第一章【残雪と雪消】2

 ――今年の初雪の日にして、太平洋側にしては珍しい降雪量を記録した昨日から一夜明けた翌日、自室から窓の外を見た俺は自分の祈りが届かなかったことを知った。雪は、ほとんどと言って良いほど残っていた。


 深夜に下がった気温、そして冬の弱々しい日光を考えれば当然の結果なのかもしれない。理解は出来ても納得はし難く、許容は不可だ。


 残雪と氷とが入り乱れる道をいつもより十分程、多くかけて歩き、辿り着いた高校でいつも通りに授業を受け、いつも通りに帰宅しようと正門まで歩いた、その時だった。


「リセットボタンがあったら良いなって、良く考えていたからかな」


「たとえば?」


 という声がして、俺は何とは無しに振り向いた。


 自然、正門の左脇に寄り掛かり、向き合って話している二人の女子生徒が目に入った。その内の一人はコートも着ず、手袋もしていない。


 寒そうだな、という率直な感想が生まれた。そう言う俺も手袋はしていないが。


 ポケットに突っ込んだ右手を軽く握り締め、手袋を買うかなと考えながら俺は帰路を歩き始めた。


 冬空は外気の冷たさをアピールするかのように白く、道も白く。南中時刻を過ぎても大量に残されたままの雪は、今朝と同じように俺の行方を邪魔していた。周囲に広がる小さな山のような丘のようなところにはチラホラと雪間が見えるものの、舗道の九割には雪か氷が蔓延はびこっていて、歩きにくい上に腹立たしいことこの上無い。


 通学用バスの誘惑には打ち勝ったものの、あまりの歩きづらさに、思わず公共用バスの時刻表を俺はバス停にて眺めた。しかし、次が来るのが三十分程は後だと分かり、やはり俺はいつものように徒歩で駅へと向かうことにした。いつも通りの俺を阻むのは、いつも通りでは無い、この雪道だった。


 雪だけでは無く、氷にまでも気を付けなければならないのは非常に面倒だった。これならまだ氷が無かった分、昨日の方がマシだろう。


 確実に不愉快と疲労がチクチク溜まって行く俺の後ろから、


「それでね、昨日は雪が降ってね。今もまだ溶けないで残ってるんだ。珍しいよね」


 という明るい声がしたかと思えば、ゆっくりとその声の主は俺の横に並び、やがて追い抜いて行った。


 彼女は、この寒空の下にコートやマフラーや手袋といった防寒具を一つも身に着けていなかった。しかし、それ以上に俺は彼女の身軽な足取りに驚いた。ヒョイヒョイと、まるで雲の上を渡り歩くような後ろ姿に、思わず俺は彼女の足元を見た。かんじきでも着けているのかと思ったのだ。だが、彼女の靴は学校指定の普通の革靴であり、俺と同じものだった。スノー・シューや藁沓わらぐつを履いているわけでも無い。


 俺は、また彼女の背の辺りに視線を戻した。俺の右横を通り過ぎて行った彼女の左手には携帯電話があった。通話中ということだろう、背面ディスプレイに青い光が緩やかに明滅しているのも見えた。良く、この雪と氷の道を電話をしながら身軽に歩いて行けるものだと感心する。その間にも、特別ゆったりと歩いているつもりは無い俺と、先を行く彼女との距離は少しずつ開いて行った。自身の足元に注意を払いつつも、俺は何となく彼女の後ろ姿を見ていた。


 やがて電話が終わったのだろうか、彼女は一瞬だけ立ち止まり、手にしていた携帯電話をブレザーの左ポケットに仕舞ったようだった。そして、すぐにまた彼女は歩き出した。やはり足取りは軽く、それはフワフワとした浮遊感すら感じさせた。速度はアレグロよりは遅く、モデラートよりは早い、アレグレットくらいだろうか。滑らないようにとか転ばないようにとかの心は無いのだろうかと、見ているこっちがハラハラするような歩き方をする彼女。また、高校に持って来てはならない携帯電話をあろうことか高校から駅までの道のりで取り出し、しかも堂々と通話をしていたことも目を引いた。


