静と電車と転倒

 しばらくは夢に来なかった。寝てもすぐに目が覚めた、地獄のような夜。静まり返った暗闇の中で、自分の拠り所は本だけだった。

 あの子はその間もここに来ていたのだろうか。気になるけれど、聞かない。暗黙の了解とでもいうように、お互いの素性は聞かないし、気にするそぶりも見せないように努力をした。

「ひさしぶり。一週間ぶりだね」

「うん」

「寝られなかった?」

「うん」

「そっか」

 今日の車内は穏やかだった。外は曇っていて、日光が自分を照らすこともない。

「次は、――――。――――です。次は、――――に止まります」

 今日は、録音された女声だった。

 あの子は手持ち無沙汰なのか、爪をかりかり削る。自分は、唇の薄皮を歯で挟んで、剥ぎ取った。

 二人の間にたびたび訪れる、無言の時間。今日は、嫌に長い気がした。

「――ねえ」

「……なに?」

 言葉を零すのは、いつもあの子が先だった。自分は、それに応えることしかできない。

「……まだ、気づいていないの?」

「――――なにを」

「自分を」

 はっとした――と、言えればよかったのだろうか。しかし、何も心当たりはなかった。なのに、どうしようもなく気分が悪い。

「大丈夫?」

 あの子の声が上から覆いかぶさってくる。そこで、自分が腹を抱えて息を荒く吐いていることに気づいた。

「ねぇ、ちょっと――」

「……っごめん」

 僕は何も言えないで、ただ吐き気が去るのを待つ。はあ、はあ、と心臓の音がうるさい。違う、これは心音じゃなくて、呼吸音で、心音も感じるけど、うるさいのは――。

 耳にこびりついた、あいつらの笑い声。

 電車の音が消えた。

 外は雪が降っていた。

「ここは夢だって――言ったでしょ」

 電気がちかちかして、今にも消えそうだ。

 僕は制服の袖を握った。

「どうしてそんなに苦しむの」

 俯いたまま首を振って、「わからない」と口だけ動かす。

「現在、前方を走る電車が遅れているので、速度を落として運転しております。遅れによりご迷惑を――」

 電車はゆるゆると一時停止した。遅延を知らせるアナウンスが、女の声の放送が車内に空々しく響く。電車の揺れが小さくなって収まって、放送が終了すると、静寂が辺りを包んだ。

 呼吸も落ち着いてきて、ゆっくり、酸素を吸い込む。息を吐く瞬間、吐き気が喉のあたりまで登ってきたけれど、既のところでこらえた。

 時間は、守らないと。

 電車はがたん、と大きく揺れて走り始めた。遅れを取り戻そうと、ぐんぐんスピードを上げていく。

 駅をひとつ飛ばし、ふたつとばし、誰もいないホームに駆け込んで、急ブレーキで止まって、馬鹿みたいに口を開けて、閉じて、走り去っていく。

「あと、何駅?」

「……ふたえ――」

 返事と同時に顔を上げると、あの子は、静かに涙を流していた。

「……き」

 自分の視線に気がついて、ふ、た、え、き、と口の形を作って、伝う涙が顎先から落ちた。

「や、なんで、泣いてるのかな……あは、は、わかんないや」

 慌てて涙の線をなぞって、顔を手で扇いだ。赤くなった目元と頬に不完全な現実味があって、ほんの一瞬、夢だということを忘れた。

「世界は」

 あの子が外を見て、それにつられると、飛んでゆく家々の景色と、紫色の地平線があった。

「夜明けを迎えたよ」

「……ほんとだ」

 雪が止んで、雲が遥か遠くに見える。

 窓外の風景が地平線から、顔に近づいて、ほんの数メートルのホームに変わった。ぎゅっとブレーキを踏んで電車が止まった。見慣れたホーム。降りたことはないけれど。あと、一駅。

「もう起きるの?」

 涙の筋が残ったままの顔、無表情の中に心を隠したようなくぐもった声に、どう返したものか、少し考えこんだ。

「……乗り過ごしたら、寝坊かなぁ――。でも、それもいいかもしれない」

 慎重に走り出した電車の揺れるつり革の奥をぼんやり見ていた。

「ほんとに、ね」

 あの子と目が合って、一緒に笑った。ちょっと照れくさい。

「時間、止まればいいのに」

「次は、――――。――――です」

 たぶんこの電車は、自分が降りないと最寄り駅から一生進まない。あの子と一緒に、あの子の最寄り駅まで行けたなら、寝坊でも平気なのに。

 でも、時間は、守らないと。

 なぜかそう思って、降りる支度を始めた。もう何が入っているのかわからない鞄を背負って、立ち上がる。

 視線を下ろすと、あの子とまた目が合った。

「最後までいるのは初めてじゃない?」

「そうだね。降りてくれそうだから」

「――三度目の正直だ」

「そんな大げさなものでもないよ」

 ふたりで笑うと、胸がチクリと痛んだ。

 すると、電車は大きく揺れた。

 一瞬、何が起こっているのか理解できなかった。足が地面から、電車の床から離れて、視界がぐらつく。

 これは二番目の車両、前は先頭車両、その車両がここよりもっと傾いていて、それに引きずられていくこの車両。

 痛みなく床になった窓に突き倒されて、割れた窓ガラスが肌に刺さる。出血はしていない。ガラスが刺さった手がまるで作り物のようだった。あの子も、もともと天井だったところ近くに投げ出されて、首を傾けたまま人形のように寝転んでいた。

 この電車は、横転した。荷物置きの鉄棒に挟まった自身の腕がありえない方向に曲がって全く動かない。

 自分の最寄り駅にたどり着くことはなく。遅れて滲み出た涙を見送って、意識が遠のいていった。

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