第三章⑥『背中を向けられた者たち』
「……結局、戻ってきちゃったな」
保健室を後にした僕は、そのままフラフラと校舎内を
ここに来たって、ハナコの声が聞こえてくることなんかない……そんなことは分かっている。分かっているつもりだったけど……でも、このまま、何も言わずに帰るのも嫌だった。せめて、謝罪の言葉くらいかけておきたいと、そう思ったのだ。
「…………」
だから、もしかするとこれでお別れかもしれない。ハナコは僕の声が聞こえるかもしれないけど、僕の耳には……心には、彼女の声は届かない。だったらせめて、最後に伝えたいことを、ハナコに伝えておきたい。そのために、僕は再びここを訪れたのだ。
……もう二度と、ここに来ないかもしれないから。
チラ、と隣の教室に目をやる。もうすっかり暗いが、
「……ハナコ、入るね」
規制ロープをくぐり、いつものように声をかけてから、ゆっくりと扉を開く。ギイ……と重厚感のある音を立てながら開いた扉の先は、真っ暗闇だった。こんな遅い時間にここへ来るのは初めてだから、改めて暗い中でこの空間を見渡すと、お化けでも出てきそうな雰囲気だと感じた。それはまさに、暗く染まった深層世界のように、僕の不安を煽る。
と、
何かが足に当たった。……いや、何かを踏みそうになった、と言うべきか。一歩下がってから鞄を置き、ポケットから取り出したスマホでライトをつけた。少し緊張しながら、光を足元に向ける。
目に映ったのは、腕。
そして、それを辿った先に、だらんと横たわった一人の生徒の姿を見つけた。
……その顔には、見覚えがある。
「か……
慌てた拍子にスマホを落としてしまうが、そんなことはどうでもいい。僕は急いで風晴さんの身体を起こし、肩を揺すりながら呼び掛けた。
「風晴さんっ! 風晴さん、しっかりして……!」
「……う、んん…………あれ?
「あぁ……良かった。 気を失ってただけみたいだね」
スマホを拾って、ライトをつけたまま近くの箱に立て掛ける。見たところ、外傷とかもなさそうだ。ホッと胸を撫で下ろす僕とは対称的に、僕の姿を見た風晴さんは、不安げな表情を浮かべて、
「剣悟くん、どうしてここに……け、怪我はもう平気なの?」
「あ……まぁ、うん、大丈夫。 ……心配かけちゃってごめんね」
それより、どうしてこんな所に……? と尋ねようとする僕よりも前に、風晴さんが慌てた様子で声をあげる。
「あ……あの、剣悟くん! これ、この子……」
「え?」
地面を指差す風晴さん。しかし、その場所をライトで照らしてみるけど、何も見当たらない。
「何もないけど……この子、って何、が…………」
まさか……という考えが頭をよぎる。
有り得ない。もし僕の予感が当たっていたとしても、説明のつかない点がいくつもある。違う、そんなはずない。
そう、思いたかったけれど……
「え……嘘、見えないの……? ほら、ココ! ココにいるじゃんか!
……あ、もしかしてコレのせい……?」
一人で呟きながら、風晴さんは僕に手を突き出し、握っていたものを見せるようにして手を開いた。
そこにあったのは───
「───
「え? あ、いや……名前までは私も分かんないけど……。 ……剣悟くん、やっぱり何か知ってるの?」
キラキラと、切れかけた豆電球ほどの光を淡く放つオレンジの石。それはまさしく、僕が今まで所持していた心眼石そのものだった。しかし、それは中央付近で砕けて二つになっており、元の形を保てていない。
「っ……!」
恐る恐る手を伸ばし、風晴さんの手のひらから心眼石を取る。二つの欠片を優しく握りしめ、胸元に近づけた。かつてはペンダントとして、首から下げて所持していたから、それに近い状況にするためだ。
しかし、いくら目を凝らしても、念じるように眉間に力を込めてみても、一向に
「どうして…………」
多分、風晴さんは"視えて"いた。
心眼石の力を引き出し、
何故、風晴さんが"
しかし、僕の視界に広がる光景は変わらない。僕の
なんで……どうして、力が戻らないんだ……!
