彼女の言葉で、俺の予想は当たっていたことを知った。


 もぐもぐもぐ。と、彼女はチーズパンをあっという間に食べ終えて、水を飲み、空っぽになった皿を持って再びパンを取りに行ってしまった。


 凄すぎる。それが正直な感想だった。


 再びパンを持って席に戻って来た彼女。その皿には、やはり十個はあると思われる小さなパンが、今にも崩れそうな山となって載せられていた。そして再び、彼女は山の頂のパンに手を伸ばし、半分に割り、もぐもぐと頬張り始めた。やっぱりハムスターのようだ。


 そこで、


「……パン、好きなのか?」


「超!」


 という会話が生まれた次第である。


 俺もパンは好きだ。種類は豊富だし、店によって味も違う。全体的に当たりの店もあれば全体的にハズレの店もあり、その店の、そのパン一種類だけ、あるいは二種類か三種類だけが当たりという場合もある。大当たりなパンに出会った時は心密かにかなり喜ぶ。


 だが、と思う。だが、彼女ほど喜んだことは無いかもしれない。また、彼女ほどの勢いでパンを次々と口にしたことも。


 一つパンを食べては、一口か二口、水を飲み。ほぼ、それの繰り返しで目の前の彼女はひたすらにパンを食べている。そろそろ彼女の胃の中が心配になってきた。


「そんなに一度に食べて大丈夫か?」


「モーマンタイ!」


 やや遠慮がちに伝えた俺の心配の言葉は、何故か「無問題」という中国語によって掻き消されてしまった。日本語なら「大丈夫」、英語なら「No problem」にあたる。


 食の合間にそう答えた彼女は、すぐにまたパンを千切り、もぐもぐと口を動かしていた。


「――お待たせ致しました、バジリコスパゲティとナポリタンでございます」


 運ばれて来たスパゲティは、パンとサラダの食べ放題セットに付けられる一品料理である。他に、小ぶりなピザや、山盛りのフライドポテト、少量のシチューなど、色々な種類があった。


 このスパゲティは少量ではあるものの、パンをメインと考えて食事をすると、結構な量のように思える。事実、俺はもう腹六分目くらいにまで達している。彼女の食べっぷりに触発され、自分の皿にあった五個のパンを食べ終えたばかりの俺は、テーブルに置かれたスパゲティを見て少し辟易した。


 小さなパンとは言え、それなりに食べ応えはあった。そのパンを彼女は一体、何個食べたと言うのだろう。まだ食べている。しかも、その目は運ばれて来たばかりで僅かに湯気を立てているスパゲティに向けられている。


「おいしそうだねー!」


「ああ」


 返事をしながらも、俺は内心、少し恐ろしく思っていた。まさか、このスパゲティも……?


「ねえ、相模原君。食べてる?」


 俺の心の内などカケラも知らないような口振りで彼女は言い、


「このメロンパン、おいしいよ?」


 と、半分になっているそれを見せながら付け足した。


「メロンパン、好き? 嫌い?」


「ああ……好きだけど。あのさ、いつもこんなに食べてるのか?」


 彼女はニコニコ笑って俺の質問に答えてくれた。


「そうでも無いよ? 今日は嬉しくて、つい」


 もぐもぐ。最早、彼女の頭の上には、そういう文字が表れているように感じた。


「相模原君が一緒に来てくれたでしょ。だから」


 もぐもぐもぐ。彼女の目の前の皿にあるパンの山が、確実に小さくなって行く。


「あ、もしかして今、つまんない? 帰る?」


 ピタリ。と、彼女が食べるのをやめて突然に真剣な顔をして尋ねるものだから、


「いや、そんなことは無いよ」


 と、半ば反射的に俺は言い、自分の右横に置かれた温かなバジリコスパゲティの皿を取った。途端に、バジルの深く爽やかな香りが届けられる。


「そう? 楽しいし、おいしい? 退屈してない?」


「ああ」


「そっか、それなら良かった」


「……そんなにつまらない顔してたか?」


 あまりにもホッとした顔付きで彼女が俺を見たので、思わず、俺はそう聞いていた。


「あ、いえいえ。単に私だけが楽しんでいるのかと、ふと不安になっただけで。退屈中とかだったら申し訳無いなと。やっぱり、つまんないより楽しい方が圧倒的に良いですもんね」


 そこで一度、言葉を切り、俺に倣うようにしてナポリタンの皿を取った後、


「ルンルンですか?」


 と、彼女は俺に質問をした。


「えーっと……楽しい、けど」


「じゃあ、ルンルン?」


 敢えてその単語を避けたというのに、彼女は再度、俺に尋ねて来た。


「……ああ」


 簡潔に返事をした俺を未だに彼女がじっと見ている。


「ルンルンです」


「良かった! 安心しました。これで更にスパゲティがおいしく頂けるね」


 微笑む彼女の右手には半月のようなメロンパン。それを二口で食べ終えると、皿に残っていた一つの白パンを彼女は手にした。そして、むぐむぐと、とてもおいしそうに食したその後、先程に取ってあったナポリタンを彼女はくるくるとフォークに絡める。


