僕と電車と幸福
「がたんごとーん、がたんごとーん」
「ハルは本当に電車が好きなのね」
「うん!」
新品の電車のおもちゃを振り回して遊ぶ、近所の幼稚園の制服に身を包む幼児と、優しく微笑むおばあさん。線路の傍ら、普通車が比較的ゆっくり西に向かって走行する住宅街の一景。夕焼けが長い影を作り、橙に染まる二人の顔と、空を集団で飛んでゆくカラスの群れ。まるであつらえたような日暮れの景色――ありふれていて、平和だ。
飽きずに電車の擬音を発する園児の声をかき消すように、快速列車が東に慌ただしく走って行く。
「がたんごとーん!」
電車に手を振るその子の血色はよく、採れたてのりんごのほっぺのように輝いていた。
彼にとっては思い出の一ページ。心に刻まれたその景色と、目の前の景色は同じ。
*
「私はもうここには来たくない」
はっきりといわれてしまった。もう気づかないふりもできない。電車の走り方、乗客、外の景色すら自由にできる明晰夢。
「でも、来ちゃうの。やめたいのに」
手元には、初日と同じシリーズのライトノベルがあった。書店のブックカバーはついていなくて、金色に光る目がよく映える主人公がいかにもというキメ顔をしていた。
「二人とも、救われてないからだよ」
あの子は、僕に訴えかけてくる。けれど、聞いてあげられない。だって、今日はラノベの内容を覚えているんだ。
――「俺に任せてくれたら全部解決できる」
俺は断言した。虚言ではない。根拠を聞いてくる者は誰もいない。静まり返って、俺の言葉を待っている。
「魔王もそれなりの策を打って来ている。だから、俺たちも無策で突っ込むわけにはいかないだろう」
「魔王の策は卑劣ですよ。すでに一つの村が人質としてとられています」
「ああ。目には目を、歯には歯をと言う。向こうが力押しをしてくるなら、正々堂々と戦わなくてはならない状況を作ってやろう」
「でも、勇者さま、そんな策はあるのでしょうか」――
自信満々に策とやらを披露していく主人公。誰も反論しない、誰もが信頼してくれる。馬鹿馬鹿しいけれど、圧倒的な力を持って、強い敵を倒していく内容は爽快だった。
次のシーンでは、策が上手くいって、人質が開放されていく。そして、主人公は魔王と二三の言葉を交わして、剣を振るって戦う。一度死にかけたが復活して、覚醒して、誰も及ばないような力を手に入れて、悪を叩きのめす。
僕もこうなれたらいいのに。
「――いつまで無視するの」
あの子が僕のラノベを取り上げて、床に叩きつける。
僕はそれを眺めることしかできなかった。
アナウンスと共に停車して、五人の女子高生の集団が乗ってくる。
「これは、明晰夢だもんね」
そんな言葉が、口をついて出た。
あの子は、怯えた目で女子高生たちを見て、目立たないように、目を合わせないように、真下を向いて、前髪で視線を隠して、息を殺していた。
わかる。怖い。僕も怖い。けれど、ここは僕の夢の中。
僕は、夢以外ではこんなことはしない。これは明晰夢だから。これは明晰夢だから。
せいせいとした気分で最寄り駅に到着して、悠々と降車した。
*
学校。教室。昼休み。端。一人。
自分は今日も一人だった。ちょっかいをかけてくる人たちはいても、優しい言葉をかけてくれる人はいない。
手洗いに行こうと席を立った。それを塞ぐ五つの影。今日はいつもより機嫌が悪いみたいで、朝からひどい憂さ晴らしに付き合わされた。昼休みで時間もあるし、たぶん、ここで苛立ちを全部すっきりさせるくらいの気概でやってくるんだろうな――と、予想しても仕方ないけれど。
お手洗い、もともとの目標地点。けれど、内容は不一致。誰も来ない運動場裏の古い男子トイレ。
五人中の一人曰く、「あんたにお似合いよ」と。
個室、鍵をかけていないのに開かない扉。なんて古典的な。普段なら陰口程度で済ませていたのに。今日は機嫌が悪いあの集団。自分の機嫌は、朝から急落下。
一番嫌いな笑い声が遠ざかっていく。せっかく起きて学校に来ているのに、授業に出られなかったらどうしようか。
そんなことを呑気に考えている、自分に嫌気が差す。
数分だろうか。十数分だろうか。そのくらい経った頃、ノックされた。
「先輩」
女の子の声だった。聞き覚えがあった。