「っ!? えっ……?」
不意に、風晴さんが顔を上げた。目を丸くしたまま、彼女は急に辺りをキョロキョロと見回しはじめる。
「風晴さん……?」
「───『心眼石のリンクは、新しい所有者である風晴
「え…………」
まるで、全て知っていたかのような詳しい説明。
それを、どうして風晴さんが…………
「風晴、さん……? なんで、そんな事知って……」
「わ、私にも分かんないよ! でも、なんか耳元で声がして……その、女の人の声が、急に……」
「女の人の、声……」
ドキン、と心臓が鼓動を強く刻む。
真っ暗闇の中に、ポツンと小さな光が灯ったような、微かな希望。
風晴さんの言葉で全てを察した僕は、ゆっくりと視線を上へ移し、微笑む。さっきまで感じることさえ出来なかったはずの"彼女"の気配をそこに感じ取って、僕は、そっと声をかけた。
「……そこに居るんだね、ハナコ」
当然、返事はない。
けど、頷く彼女の
「えっと……あの、どういうこと? ハナコ……って、三番目のトイレで有名な? 剣悟くん、この声の主と知り合いなの?」
「あ……ごめんね、置いてけぼりにして。 その、うまく説明できないんだけど……」
「いやまぁ、私もさっきからずっと混乱しっぱなしだから何がなんだか…………
…………え? ……あ、うん……それは全然構わない、けど……」
と、急に後ろを振り返った風晴さんが、何やら一人で相づちをうち始める。きっと、ハナコが何か話しているのだろう。……もしかすると、ハナコと念話をしていた時の僕は、周りからこんな風に見えていたのかもしれない。その光景に、なんだか懐かしさすら覚える。
「えっと、ね……ハナコさん? からの伝言なんだけど……」
たどたどしく、風晴さんが説明を始める。
「私が、剣悟くんの持ってた、その……心眼石? を、向こうで拾って、それで
うん……本来は、心眼石が壊された時点で、力は失われてるはずなんだけど。 風晴……じゃなくて、私の
「なるほど……心眼石が力を取り戻して再起動したことで、石を所持していた風晴さんが所有者に上書きされた、ってことか……」
「そんな感じ……だって。 えと、つまりどういうこと? なんか、新しいゲームの話してる?」
要するに、スマートフォンみたいなことなんだろう。
前までは僕が持っていたけど、故障したことで電源もつかなくなり、データもリセットされた。けど、風晴さんがそれを直したことで、再びスマホは使えるようになった。でも、完全に初期化されてしまったスマホは、修理を担当した風晴さんのことを"持ち主"として設定してしまった。だから、既に所有者でなくなった僕がスマホを開こうとしても、ロックがかかって開かないのだ。
「えっと……心眼石そのものの機能を回復させる力、っていうのは……その、ハナコさん? も初めて見るんだって。 で、どれぐらいの力なのかは分からないみたい。 私がハナコさんのこと見えないのは、恐らくそのせいだ、って」
「そうか……割れた心眼石を無理やり回復させてるだけだから、僕の時みたいに全部をそのまま使えてる訳じゃないんだね」
「……あ、あのー、そろそろ私にも何か説明してくれない? なんかこう、よく知らない大学の授業聞いてるみたいでちんぷんかんぷんぷんなんだけど……」
「あっ……ご、ごめん! つい没頭しちゃって……」
どこから説明すれば……と悩み始めたところでハッとする。
僕は今まで、
(どうしよう……風晴さんに、全部話して良いのかな……)
ほんの
と、沈黙する僕を見かねてか、風晴さんがスッと足を入れ替えて座り直し、
「……ごめんね。 言いにくい事だったら、無理には聞かないから」
「風晴さん……」
でも……と、俯いて話していた彼女は、そこでフッと顔を上げて僕の目を見た。
「私、学校のみんなと仲良くなりたい、って思ってるからさ。 剣悟くんだって、そのうちの一人だし。 だから……君が苦しんだり、悲しんだりするのを見過ごすなんて、したくないんだ」
「っ……!」
