潰れるバー

 居酒屋でゴミ処理業者たちが騒ぎ始めてから一時間後の、午後十時。


 管制塔と呼ばれるオフィスビルから徒歩二十分の、地下一階にあるバー。

 本来なら仕事を終えた人間たちが疲れを癒すべく酒をあおるはずだった。


 だがその日は客はおらず、酒すらまともになかった。


「どうするんですかマスター」

「競合相手の店で下働きから出直します」

 間接照明が輝き、趣味のいい緑色の植物とルービックキューブめいたオブジェクトがたたずむ、大人の社交場。

 その場で二人のベスト姿の人間は、最後のボトルを拭きながら当てもなく最後の客を待った。

「あなたも付いてくるの?」

「私はあの管制塔へ行きたいと思います」

 その管制塔と言う単語がエリート職員になると言う意味でない事はマスターも知っている。管制塔の仕事は何も治安維持や入国審査だけではなく清掃や食堂、メンテナンスなど山とある。そこにいる事はたとえどんな立場でもある種のステータスであり、多くの住民が憧れていた。

「ごめんね、こんな自分勝手なことに付き合わせちゃって」

「いいんです、店長さんの夢だったんでしょ」

「私には無理だったのよ、こんなに無理しちゃって」

 ほんの一キロ歩けば三軒のバーがある中、この店はそれなりに耐えたと言うのが世間的な意見だった。単純に酒がうまいのもあったし、それなりにマスターもこの店員も好かれていた。

 だが、それなりでしかなかった。

「優しい雰囲気で、じっとお酒を楽しんでもらう。そんな場所が欲しかっただけなのに。みんなと噛み合わなかったのね」

 その三軒のバーはどちらかと言えば数人で派手に騒ぐのが美徳のようなバーで、酒を片手にはしゃぎまわるのを止めるような人間はほとんどいなかった。そんな人間はええかっこしいの烙印を押されて浮き、無聊をかこつような偏屈なお客様の専属に回された。

 その偏屈なお客様の担当をしていたのがこのマスターであり、そのマスターに魅かれて移籍したのがあの居酒屋の店員の姉だった。

「この後ここどうなるんです」

「別の店が入って来るみたいよ。いわゆる居抜きって奴で。たぶん騒がしいお店になるんでしょうね」

 自分とマスター、二人三脚で整えたはずの内装。それがどんな人間の手に渡るのかと思うと悔しくもあり、悲しくもあり、同時に期待もあった。

「ねえあなた、お酒は何のためにあると思う?」

「それは、私たち人類を潤わせるために……」

「ずいぶんと哲学的ね。でも私が求めていたのはそんな答えなの。その答えを追い求めてくれるお客様がいれば良かったのにね」

 このバーに、看板はない。一応名前と出入り口の案内だけはあったが、それが全てだった。その代わりのように酒を集め、椅子を含め内装を豊かにして来たはずなのに。


 同じ事しか、マスターは言わなかった。


「これでお別れかもしれませんね」

「そうね。あなたはやはり、あの管制塔が似合うわ」

「頑張ります。妹もそこに入ろうとしてます。もしかしてマスターも」

「もちろんよ、この町に暮らせばみんなあそこを目指すからさ」

 管制塔に入る事が、勝ち組エリートの条件として語られて久しい。

 と言うより、ほぼ全員にとって当然の事だった。

 一流の高校に入り一流の大学を出るか、たとえ高校大学が二流でも必死に下働きから経験を積むかして管制塔に入る事は、一つの人生の指標だった。

 みんな、そんな当たり前の事を忘れてしまったのか。自分は頭が悪くて駄目だったが、それでも志高く頭脳も良き者があそこへと入り、町を導いていくはずだ。

「……あの子、今頃何してるのかしら」

「あの子って、小学校の同級生の」

「そう。あの子はとっても勉強ができてね、私の知らない事も一杯教えてくれた。それで絶対管制塔に入るって思ってた。この町を守ってくれるって」

「そうだったんですか……」

「でもいきなり、この町を出たいとか言い出してね。もちろん私はあの子の親たちと一緒に大反対したけど、意志が固くて言う事を聞かなくてね」

「まさかマスターがお酒の道に進んだのは」


 夢破れた人間が過去を振り返り、思い出の仲間の存在を引きずり出す。

 別に閉鎖されている訳ではない町。その気になれば出る事はできる町。これもまた創始者たちの功績であり、去る者は追わず来る者は拒まずの姿勢が基本だった。

「汚い言葉だけどね、今頃あの子は外でめちゃくちゃにされているかもしれないわ」

「めちゃくちゃと言いますと」

「ええ、丸裸にされてもてあそばれているとか、あるいはとんでもなく卑猥な衣装を着せられて慰み物になってるとか。やったでしょ、小学四年生の時のお話」

 それでも、去る者への圧力は小さくなかった。

 マスターの言葉はそれこそ小学生、いや幼稚園の頃からずっと吹き込まれて来た教育の賜物であり、誰もが知っているはずだった。

「それは……」

「私たちは安心して歩ける町を作りたい。その一心でやって来た。そしてようやく完成したはずなのに、なんでわざわざ危険な方へ行こうとするのかしら」

 安全と平穏のための戦いの果てに待つ物がそれだとすれば、人間ってのは本当に愚かだ。

 その結果どんな苦難に見舞われようとも、誰も守ってくれないと言うのに。

 マスターはかつての同級生を恨み、この店を選んでくれなかった客を恨んだ。

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