停車

 僕は今、現実で、スカートを脱ぎ、校則を強いてくる先生たちと戦いながら、知り合いのお下がりのスラックスを履いている。髪をもっと短く切って、それが原因で起こった無視や悪口に心をすり減らしても泣いても、本心からは屈しない。

 神さまがくれた変化のチャンスなら、生かしたはずだった。

 だから僕はもうこの世界には来ないと思っていたけれど――ひと月ぶりの、この車内。

 天候、雪。気温、恐らく十度未満。吐いた息が、白く凍る。

 荒廃した車内、動く気配がない。

 僕の乗った電車は、幾つも線路の並ぶところにぽつんと一台だけで存在していた。快速でも、普通でも、なんでもない電車が息を失って佇んでいる。

 まるで雪が音を吸っているみたいに、何も聞こえなかった。

「ひさしぶり」

 久々に感じられた音、その頭上からの呼びかけに、反射的に上を向いた。

「私だよ」

 アキだった。

「毎日来てた」

 私はね、と。くく、と喉から笑いが漏れていた。

 侮蔑と親和の混ざったなんともいえないテンションで僕を呼ぶ。

「ハル先輩――ねえ、ハルくん」

 蛇のようにまとわりつく視線を絡ませ、外さないまま僕の横に来た。目を逸らせない。

「ここ、今日は酷いですよね」

 足元のガラス片を癖悪く足先で弄っていた。

「ここ、ここ、この電車が止まっているところ。どこだと思いますか」

 ガラス片を踏みつけながら、手を広げて僕の視線を外に誘う。

 知らない。見たことはあった。けれど、名前を知らない。

 力なく首を振る僕をあざ笑うよう口元が微かに動いた。

「車両基地って、いうんですよ」

 幼い子をあやすように、声の混ざった掠れた息が、白く浮かんだ。

「ため息をつくと、幸せが逃げるらしいですよ? ああ、ねえ、先輩、ハル先輩、ハルくん、私、逃がすほどの幸せがほしいです、ほしい、なぁ」

 細い肩が息を切らして上下していた。

「や、なんで、泣いてるのかな……」

 このセリフに聞き覚えがあった。全く同じトーン、スピード、息の量、感情。涙を目で追った。

 セリフを吐いた顔は――半分狂乱、半分冷静な目をしたアキの顔は、熟れすぎて崩れたりんごのように、ぐちゃぐちゃになっていた。

 固まった僕の唇を更に締める、あの子の泣き顔。見ているだけで、胸が締め付けられる痛々しさ。車外はあまりにも非現実的なのに、この表情、ひとつひとつの筋肉の動きや涙の落ち方はとても夢とは思えなかった。

「じゃあね、もう夜明けだから」

 涙が止まらないまま、割れた窓のさんに両足を乗せる。

「まっ――――」

 静かに飛び降りた。足から頭まであっという間に消えていった。着地の音は聞こえない。

 太陽が出たかなんてわからない曇った藍色よりも黒い空が、この夢のすべてだった。

 頭痛が夢から僕を引き剥がす。寝違えた首が、攣った左のふくらはぎが、動くな、関わるなって僕に警告する。

 降車せず訪れた今朝の目覚めは、ここしばらくで一番酷かった。

 あの子は最寄り駅がないのだろうか。そもそも、車両基地は人々を運ぶための電車が走るところではない。

 どうして、僕を呼んだの?

 *

 僕だって、やるときはやる人間でありたい。けれど、夢ではない痛みを感じる現実世界で、顔の半分をガーゼで覆った顔をみて、その原因の予想がだいたいついているのに、一歩を踏み出すのは本当にできないことで――とにかく長々と言い訳を重ねることしかできない。できない理由を探してしまう。

 そんな自分は嫌だけれど、ただ指をくわえて見ていても誰も僕のことを咎める権利はないと思うんだ。

 ひとつ下の学年、一年生の教室。教室の隅でつまらなさそうに外を眺めている少女があの子だった。とても長生きをするとは思えない、活気のない雰囲気をまとっていた。生気を感じられない黒い瞳は何を見ているのだろう。顔には、ガーゼが隠しきれなかった赤みがあった。

