第一章【残雪と雪消】4
――いつもの廊下、いつもの下駄箱、いつもの正門。いつもと違ったのは、その正門に彼女が寄り掛かっていたこと。
昨日の帰り道に大量に残っていた雪はすっかり消え去り、いつも通りの帰路と風景が姿を現していた。打って変わって歩きやすくなった道に感謝しつつ、やはりいつも通りが良いと俺は思った。
こうしてほとんどが普段と変わらない中、横を歩く彼女の存在だけが異色だった。少しだけ、俺は落ち着かなかった。と言うのも、彼女は先程と全く様子が変わり、正門からバス停を過ぎたところまで歩いている現在、その間中、ずっと無言だ。視線は、つま先に固定されている。時々、思い出したようにヒュウと前方から吹く細く冷たい風が、彼女の黒髪の毛先を肩の上でチラチラと揺らしていた。
――もうすぐ、いつもの本屋が見えるだろう。あの角を左に曲がって少し進めば左手側に本屋、その先にはいつもの駅がある。角を曲がってから駅までは徒歩十分くらいだ。
高校からここまでは徒歩二十分くらいだが、その間に一言も言葉を発していない俺の隣を歩く彼女は未だに無言で、そして、やや俯き加減のままだ。
俺は、だんだんこの沈黙空間に耐え切れなくなりつつあった。彼女の様子が先程と違い過ぎることも気になっているのだろう。しかし、この空気を打破すべく話し掛けようにも俺はまだ彼女の名前を知らなかった。それでも何も言わないよりはマシだと軽く話題を考え始めていたら、
――チャララッ、チャッチャチャチャ♪
という、この場にそぐわない明るく軽快なメロディーが彼女の左ポケットから流れて来た。
着メロと言うよりは電子音の集まりと言うべき、そのレトロテイストな音楽は間違い無く携帯電話への着信を知らせるものであり、予想通り彼女はポケットから携帯電話を取り出し、パカリと開いた。
「もしもーし!」
今の今まで、ずっと無言で俯いたまま歩いていたとは思えないほどに、彼女の声は明朗だった。
「今? 学校からの帰り道。もうすぐ駅が見えるよ」
その快活な声音に若干の驚きを感じつつも、学校からの帰り道と知りつつ携帯電話で通話をしている事実の方に、俺は更なる驚きを感じていた。そもそも、携帯電話をマナーモードにしていなかったことにも驚いた。まだ下校中の生徒は多数いるし、それに通話中、もしも教師に見付かったら面倒なことになる。というような思考は彼女に存在しないのだろうか?
「……うん、雪は全部溶けちゃったよ。短い幸せだったよね。せっかくの雪景色だったのに。次はいつだろうね?」
仮に、太平洋側地域にまさかの次があるなら、今度はもう少し控え目に舞い降りてほしいものだ。雪は白い天使、と表現されているのを何かで読んだことがあるが、あんなに降り積もった挙句に一部は凍り付き、行く手を阻むなら、白い悪魔としか俺には思えない。
「今日? ううん、大丈夫! じゃあ、えーと……うん、分かった。待ってるね。またねっ」
パタン。彼女は勢い良く携帯電話を閉じ、元の通りにブレザーの左ポケットに仕舞った瞬間、
「そういえば無言でした! ごめんなさい!」
と、これまた勢い良く俺の顔を見上げて告げた。
「あ、ああ。別に良いよ」
その勢いに驚きつつそう答えた俺は、どうして彼女は無言だったのだろうという疑問が頭を
「ホントに失礼しました! 考え事をして夢中になって、つい無言に……!」
「いや、気にしてないから」
口にはしていなかった俺の疑問に、やはり勢い良く答える彼女。
「世界って丸いんだよなあ、だから私がこうやって歩き続けて行けばいつかは世界を一周して、いつかは元の場所に帰って来るんだよね、それって無休憩で実行し続けたとして何年くらい掛かるんだろう、一年くらいで可能なのかな、とか考えていたら、やめられない止まらない状態になってしまって」
そして、尋ねてもいない考え事の内容について彼女は少々、弁解気味に語り。
「ごめんなさい」
と、少しの間を空けた後に謝意を述べた。
それが、あまりにも落ち込んでいるように見えたので、
「いや、本当に気にしていないから。大丈夫」
と、俺はフォローの言葉を告げた。つもりだった。しかし。
「そうですか、気にしていないんですか……」
彼女は俺から視線を外し、再び自分の靴のつま先を見つめてしまった。そしてまた、沈黙の空間が生まれた。
……俺は何かマズいことを言ったのだろうか。焦りつつ弁明をし、謝る彼女をフォローしたつもりだったのだが。
