雨と電車と拒絶
「やあ」
今日は、あの子が先にいた。
ドアが乱暴に閉められたときのような衝撃音をきっかけに、電車のすれ違う音、酷く鼓膜に突き刺さる。覚めても――というか、夢を認識しても、視界は昨日よりはっきりしない。
あっという間にすれ違い、雨音の中に一瞬の静寂が訪れる。
夢の中なのに、耳が痛いんだ。夢の中なのに、眠いんだ。
「今日はずいぶん荒れているね」
二人同時に口を開いた。
車内は荒れ放題になっている。それがどちらのせいかなんて、お互いに心当たりがあったし、どっちのせいでもよかった。
……どっちのせいでもいいんだ。
どうしてこんなにうるさいのか。それは、窓が割れて吹きさらしになっているから。どうしてこんなに暗いのか。外は雨が降っているし、車内照明は割れて、電気が流れる努力をやめていた。
「……これが、夢だからだね」
闇の中でかすかに動く気配がする。
あの子が先に沈黙を破った。雨がうるさいのに、やっぱり声はよく聞こえた。
お互いに心に暗いものを抱えていることはとっくにわかっていた。だから、またここにやってきたのだろう。それが続くのが良くないことというのは、わかっている。
「――――。――――です。次は、――――に止まります」
今日は、女の人のかすれた声だった。
あの子が今日は、鞄を抱えている。
「今日はね、今日はね、いいものを持ってきたの」
「うん」
明け方、雲の向こうで太陽が昇っていっているのか、少しだけ明るくなった車内。
覇気のないまどろんだ笑顔を浮かべたあの子は、鞄のチャックを開けて、中身を出した。缶ビールと、タバコと、大量のつまみ。――こんなの、高校生の持ち物じゃない。
「お酒は飲まない。――飲めない。間違えて飲まされたとき、吐いた」
ごとん、とビールの缶が落ちた。あの子がわざわざ立ち上がって、勢いよく足で踏みつけると、缶が熱湯をかけられた雪みたいにぐしゃりと溶けて、地面に黄色の液体が広がっていく。
「はは」
浸る雨と混ざって、ガラスの破片の合間を縫って、やがて透明になった。
「おつまみを食べたいの」
こんなもの、とあの子は鞄からはみ出した五、六箱はあるタバコを車外に投げ捨てた。なんでいらないものが入っているのだろう。
サキイカのプラスチックの入れ物を開けて、美味しそうに頬張っている。
「君は、今日は何を持っているの?」
「ぼくは」
そこではっとして、口をつぐんだ。目の前のあの子は、サキイカをひたすら食べている。食べながら――上から下まで、自分を見る。居心地が、悪い。
「へえ。そういうこと」
握ってしまって、くしゃくしゃになったスカートに目を留めたまま、咀嚼する。
「最近流行りの、LGBTってやつ、か」
「わ」
「……」
「わたし、は」
あの子は何も言わないまま、せんべいを食べ始めた。ばり、という音を電車の揺れる音がかき消す。
「夢だし、好きにしたら?」
何も続きを言えなくなった自分に、淡々と言い放った。興味を失ったように、鞄の中を漁り、新しいつまみを出してくる。今度は、豆。
「わ、わたしは――」
「ぼくじゃないの?」
何の遠慮もない。無神経。無配慮。でも、自分に向けられた目はとても澄んでいる。
「……これを受け入れてくれるってこと?」
だから、聞かずにはいられなかった。だが、あの子は頷くことも頭を振ることもしなかった。
「次は、――――。――――です」
今日は、電車の進みが悪い――快速なのに。
容赦なく降り注ぐ雨に風が吹きつけて、車内に雨が降る。あの子はまた鞄に手を入れて、ある程度かき混ぜたとき、顔を歪めた。手と一緒に、握りつぶされたタバコの箱が出てきて、すぐに車外に捨てられる。憎しみのこもった視線で、それを見送るあの子。
「まもなく、――――。――――。――――線は、お乗り換えです」
昨日とは打って変わって、とてもやる気のない声に聞こえた。マイクの前でつぶやくだけで、人に伝える気のない声だった。
電車が猛スピードでホームに突っ込んでいった。急ブレーキをかけて止まった。ドアが開くと、停車位置の目安よりもだいぶんずれていた。
「やめてよ」
あの子の表情が暗く曇った。
「……えっ?」
ふたりとも慣性でひっぱられてバランスを崩し、開きっぱなしになっていたサキイカが床に散らばった。
ドアが開くと、ドカドカと人が乗りこんできた。席を取ろうと、押しかけて、押しのけて、座る。席が空いたらすぐに座れるように、座席の近くに体をねじこむ。
「……最悪」
あの子は落ちたサキイカを硝子の破片と一緒に踏みつけながら、人混みをかき分けて、別の車両に行ってしまった。
まだ三駅もあるのに。
あの子が座っていた席に、酒缶を持ったサラリーマンが座った。顔はなかった。よく見ると、他の人たちにも顔がなかった。
電車はさっきよりもスピードを上げて進んでいく。次の駅でさっき乗ってきた人たちは全員降りて、また一人残された。
地面に落ちた硝子の破片を拾った。肌が切れて、血が流れた。痛みはなかった。
血は落ちて、水浸しの床に広がっていく。
車内には、相変わらず弱い雨が降っていた。
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