発進
成り行きで、僕の勇気とか気持ちとか関係なく、僕はアキと一緒にアキの家に行った。
艶のない髪も、肉のない体も、触るだけで僕の心はぐずぐずに傷ついたから、行くしかなかった。僕はもう深みに堕ちている。
着いたのは、ぼろぼろなアパート。家にお金がないのがすぐにわかる。
『本当にいいの?』
『――確認、しちゃうの?』
あの時の自分は、あまりにも頼りなかった。
『殴られるかもしれないよ?』
『ここでやめるって言ってもいいの?』
アキがだめ、とは言えないのはわかっていた。
流れにはもう逆らわない。
アキが鍵を開け、家に入る。僕も付いていく。
あの異臭は、ちょっとしたトラウマになった。
僕の手を握りしめるあの感触も忘れない。
『母親が、いる。男にフラれたのかもしれない』
アキは、そう耳打ちしてきた。
僕は慣れない家で、さらに廊下にたくさん荷物が転がっているせいで、引っかかって、物音を立ててしまった。
『――アキ。その人、誰なの?』
僕らに気がついて、冷えた女の声が尋ねる。
『……あなたには関係ないでしょ』
『なによ母親にその言い方。誰のせいでこうなったと思ってるの!? 私がどれほど辛い思いをしてあんたを育ててやってると思ってるの!? 他人を入れないで! うちにはうちのきまりがあるの! 出ていきなさい!』
一息で全部言い放つ。
女の声は脳の奥深くまで刺さった。自分勝手な言い分に、腹の底から怒りが湧いて、暴れていた。
『自分だけが不幸だと思うなよ』
『何!?』
僕を拒絶した、分厚い化粧の乗った顔を見ると、もう我慢ができなかった。
『アキがこんな顔してるのにあんたの顔は傷一つないじゃないか! 今何飲んでる! 吸ってる!? アキがちゃんと食べてないのは見ればわかるんだよ! 酒やタバコに使う金があるならアキに食べさせろよ!』
『うるせえ!
低い怒鳴り声が隣室から聞こえた。
もうなりふり構っていられなくなって――震える足を踏み出して、跳ね回る心臓の鼓動は見て見ぬ振りをして、僕は隣の部屋のドアを蹴り飛ばして踏み入った。
より酷い酒とタバコの臭い。
『アキは何も悪くないだろ!』
僕の絶叫に驚いているところで、殴った。
男の顔を、力任せに。
『――ハルくん!』
そのまま何度も殴った。
途中で、意識を失ったらしい。
僕が今いるのは、病室。気がついたら、ここにいた。さっきまで病室にいたのは僕のお母さんだった。お母さんに言われて鏡で顔を見たら、腫れで原型がなかった。
指もひびが入ったらしい。これは相手のせいじゃなくて、自分が殴ったせいだというのは医者に言われるまでもなくわかっていた。
「ごめん、ごめん、ほんとにごめん。ここまでしてもらおうとは思ってなかったのに――」
今は、泣いているアキと僕の二人だけ。お母さんは、入院のための荷物を取りに行くと言って、帰っていった。
「ハルくんが目の前で殴られて、気絶して、私、どうしたらいいのかわからなかった。ごめんなさい、本当に……」
「アキ、僕は後悔してないよ」
嘘だ。僕は怪我をして、鼻の骨を折った。痛いし、きれいに治らなかったらどうしようかと考える。名誉の負傷と言えるほど、まだ割り切れていない。
「私、これからどうなるかな。父親は逮捕されたし、母親も育児放棄の疑いとかで警察のところだし」
「今まではどうやって生活してたの?」
「バイトして、学費って言われて八割くらいは持っていかれてた……。残りでご飯買ったり、他の必要なもの買ったり」
「そんな――足りないんじゃ」
「そう。だから、私はこの後、虐待の証拠のための検査。栄養失調だろうねって、ここにきた看護師さんには言われたよ」
前言撤回。
「僕は、後悔していない」
後悔は消えた。あの家からあの二人がいなくなったのなら、良かった。
「アキを助けられて良かった」
夕日みたいに真っ赤に腫れた目から、また雫が溢れ出す。
「――ありがとう、ハルくん」
やっと謝罪以外の言葉をもらえた。
あのときのアキの笑顔は、一生忘れない。
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