「そこに、望んで入っているわけじゃないですよね」
女の子はかろうじて聞き取れる声量で押し込んでくる。
心当たりはあった。けれど、それは夢物語、小説の中だったらありえる話であって、そうであるはずがない。
「――あなたは?」
「私は、アキです。先輩は」
「わたしは――」
「僕、じゃないんですか」
疑惑が確信に変わる瞬間。
声も一致した。
「ここ開けて」
自分は気づいたらそう言っていた。無意識といえば責任は逃れられるかもしれない。
ガムテープを無理やり剥ぎ取っている音が響く。音は美しくなくても響くよな、とどうでもいいことが頭によぎった。
扉がこちらに回る。それと同時に、見知った少女が姿を表した。
「はじめまして、先輩」
「うん――ありがとう」
「名前、教えてください」
「僕は」
一呼吸置いた。たった二文字が重くのしかかって来る。
「僕は」
その二文字をもう一度。そして、気に入っている名前を伝えた。
「ハル」
「……ハル先輩。僕でいいんですか」
知っているあの子よりもずっと無機質な返事だったけれど、それでも十分だった。お互いのことを知るには、有り余るくらいだった。
「いいんだ」
変に低く話すせいで掠れた声で返事をする。
そうですか、と、それだけだった。
「先輩の世界、もういていられないので、助けにきました」
ここでやっと、あの子の表情が和らいだ。
嫌いな声が近づいて来ていたけれど、もうどうでもいい。
「アキちゃん。今から遊びに行こう」
「……午後の授業はいいいんですか」
「――いいよ」
泣いてたらどうする、とか、逃げてたら殴ろう、とか、物騒な会話が耳に入り込んできた。それを頑張って聞き流して、僕らは見つからないようにこっそり逃げた。
その晩会ったあの子のほうが、ずっと表情豊かで、自然体でいる。
「ハルくん。救われたいと思わないと、いつまでも不幸だよ」
今日、手元にあのラノベはなかった。電車は時間通りに駅と駅を繋いで、決まった景色を流す。
「今日、僕は、初めて救ってもらったんだ」
赤色の地平線を見ながら、無反応のあの子に続きを語る。
「学校は幸せになれる場所じゃないし、家も別に――ただ暮らすだけの場所」
あの子は、僕には目もくれず、景色を眺めている。
膝に乗る鞄がいつもより重い。
鞄を開けた。「思い出」と書かれたアルバムがあった。
アルバムの最初のページには、夕焼けの中、電車のおもちゃを掲げる園児がいた。
これは、僕だ。
「ハルくんは、とっくに知っていて」
記憶が蘇ってくる。買ってもらえない電車やバスのおもちゃ、増えていく人形遊びのパーツ、発表会を見に来てくれたおばあちゃんがごほうびに好きなものを買ってくれると言って選んだ電車のおもちゃ、帰り道に飽きずにずっと電車を見ておもちゃで遊ぶ僕を見守ってくれた愛。
「無意識の方が、僕よりいろいろ覚えているのかもしれない」
「温かい手を取る方法、ずっと前から知っていたんだ」
現実のいじめは何も解決していない。けれど、少し、目覚めるのが楽になれるかもしれない。
「悪趣味」
「……なにが?」
あの子は、昨日、ラノベが落ちたあたりに視線を落として、言い放った。
「あれはエンターテイメント。よすがにするものじゃない」
本当にそうだと思う。
私はそう思うよ、と付け加えたから、僕も、と重ねておいた。
馬鹿馬鹿しいと笑いながらも、内容を、一字一句覚えていたなんて。
「幸せになる方法を、探すよ。このままの僕で」
「――――。――――です」
男の声のアナウンス。電車は速さを緩めていく。
「このままの僕でいじめられたけど、それは嫌なんだ」
「――あと、何駅?」
「一駅だけど……三駅、かな」
思い出の入った鞄を背負って、下車した。
東に向かう快速列車。イメージ、東は春、西は秋だと、何かで読んだ。太陽が昇り始めた地平線は遠く、ここをずっと、三駅分の距離を徒歩で行くことの不安も少しあった。
けれど、決めたから。
いつの間にかあの子のいなくなった車内。電車は僕を置いて、決まった道を走り始めた。
それを見送って、遠い朝日を見た。
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