第一章【残雪と雪消】3
「さがみはられい君って、いらっしゃいますかー?」
放課後、まだ帰りのホームルームが終わったばかりの教室にはクラスメイトの半数以上が残っていた。そんな中、かなりの大きな声で呼ばれた俺の名前。これからいつも通りに帰路を辿るべく鞄を手にして立ち上がるところだった俺は非常に驚き、ほとんど反射的に声のした方を見た。
――そこにいたのは、昨日の女子生徒だった。
大胆にも通学路を歩きながら携帯電話で話をし、雪と氷が表面を覆う道を雲の上を歩くような足取りで身軽に進み、突然に何かを空に
何故に彼女が大声で俺の名前を呼んだのかは分からないが、
「さがみはられい君、いませんかー?」
と、教室内をキョロキョロしながら更に俺の名を繰り返した後、
「……いないなら、良いや」
と、速攻で諦めて立ち去ろうとしたので、
「待て」
と、俺は立ち上がり、若干、慌てて彼女を引き留めた。
彼女の第一声で静まっていた教室内に、俺の声だけが響いた。その事実を頭の片隅に捉えながら教室の後ろ扉に足を進めている途中で、廊下に立つ彼女がクルリと振り返って俺を見た。
「あ、さがみはられい君ですか?」
「……ああ」
何かが意識に引っ掛かった。その正体を突き止めようと動き始めた俺の脳味噌の活動を妨げようというかの如く、彼女は良く喋った。
「良かった、見付かって。一年生の教室を八組から順に回って、そして二年生に来たんですけど、まさか一組にいるとは思いませんでした。書いてある年齢的に一年生か二年生だとは思ったんですが、まさか十六番目に当たりを引くとは驚きです。先生に預けちゃおうかとも思ったんですけれど、やっぱり自分で探そうと考えて頑張った甲斐がありました!」
本当に待ってくれ。勢い良く話し過ぎだ。しかも、どこからツッコミを入れたら良いか分からない発言もあった。
何から尋ねようか、とりあえず俺に何の用か聞こうかと考えて口を開き掛けたその瞬間、彼女はまたも喋り始めた。
しかし、その言葉の初めには俺の尋ねようとしたことが乗せられていたので、俺はそのまま彼女の言葉を聞いていた。
「これ、今朝、拾ったんです。困ってると思って。朝のホームルームの少し前に一年八組と七組に行って、一時間目の休み時間に一年六組と五組に行って、そうやって空き時間ごとにちょっとずつ探索を続けて来たんですよ。まさか当たりが最後の最後とは思わなかったけど、ラスボスはそういうものだし納得も出来ます。あ、それでこれはいらないんですか? いりますか?」
話しながら、彼女はブレザーの右ポケットから一枚の定期券を取り出して俺に差し出していた。それは間違い無く昨日に俺が落とした定期券で、それがこうして早々に見付かったことは嬉しいのだが、俺はまず何を言うべきか軽く悩んでしまった。特に彼女の末尾の言葉の「いらないんですか? いりますか?」とは何事だ。俺に渡す為に持って来て差し出したのでは無いのだろうか?
「いります。わざわざありがとう」
「ですよね、もちろんいりますよね。定期券なんて買い直したら大きな出費だし、それ、まだ三ヵ月くらいは有効ですもんね。良かったですね、見付かって。大切にしてあげて下さいね」
色々な疑問を抱えながらも定期券を受け取り礼を言うと、またも彼女は瞬く間にペラペラと話した。お喋りが好きなのだろうか。いや、そんなことよりも俺には気になっていることがある。
「それでは私はこれで。ではでは」
と、先程のようにクルリと背を向けた彼女を俺は思わず再び引き留めた。
「なあ、昨日、石を落とした人だよね?」
彼女は、またクルリとこちらを向いたが、その表情には戸惑いが浮かんでいた。
「ほら、本屋の前で」
俺が情報を追加したところで、彼女の戸惑いは消えなかった。むしろ、その深さが増したような気さえする。
そして、俺が感じていた引っ掛かりという名の潜水艇も更に深度を深めて行った。さがみはられい君ですか? と尋ねた時、彼女は俺に対し全くの初対面ですと言わんばかりの態度だった。それが俺には引っ掛かりとなっていた。彼女は、この短い数分の間にかなり気になる発言を数々重ねたが、それよりも気になったのが、その初対面のような構えだった。
彼女は、更なる俺の言葉を待っているのか、それとも単に去るタイミングを図っているのか、そのままそこに立ち尽くしていた。やはり表情に戸惑いを残したままで。
「昨日、本屋の前で石を落としてさ、それを一緒に探したの覚えてない? 何だっけ、あの石。透明で冷たい……」
「水晶?」
俺の言葉の続きを拾うようにして彼女が言葉を紡いだ。
「それだ」
短い肯定を返すと、やっと彼女の顔付きが変わった。
「水晶を見付けてくれた人ですね! あの時はありがとうございました! 大事なものだから凄く嬉しかったです……!」
先程からの戸惑いの代わりに、大きな喜びが彼女を包んでいた。
「あ、ああ。見付かって良かったよ」
引っ掛かりの名を冠した潜水艇が浮上した今、特に何を話したいというわけでも無かった俺は言葉に困り、彼女の勢いに押されるまま適当な相槌でその場を凌いだ。
「あの、携帯持ってますか?」
「……持ってるけど?」
「アドレス交換、しませんか?」
「……良いよ」
唐突な提案に疑問を感じつつもOKしてしまった俺は、俺自身にも疑問を感じていた。
「良いよ、って、どっちの良いよですか? オッケーってこと? それとも遠慮申し上げるって意味?」
「オッケーの方」
俺が問い掛けに答えると、彼女の顔がパッと明るくなった。
「そうですか、それでは早速……」
と、彼女はブレザーの左ポケットから携帯電話を取り出し掛けた。ので、俺はそれを慌てて止めた。
「え、アドレス交換しないんですか? 真っ赤な嘘っぱちだったんですか……」
「いや、校内で携帯はマズいだろう。教師に見付かったらどうするんだ」
彼女は一瞬の間を置いた後に、なるほど、と頷いた。
「リセットされたのかと思って焦っちゃった。それじゃあ一緒に帰りましょう。で、駅のベンチに座って是非とも赤外線通信を。定期券を使っているってことは電車通学ですよね? 私もそうなのです」
半分姿を見せていた携帯電話を元の通りに仕舞い込み、彼女は水が流れるが如くに絶え間無く言葉を続けた後、
「では、鞄を取ってから正門前に行きますので」
と、俺の返事を待たずに足早に去って行ってしまった。
「……凄い」
自然に生まれた呟きは、その言葉だった。それは端的で間違いの無い、彼女の形容詞のように思えた。
手に持ったままになっていた定期券をパスケースに入れて教室へ戻ると、そこにいた大多数のクラスメイトが俺を見ていた。
……確かに、彼女の声は少し大きかったかもしれない。それに廊下は意外に声が響く。もしかしたら会話の九割方は教室に筒抜けだったのかもしれないと思った。会話と言っても、やはり九割方は彼女の言葉で埋め尽くされていたような気がするが。
俺は自然を装うようにして自分の席まで戻り、既に帰り支度のしてあった鞄と机の上に置いていたコートを手にして教室を出た。
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