婦婦である事
「おおやっと肩の荷が下りたような格好してさ、そんなに飯作りってのは気合いがいるもんかい。お前の勤め先って確か教科書メーカーだろ」
「いやちょうど、私薫から二分だけ早く帰って来てだけだからね」
まったく嘘のない言葉と共に、二人は同時にシチューを口に運ぶ。部屋の時計はまだ一直線になったばかりだが、それでも二人ともパジャマに袖を通していた。
「でも薫今日は早いね」
「あたしの仕事は朝が早い代わりに終わりも早いんだよ。明日も朝四時起きだからな。お前何時だっけ」
「七時」
「そうか、出るのは七時四十五分だよな。そんで二十分かけて通勤、と」
「ああまた後で薫の朝ごはん作らなきゃ」
朝四時起きで四時四十五分までに仕事場に集合、五時から二時間仕事。そして朝食休憩と言う名の一時間の休みを経てその後は正午まで四時間、さらにもう一時間昼食休憩を取りその後は四時間労働、つまり休憩時間を差っ引いても九時間労働。それが薫の仕事である。一応週休二日制だが日曜以外は不定休で、今週の休みは水曜日だった。
そんな朝が早い代わりに午後四時に仕事の終わる薫がいつもこんな時間にまで帰って来ないのは、毎日理由が違う。ある時は買い出しに行き、ある時は社内の付き合いで酒を呑み、またある時は同居や不動産購入の申請など真面目な話をしていた。
そんな薫の「朝食」を作るのもまた、静香にとって立派な仕事だった。朝は菓子パンひとつ口にすれば重畳なほど粗雑な食生活を送っていたことを知った時には人並みに血の気が引き、何とかしてやらなければと言う一念に駆られた。
「ありがたいけどさ、お前朝晩飯作って大丈夫なのかよ、っつーか弁当まで」
「そんなに複雑じゃないよ、今度の土曜日もお勤めあるんでしょ、その時は朝昼二食分やるからさ」
「その才能どうしてあたしにないんだろーなー」
お互いがお互いを認め合う。当然の事だった。
なればこそ少し前に教会に行き、婦婦となり、指輪ももらった。今でも静香はその指輪を付けて仕事場へと向かっている。別段珍しい事でも何でもない。静香からしてみれば単純に高い贈り物が嬉しかったし、嬉しかった。それを口にするのははしたないとわかっているから口にこそしないが、それだけでも一緒になってよかったと思っていた。
静香の家は、正直豊かではなかった。婦婦二人共働きながら収入は低く、二人とも外に出て働きながらも今の薫ひとりの二割増しぐらいしか稼げなかった。そのせいでいろいろ欲しかったものを手に入れる事ができず、悔しい思いもして来た。そのために幼稚園や小学生の時分は多くの人間を撒き込み迷惑もかけてしまった事がつらかった。
それでも、出会う人間たちは皆優しかった。自分を成功させるために骨身惜しまなかった婦婦のおかげで名門校に進学できた静香は必死に学問に励み、人並みの夢である管制塔の住人を目指した。だが婦婦の二人と同じように夢は叶わず、入社できたのは管制塔の傘下企業でもない教科書メーカー。給与は婦婦一人よりは多いものの決して高給取りではなく、今住んでいるマンションの半分の家賃のアパートでも足が出そうになっていた。
そんな時に飲み屋で出会ったのが薫であり、ほどなくして交際を開始。大柄で時に強引な彼女を恐れる同僚もいたが、静香はそんな薫に引きずられるままに親しくなり、やがて同棲し指輪を贈られた。
「っつーかお前も少食だよな、あたしの半分ぐらいしかねえぞ」
「だってこれでお腹いっぱいだから。私そんな運動してないし」
「もっとたんと食えよ、っつーかあたしが食わせてやるから。お前あるいはまだ昔の事気にしてんのか」
食事の量も増えた。元から胃が小さかったせいか食事量は少なく、三食をきちんと取る事は取るがそれ以上の食事を望まなかった。その結果バランスの良い食事が身に付き、その上で料理も婦婦から習った。それこそわずかな金を溜めるように包丁の使い方も学び、他に掃除洗濯も習熟した。
このマンションには瞬間湯沸かし器とでも言うべき風呂釜だけでなくロボット掃除機、全自動洗濯機が据え付けで存在し、その修練を発揮する機会を奪っているのは間違いない。それでもその月日が無駄になったとか揚げ足を取ったり自嘲したりする存在はこの場にいない。それだけで、静香は幸せだった。
愛すべき存在である、薫と共にいられて。
ゴミ回収業に従事する、薫と共にいられて。
そんな気持ちなど関係なくテレビを点け冷蔵庫から出して来た缶ビールを開ける薫の姿さえも、静香は愛おしかった。
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