 ――フォークがバレリーナのように踊っていた。踊り終えたフォークには綺麗にスパゲティが絡め取られている。それを口元に運び、食べる。その一連の彼女の動作は流水のようで、ひどく俺の目を引いた。


「おいしい!」


 と、言った彼女の声でハッとした俺は、彼女につられるように目の前のバジリコスパゲティをフォークに絡めた。


 しかし、くるくると綺麗に踊ったものの軽く持ち上げてみたそれからは、三ヵ所くらい、スパゲティの麺が飛び出ている。テーブルマナーを勉強しようかと、ふと思った。


 ――彼女は非常に良く食べた。俺よりも食べたのでは無かろうか。あの勢いにはとても驚かされた。


 パンを食べ終え、スパゲティを食べ終えた彼女。その後はサラダバーに向かい、深さのある丸い皿にサラダを山程、入れて帰って来た。山程。その表現は決して大袈裟などでは無い。彼女が持って来たサラダを良く見ると、ごく僅かに皿の縁から顔を出したレタスに囲まれるようにして、皿の中央には「やっほう!」と言いそうなほど存在を主張するポテトサラダが見える。その周りを、ぐるりと一周しているミニトマト。十二個くらいはありそうだ。そして俺から見て手前には、小さな森のようにブロッコリーとカリフラワーがいくつも並んでいる。その向こう側には思った通り、彼女の笑顔。


「あ、すみません。お水を頂けますか?」


 通り掛かったウェイトレスに彼女は言い、ポテトサラダをフォークでやはりとても綺麗に掬った。


「カリフラワーとブロッコリーって脳味噌みたいだよね」


「は?」


「ほら、ここら辺」


「あー……。まあ、見えなくも無いか」


 彼女は、カリフラワーとブロッコリーの花蕾からいの部分を人差し指でくるくると示して見せた。


 確かに、言われてみれば人間の脳味噌を連想させる野菜かもしれないと思った。そして、こういうことは一度そう思ってしまうと半永久的にそう思い続けてしまう。きっと今後、カリフラワーとブロッコリーを見るたびに俺は今日のことを思い出すだろう。


 ――その後、小さな山のようなポテトサラダと、小さな森のようで脳味噌のようなカリフラワーとブロッコリー、十数個のミニトマト、複数枚のレタスを優雅に、しかし素早く食べ終えた彼女。その彼女が二回目のサラダバーに席を立ち、持って来た、やはり山のようなオニオンサラダとミニトマトを半ば食べ終わるか否かというところで俺はバジリコスパゲティを食べ尽くし、水を飲んだ。そして、せっかくだからと俺もサラダバーに向かい、ポテトサラダとマカロニサラダを控え目に盛って戻ると、心なしか彼女の後ろ姿が俯いているように見えた。


「あ、ごめん」


 席に着いた俺に気付くと、パッと彼女は顔を上げた。


「メール見てた。ごめんね」


「いや」


 それよりも、ついさっきまで彼女の前にあったオニオンサラダが姿を消していることの方が俺は気になった。そしてナポリタンは半分になっている。


「ねえ、この後は超多忙?」


「いや、暇」


「やった! 良かったら一緒に球根を探してほしいなー」


「球根?」


 聞き返した俺に、彼女は頷く。


「水栽培をしたいの。ヒヤシンスの。ホントは十一月が時期なんだけど、まだギリギリ大丈夫だと思わない?」


「花は詳しく無いな」


 花を育てる時期についてなんて、覚えている限りでは一度も考えたことが無い俺が、一ヵ月くらい過ぎても大丈夫なんじゃないのか? と何の根拠も無く思っていると、


「じゃあ、何には詳しいの?」


 と、予想もしていなかった彼女の言葉が聞こえた。


「何に……ってほど、詳しいものは無い、かもしれないな」


「そう? 何となく物知り博士に見えるんだけどなー」


 言いながら、彼女は再びフォークを踊らせ、気品溢れる動作でナポリタンを口元へ運んだ。ハムスターのようにパンを頬張っていた者と同一人物とは思えない。この違いは何だろう。


「あれ、もう食べ終わりで良いの?」


 パンとサラダはいくらでも食べて良いんだよ? と、無邪気に付け加えた彼女に俺は辞退の意を告げ、コップに余っている水を飲んだ。


「そっか。じゃあ次は球根探しだね。楽しみ! ちょっと待ってね。今、食べちゃうから」


「いや、そんな慌てなくても……」


 良い、と伝える間も無く、彼女は優雅さを携えたまま素早くフォークを動かし、最後の一本までを美しく食べ終えた。


 キュ、と口元をセルヴィエットで拭くと、


「もう食べない?」


 と、俺に確認をし。


「ああ。じゃあ行くか」


 俺が言うと、ひどく満足そうに立ち上がる彼女。

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