 単に注意力が無いのか? と、俺は名前も知らない彼女に失礼なことを思いながら、彼女に続くようにして駅への歩みを進めて行った。


 やがて、いつもの本屋が見え始めた。その向こうにはいつもの駅。やっと、この雪と氷だらけの道を行かなくても良くなると思うと、思わず小さな溜め息が出た。ブレザーの左ポケットに入っているパスケースを取り出し、それを右手に持つ。そして視線を上げたところで、またも彼女が目を引くアクションを取っていた。


 ――何だ、あれ。


 生まれた疑問は何度も頭の中を巡り、視線は主に彼女の指先に集中した。彼女は右手に持った何か小さなものを、冷たい冬空にかざしていた。何を持っているのかまでは、ここからでは分からない。右腕を真っ直ぐに空へと伸ばし、その指先に持つ何かを見上げる彼女。しかし歩みは止めず、軽快で浮遊感を感じさせる足取りも変わらなかった。


 何をしているのかは知らないが、あれでは今に転ぶのではないかと気になった。何しろ下は雪と氷の道、その上を進むあの歩き方、加えて視線は空を向いている。


 大丈夫なのか? と思うものの、この離れている距離を縮めて「危ないからやめた方が良いですよ」などと告げに行く勇気も気力も俺には無い。しかし、気になる。


 そんなわけで前方を行く危なっかしい彼女を見ていたが、その彼女が突然急速に地面に座り込んだので俺はまた驚かされた。彼女は背を丸めて下を向き、辺りを見回しては片手を雪の中に入れて引っ掻き回していた。


 一体、何をしているというのだろうか。そう考えている間にも、歩みを止めた彼女と歩き続けている俺との間隔は徐々に狭まって行き、やがて俺は彼女の真横に立った。


 立ち止まるつもりは無かった。しかし、通り過ぎるつもりも無かった。つまり、どうするべきか思考しつつ歩いている内に俺は彼女に追い付いてしまい、咄嗟に足を止めてしまったというわけで。


 だが、彼女は自分の左横に立ち止まった俺を気に留めてなどいないのか、先程からしている行動を何度も繰り返すばかりだった。手袋をしていない彼女の手は心なしか僅かに赤く染まり、制服のスカートの裾は雪に濡れていた。


 俺は少し迷った後、


「何をしているんですか」


 と、彼女に声を掛けた。


 そこでようやく彼女は顔を上げ、初めて俺の存在に気付いたような目で俺を見た。


 ほんの少しの時間、俺と彼女の間には沈黙が流れた。時間にしてみれば二十秒も無かっただろう。しかし、生まれた無言空間は非常に気まずかった。少なくとも俺にとっては。


 無かったことにして、このまま駅へと向かってしまおうかとも思ったが、


「落としちゃって探してるんですけど、見付からなくて」


 と、俺を見上げたまま彼女が言ったので、


「何をですか?」


 と、俺は聞いてみた。


 彼女は雪の中に入れたままになっていた右手を取り出し、くっ付いて来た雪の破片を払うように手を何度か振った。


「石です、水晶」


 そう告げた声も顔も、とても困っている様子だった。


 それに引き寄せられるようにして、俺も彼女のようにその場に座り込み、先程まで彼女がしていたように雪に手を突っ込んでガサガサと動かした。


「探してくれるんですか?」


 少し驚いたような、しかし喜びと安堵を含んだ声がすぐ隣から聞こえて来て、俺は短く肯定の返事をした。


「ありがとうございます!」


 心底、嬉しそうにお礼を言った彼女は、再び雪の中に手を入れて探索を始めた。


 五分程は経ったのだろうか。その時、俺の指先に何かが当たった気がして、俺はそれを掴んで持ち上げてみた。俺の手の中で、親指くらいの大きさをした透明な石が雪と共に光っていた。そのハッとするような存在感に、俺は一瞬、目を奪われた。