なんとなく、聞き覚えのある言葉だった。
そうだ……僕は、前に同じようなことを、ハナコに向かって言ってたんだ。巻き込まれてもいい。後ろめたさなんて、感じないで欲しい。ただ、僕自身が君の力になりたい……そのために、ハナコのことを信じて頑張ると。
そうか……きっとハナコも、こんな気持ちだったんだろうな。今さらながら、あの時ハナコが抱いていたであろう気持ちに、少し寄り添えた気がした。
「……心眼石を手に入れて、力を得た以上、彼女……じゃないや、私が巻き込まれるのは致し方ない、って……ほら、ハナコさんも言ってるし!」
「そっか……ハナコに言われたんじゃ、仕方ないな」
「そうそう! ってぇことで、洗いざらい吐いてもらうから覚悟しなさ~い? ……ふふっ」
風晴さんに釣られて、困ったように笑う。
……ああ、こうして笑うのは何時間ぶりだろう。黒く濁っていた僕の心が、ほんの少し軽くなる。泥だらけだった表面がちょっとだけ洗われたかのように、自分の中の希望が少しずつ取り戻されていくのを、僕はその心で感じていた。
***
「───つまりこの子は、私の心が擬人化したキャラクターみたいな感じで、一人につき一体、その
「うん。 僕は今までその心眼石を使って
僕は、
恐らくもう、夜七時を回っている。夜の閉ざされた倉庫で、生徒二人が地べたに座って情報共有をする……と、
「あ……じゃあやっぱり、体育館の裏で私と話してた時も……」
「え……あの時のこと覚えてるのっ?」
「あ、いや……前は記憶あやふやだったんだけど、その……心眼石を持った時に、なんか、色んなことブワーッ! て思い出して……。
「そっか。 ……あの時は、その……ごめん……」
「いやいやいや! 大丈夫だってば、むしろ私のがお礼言わなきゃいけないぐらいなんだし!
……それにしても、そっか……。 私の知らない所で、剣悟くん、そんなすごいことやってたんだね……」
静かに呟く風晴さん。その声色は、嬉しさが表れているようにも、寂しさが表れているようにも聞こえた。
「それで……剣悟くんは、これからどうするの?」
「え……?」
不意を突くように、風晴さんが僕の顔をじっと見つめながら問い質した。
「あっ、ごめんね。 今のはハナコさんからの……いや、まぁでも私も聞きたいかな。 剣悟くんの、これから先のプランというか、そんな感じの、さ」
「僕は…………」
プランなんて、何一つ決まってなかった。
そうだ……僕はそもそも、ハナコにお別れを言うためにここを訪れたのだ。ハナコはきっと、
「……」
答えられずに黙っていると、風晴さんはピク、と一瞬首を動かし、そして真剣な表情でまた向き直ると、
「……ハナコさんは、『
「っ……!」
僕が完全敗北を喫した、歌河
僕という目障りな存在を始末した彼が、次にどんな行動をとるのか……想像しただけでも恐ろしい。でも、それを止める
「無茶だよ! 歌河は、ハナコのことも狙ってる。 アイツが何を企んでるのか……どんな力を持ってるのかは知らないけど……もし、ハナコの身に危険が及ぶようなことになったら……!」
少しの沈黙の後、風晴さんが口を開く。
「……『それは、私が剣悟くんにしたことと同じだ』って……」
「え……?」
「……『私は、君の力を頼って、君に『
「違うよ……! 僕は、自分の意志で君を助けたくて! それで協力してただけだ! ハナコが気にすることなんて何もないじゃないか!」
また、沈黙。この微妙な間が、僕とハナコを
「……『それでも、君を傷つけてしまった責任は私にある。 だから、ごめん』」
「ハナコ……」
「……『歌河の企みを暴いて、それを阻止する。 そうすれば、この学校に
……何も言葉が出てこなかった。
「もう剣悟くんに責任は負わせない」。
それは、事実上の決別を意味する宣言だ。僕とハナコの協力関係が消滅するということ……即ち、見放されたということに他ならない。
一番、恐れていたことだった。
ここに来る時点で、自分でも覚悟していたつもりだった。