 クラスの子たちは遠巻きに見ているだけで、怪我の原因を訊ねに行ったりはしない。

「あ、あの」

 メガネの女の子が、僕に声をかけた。

「このクラスに、何か用事ですか……?」

「あ、いや――」

 しどろもどろになった僕に教室全体の視線がばらばらと集まり、比例して鳥肌が増えていく。

 最後に、あの子が僕を見た。

 吸い寄せられるように目が合って、一瞬だけ、時が止まったような気がした。

 時が動き出す。あの子は立ち上がって、大股歩きで僕の元へ来る。只ならない雰囲気に僕は怖気づいて、「ごめん」とメガネ少女だけに聞こえる声で言って、下級生の教室に背を向けた。

「あの人、誰?」

 背後から聞こえた。それに「知り合い」とだけ答えたのも聞こえた。足音が圧迫感を持って僕に近づいてくる。服を引っ張られて止められた。そのままお互い無言で校舎の外に向かう。

「――ハル先輩。今更、何の用で来たんですか」

 震えた低音が僕の脳を押しつぶす。

「ごめんなさい」

「ちがう。謝罪が聞きたいんじゃない」

「ごめん」

「なんで逃げたんですか」

「ごめん」

「なにか言って」

「ごめん」

「先輩」

「ごめん」

「先輩!」

 ぱちん。

 高い音が廊下に響いた。

 頬を叩かれたのだと気がついた。じわりと熱を持ったところが後から痛んでくる。

「――アキちゃん」

「呼ばないでください」

 アキは泣きそうな目をしていた。

 僕は口を結ぶことしかできなかった。

「こんな人に頼った私が馬鹿だった」

 本人のいる前で言うのはどうかと思ったけれど、何も言い返せない。

「こんな人を助けた私が馬鹿だった」

 あの子は、今にも泣き出しそうな声でつぶやいた。その言葉に、僕も心を抉られるような痛みを感じた。

 痛い。

 下を見ているせいで、僕より背の低いアキの顔は全く見えない。白いガーゼと黒髪のコントラストが目に痛かった。

 頭痛がする。空が曇っている。低気圧頭痛が起こっている。それよりも痛みを感じている眼の前の少女に、どうやって手を差し伸べてあげればいいか、わからない。

「……アキちゃんのその頬は」

 もう、どうにでもなれ。

 ただの偶然だが僕と鏡合わせになった赤い頬を指す。

「お父さんとお母さん、どっちにやられたの?」

 顔は見えないけれど、なんとなく、表情が変わったのだとわかった。

「――父親に」

 なぐ、と言葉が切れて、肩が震えていた。

 続きの言葉は待っても出てこない。

 こんなとき、どうしたらいい?

「……僕は」

 次にどんな言葉を言うべきか、と考えた。

「アキちゃんに助けてもらったけれど、助け方はわからない」

 なんの飾り気もない、情けない文になってしまった。

「逃げてしまった。怖いんだ」

 もっと情けない。それでも、僕の口はぼそぼそと言い訳を続けてしまう。

「怖い。怖かった。夢でその頬を見た時も、怖かった」

 止まらない。薄っぺらくて馬鹿馬鹿しい言い訳に使われる言葉が不憫だ。

「でも」

 僕はこの期に及んでいったい何を付け加えようというのだろう。

「夢じゃないから、痛いのはわかった」

 熱の引かない自分の頬をさすった。

「一緒に警察に行こう」

「……一緒に」

 僕の言葉を繰り返す。

「ごめん、法律に詳しいわけじゃないからどうしたらいいのか……」

「そんなことしたら母親が代わりに殴られる」

 遮って、自身の腕を抱いて震えていた。

「私が悪いの」

 アキは悪くない。とっさに言えたら格好よかったのに。

 実際の僕は、押し黙ることしかできない。

 勢いに任せてもこんなものか。

「私が全部悪いの」

 アキを抱きしめた。

 何もできない。僕は無力だった。

 女の子らしい柔らかさのない、骨ばった体を、ただ抱きしめた。

「――ごめん」

 口から出せたのは、この一言だけ。

 アキは、こんな言葉なんていらないだろうに。

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