やがて俺たちは本屋を通り過ぎ、駅前にあるコンビニの前まで来た。
「あ、何か飲む?」
「はい!」
気まずい空気を打ち破るべく言った俺の言葉で、パッと顔を上げた彼女の目は心なしか輝いていた。
「さがみはら君は何か飲むんですか?」
コンビニの手動扉を片手で押しながら、彼女は振り返った。
「あー……コーヒーかな」
正直、彼女が良く分からない。
冬の寒さが深まる十二月の中旬間近、俺は缶入りのホットコーヒー、彼女はホットレモネードを手に、いつもと変わらないこの小さな駅にあるベンチに座っている。その事実に少しばかりの違和感を覚えつつ、俺は一口、コーヒーを飲んだ。隣に座っている彼女は、二百八十ミリリットルのペットボトルを両手で持ち、その温かさを味わうかのようにしていた。そして一口飲んでは、やたらと嬉しそうな顔をする。
「あ! さっそく赤外線通信をしなくては」
一秒前の表情とは一転、彼女は焦燥感すら感じ取れる顔になった。そして素早くペットボトルのキャップを閉めてベンチに置くと、いそいそと携帯電話を取り出し、パチリと小気味良い音を立てて開いた。
「あれ、しないんですか?」
赤外線通信。と言外に告げて、彼女は不思議そうな目で俺を見上げた。
「ああ、ちょっと待って」
缶コーヒーを右脇に置き、俺は鞄の中から携帯電話を取り出す。
「じゃあ、私が送りますね」
赤外線センサー同士を合わせると、あっという間にデータが送られて来た。そしてデータを保存する時に「片桐綾」という名前が目に入った。
「はい、次は、さがみはら君が送って下さいね」
語尾に八分音符のマークでも付いていそうな感じで彼女は言い、再びセンサーをこちらへ向けた。
データを送信して少しした後、
「あ、やっぱり合ってたんですね、読み方」
と、携帯をカチカチ言わせながら、半ば独り言のように彼女が零した。
「読み方?」
「はい、名前の読み方。ちょっと自信が無かったんです。でも今、見て安心しました」
ああ、定期券で見たのか、と俺は思い当たった。
しかし、読みに自信が無い名前を、あんなに大きな声で呼んだのか? もし間違っていたら、どのクラスを探そうと定期券の持ち主とは会えないままだっただろう。
「あ、私の名前は読めますか?」
「かたぎりあや」
「大正解です!」
「いや、これは読めるだろう」
そうこうしている内に「まもなく二番線に上り列車が参ります」と、常と変わらないアナウンスが流れた。
「あ、乗りますか?」
「ああ……こっち?」
「いえ、あっちです」
「そうか」
向かいの二番線にはガタガタと音を立てながら電車が滑り込み、俺と同じ制服を着た何人かの学生がホームに立ち始めた。
携帯電話を鞄に仕舞い、飲み掛けの缶コーヒーを持って俺が立ち上がると、
「それじゃあ、また」
と、彼女――片桐綾が言った。
振り返ると、ひらひらと片手を揺らしながら、それはもう楽しそうな笑顔を見せている彼女と目が合った。何がそんなに楽しいのかサッパリ分からないが、笑顔を見て嫌な気分にはならない。つられて俺の顔にも少しばかりの笑顔が浮かんだ――ような気がした。
「また」
それだけ言って俺が電車に乗るとすぐに扉は閉まり、ほどなく電車は走り始めた。扉の向こうには、先程と同じように手を振る彼女が見えた。
やがて電車は駅を後ろに送り、見慣れた景色が視界に映り込み始めた。その平素と変わらない様にいつもなら退屈を覚えているところだったが、今回は何故か違った。何故か。それは聞かずとも分かり過ぎるくらいに分かりやすい。
まるで怒涛のようにやって来て、ダッシュボタンを連打するかのような勢いで話し、色々と引っ掛かる話や単語をバラバラと落とし、それを俺が拾い集める間も無く、本当に色々と気に掛かる様子を見せた彼女。
「何だったんだ……」
ごく小さく、疑問の声が洩れた。
しかし、そんな彼女とアドレス交換をした俺自身も何だったんだ、とも思える。何と言うか、勢いに負けたと言うか……。
ラスボスがどうとか、世界は丸いとか色々言っていた気がするのだが、どうも話に脈絡が無かったせいか、あまりハッキリと記憶が出来ていない。けれど、今の僅かの間の話や発言や態度を見聞きして、とにかく勢いがある、ということは確実に理解していた。
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