でも、僕にもう何の力も残されていないのは、れっきとした事実。だから、僕には何も言い返す資格なんてない。「それでも、君の力になりたい!」なんて、無責任な言葉を吐くだけの力が、僕には……残されていないのだ。
「……ごめん、一旦通訳ストップしていい?」
「え……?」
と、ハナコの言葉を伝えるのに徹してくれていた風晴さんが、急にいつもの話し方に戻る。ふぅ……と運動する前みたいに息を吐き、彼女はクルッと身体を回して横の壁に
「……多分、ハナコさんは怖いんだと思う。 これ以上、剣悟くんが傷つく姿を見るのが怖くて、それで、剣悟くんを護ろうとしてるんだよ」
「僕が……」
「……私も、剣悟くんが倒れてるのを見た時、怖かったから。 何があったんだろう、大怪我だったらどうしよう……ってさ。
……剣悟くんが、誰かのために身体を張れる人なのは知ってる。 けど、それで守られてる側の人って、それはそれで結構しんどいんだよね。 自分のせいで傷ついてしまってるヒーローのことを……その背中を、後ろでただ見守るだけしか出来ない訳だから」
ハナコの代弁の時とは違う、静かな……しかし、はっきりとした声音で、風晴さんは続ける。
「だから、私自身も"ヒーロー"になりたい、って願うんだよ。 守ってもらった分、今度は私が守るんだ! ……みたいな感じで。 それはきっと、私だけじゃない……ハナコさんも、おんなじなんだと思う」
あ、勝手に色々言っちゃってゴメンあそばせね……と、申し訳程度に、誰もいない倉庫の奥へ向かって声をかける風晴さん。でも、彼女のその言葉は、驚くほどスッと
僕自身がヒーローに……って自覚はないけど。でも、ハナコや、皆のことを救いたいという思いを抱いていた時の感覚は、とても近い。そして、それが自分のエゴに上塗られた時……救われた側の人間が悲痛を感じるということも、今の僕には十分理解できた。
力を失った僕が、ハナコに守られようとしている今、この状況こそが……それなのだ。
「……私は」
少し長い沈黙の後、風晴さんがふと呟く。
「……歌河に傷つけられることより、剣悟くんが傷ついてる姿を見る方が、よっぽど辛い。 これ以上、大切な人が傷つくところなんて見たくないんだ。 …………だってさ」
それは、どうやらハナコの言葉らしかった。
ちょっと憎まれ口で、素直じゃなくて、クールで掴み所のないハナコ。……そんな彼女が初めて僕に向けた、純粋な思い。
決別なんかじゃない。
戦力外通告なんかでもない。
───ハナコは、僕のことを心から信頼してくれていたんだと、その時やっと気づいた。
「……『だから、後のことは任せて。 全部解決したら、また君にお礼を言いに来るから』……って」
「ハナコ……ありがとう。 力になってあげられなくて、ごめん」
「…………『もう充分だよ』。 だって」
……その言葉を最後に、会話は途切れた。
言葉の続きを待っていた僕だったが、風晴さんがハナコからの伝言を再び口にすることはなく……それからしばらくの沈黙が続いた。倉庫内の暗さ、静けさが色を濃くする。倉庫のドアに埋め込まれた
「……ハナコは?」
「分かんない。 ……声、聞こえなくなっちゃった」
「……そっか」
膝を抱えて、三角座りの姿勢でうずくまる。
不安に駆られていたさっきまでとは違う、心の動き。それを整理するための時間だった。こんな時、僕の
「それで……これからどうする?」
数分前の問いかけを、風晴さんは再び繰り返した。でもそれは、プレッシャーをかけるような声音では全然なくて……むしろ、僕の今の心情を全部分かった上で、寄り添うように声をかけてくれているのだということが、感じられた。
「多分、「このままで良い」とは思ってないんだよね、きっと。 ……剣悟くんは、これからどうしたい……?」
「僕は…………」
そうだ……僕は…………
「…………このまま、諦めたくないっ!」
つづく
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