「もしかして、これですか?」


 彼女へと振り向き、俺が手のひらを差し出すと、


「それです! 良かった!」


 と、彼女は石を受け取りながら言った。


 俺が立ち上がり、手に付いていた雪の残滓ざんしを払うと、それに倣うようにして彼女も立ち上がり、自身の手に付いていた雪を払った。


「じゃあ、俺はこれで」


 ちょうど目の前に見えていた本屋に入ろうとした俺に、彼女は深々と頭を下げた。


「本当にありがとうございました!」


「いや」


 短く返事をして、俺は本屋へと足を進めた。彼女のお礼の言い方が大袈裟なような気がしたのだが、それだけ大切なものだということだろう。


 雪の中にあった無色透明の水晶は、とても冷たくなっていた。僅かにその感覚が残る右の手のひらに意識を向けながら、俺はいつものように新刊コーナーを見た後、奥の文庫本の書棚へと向かった。しかし、その日は特に気に入った本が見付からなかった為、何も買わずに俺は本屋を後にした。


 駅の構内へと続く階段を下り、改札に定期を通そうとして、俺は右手に持っていたはずのパスケースが無いことに気が付いた。ブレザーの左ポケットに手をやるとパスケースの感触があって安堵したのも束の間、取り出したパスケースの中身は空だった。


「おい」


 困惑が声になった。確かまだ三ヵ月は有効期間があったはずの定期券。何故、それがいつも通りにここに無いのだろうか。


 考えられるのは落としたということ。そしてそれは、さっきの水晶探しの時という線が濃厚だ。もしくは、それ以前にパスケースを手に持っていた時に滑り落ちて行ったか……。


 俺は、すぐさま改札に背を向けて元来た道を小走りに急いだ。濡れている階段に気を付けつつ、俺はそれを一段飛ばしに下り、そして地上に続く階段を一段飛ばしに上る。雪と氷の共同戦線に注意をしながら俺は本屋の前まで戻り、その辺りをウロウロとしながら舗道を覆う雪を蹴散らした。


 しかし、一向に定期券は発見出来ない。俺は先程のようにその場にしゃがみ込み、周囲の冷たい雪の中に手を入れて動かした。そして定期券に指先が触れる瞬間を期待し続けたが、その期待は実らないままだった。


 仕方無しに俺は立ち上がり、更に帰路を逆走して雪を蹴散らし手を突っ込みと探索を続けたが、定期券は見付からなかった。


 やがて暗くなって来たので、俺は渋々、探索をやめて再び駅へと向かうことにした。だが、本屋の前まで戻って来た俺は再度その辺りをウロウロとし、しつこく定期券を探した。しかし、冬は日が落ちるのが早い。もともと弱々しい太陽が薄雲の向こうにあるだけだった今日、既に薄暗くなってしまった今ではもう探し物など不可能に思われた。本屋から駅に向かうまでの道のりも一応探してはみたが、やはり見当たらなかった。ダメ元で駅員に聞いてもみたが、定期券の届け物は無いと言う。それが決定打になり、俺は仕方無く二百四十円をチャリチャリと自動券売機に投入し、切符を購入した。


 ホームのベンチに脱力しつつ座りながら、明日からの通学はどうするかを考えた。毎日ご丁寧に切符を買うか、いや、それなら回数券の方が一枚得だから回数券が良いか、あるいは定期券を買い直すか。


 けれど、もしかしたら明日以降に定期券が見付かる可能性も否定出来ない。雪が綺麗に溶け去って、俺自身か他の誰かの手によって発見されるかもしれない。むしろ、その可能性を九十九パーセントと俺は見たい。ただの希望的観測かもしれないが。


 やがて電車がいつものようにホームに滑り込んで来て、いつものように俺はそれに乗り込んだ。銀色のポールに寄り掛かりながら後ろに流れて行く景色を何とは無しに見ていた俺は、大切なことを見落としていたことに気が付いた。


 高校は、もうすぐ冬休みに入る。あと二週間弱だ。それなら定期券を買い直すよりは、その間は回数券で通学をした方が良いだろう。しかし、それにしても予想外の出費に変わりは無い。俺は、また軽く脱力感を覚えた。それに冬休みが空けても定期券が見付からなければ、やはり買い直すしか無いのだ。としたら、明日から定期券を購入した方が金額的には得なのか?


 二十分程の乗車時間は、明日からの通学を回数券にするか定期券にするかばかりを考え、どちらにしろ出費するということに気重になっている内に過ぎた。


 氷の中にいるような空気の中、見上げた冬空は暗く重く。まるで俺の心を映したかのようだった。などと詩的なことを思っても、迫り来る明日という現実からは逃れられない。軽く自嘲気味になりながら、俺は自動改札機に切符を通した。

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