恐怖を感じる臭い

「えらく疲れた顔してどうしたんだい」

 団体客が酒の匂いを振りまきながら店から消えて行く中、レジ係は店主により店の中へと消えて行った。一滴も飲まないのに足がふらつくレジ係をそっと抱きかかえながら、店主は三角巾を直す。

 そのままホワイトボードと机と椅子がある会議室とでも言うべき部屋に入れられた彼女は、ようやく無理くり作っていた笑顔をほどいた。


「私、ものすごく心配で、そして少し悔しいんです」

「へえ」

「どうして、あそこまで好き放題できるのか、そんな事をしたら死んじゃうかもしれないのになんで平気なのかなって」


 素直過ぎる事は、時に人を傷つける。他人をさげすむ事がどれほど罪深い事か、この町の人間は皆知っている。そのせいで将来を嘱望されながら大幅に立場を悪くした人間たちを、店長もまた山ほど知っていた。

「お前さんさ、まだ未練があるのかい」

「未練なんて」

「あるんだろ、ほら好きなだけ吐き出しなさい」

 背中をさすられてなおありませんと言わんばかりに首を横に振るが、それでも店長の手は止まない。この店に来て二年も一緒にやってればわかるんだからと親のような顔をする店長だったが、それでもなおレジ係の胃は軽くならずその内容物は口を重たくするばかりだった。

「ったく、人の嫌がる事を進んでやるのがいい人間だろ。私ゃあんな職場とても勤まりそうにないね、それをやってるだけで偉いんだよ」



 人の嫌がる事を進んでやる。



 それもまた、この町を作った人間が遺した言葉だった。


「私もこの町に住んで半世紀だけどね、本当に私って果報者だって思うよ。世間的に見れば私も夢を叶えたとか言われてるけど、レールに乗っかってここまで歩いて来ただけの甘ちゃんだよ」

「そんな」

「小学生の時連れて来られたこの店に憧れ、高校出てこの店にすぐバイトとして入りながら調理師になり、厨房を請け負うがてら前の店長から経営も学び、十年前に店長になった。そこまで大した苦労もしてないのにさ」

 苦労をしていないと言う言葉の説得力を奪うはずのしわの多い手さえも、なぜか太平楽の中にいるように見える。

「ねえ、世の中には需要と供給ってのがあるんだよ。その需要があるからここにお客様は来ている」

「そう、ですね……」

「で、あの人たちの仕事も同じだよ。需要があるからこそああして仕事があるんだ。そして悲しい事に、供給が少ないからね。知ってるでしょ、あの人たちのお給料を」

 供給が少ない仕事の給料が高くなるのは、自然の摂理だった。無論逆もまた真理であり、この町における接客業は常に供給過多気味だった。

 バイトから店長と言う名の重職者まで上り詰めた彼女は紛れもない成功者であり、あるいは多くの店から客を奪い取って来た破壊者かもしれない。その成功者でさえも、収入と言う点で言えばあの酔客たちとそれほど差がない。

「成功するって事は一つじゃない。こんな素晴らしい町だってのに出て行こうとする人もいる。その程度には成功の道筋は多いんだよ」

「でも外ではあんなのがたくさん」

「あんなのなんて言っちゃダメでしょ」


 親のようにレジ係をたしなめる店長でさえも、理屈がわからない訳ではない。


 先人たちが本来恐れるべきは、あの作業員たちのような存在であったからだ。

 酒に溺れ、粗野な言動を恥じる事なく行い、風紀を乱すような存在。

「私たちの先祖は、ああいう人たちの存在を嘲笑する連中と戦ったの。どうせ私たちにはこんな事できないだろう、いずれ自分たちを頼って来るだろうって」

「そうでした、ね……でも本能的って言うか、その……」

 その手の音声、その手の振る舞い。なぜかその手のステレオタイプのような特性を持った人間たちの存在に恐怖を覚えてしまう。そんな遺伝子がこの町にあふれていたのは紛れもない事実だった。

「本当なら、ゆっくりと一口一口口を付けて、他のお客様に迷惑にならないような大きさの声で、自慢の料理もゆっくりと噛んで味わってもらいたいのにって」

「優しい子だね。でもあのお客様からしてみればそれはお節介って言うんだよ。あの人があなたを自分たちのやり方に付き合えって言ってるように思えたのかい」

「思いました……」

「それなら私も止めてるよ、だからあんたも人様に自分の理想を押し付けちゃ駄目だよ」

 最後にはありきたりな正論になってしまった事を反省するように、店長は腰を下ろしながらレジ係の手を取った。



「おいおい、そんなにつらい仕事なのか」


 そうして実はほんの数分ほどばかり引っ込んでいたレジ係が帰って来るのとほぼ同時に、また別の団体客が来ていた。

「聞いたぞ水道会社の連中から、なんかえらく疲れてるって」

「ご注文をお願いします」

 裏表のない誠意、裏があるとすれば金払うから飲み食いさせてくれよと言うだけの人間たち。だが言うまでもなくこのゴミ回収担当の職員たちの集まりはレジ係にとって猛毒であり、レジ係を右手で制して店長自ら注文を受けた。


(いつもは大丈夫なはずなのに……噂には聞いてたけどショックが大きいんだろうねえ。今度は彼女も慰めてやらないと…………)


 店主は彼女の姉の事を思いながら、目の前の客に対応した。

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