第三章⑤『Lost heart, NACK all』
「───ったくもー。
六時間目の授業が終わり、もうすぐ帰りのホームルームが始まるという時間。
彼女のミッションは、昼休みから姿を消してしまったクラスメイト、
(まぁ、単にサボってるだけだったら、まだ良いんだけど……)
階段をリズムよく駆け降りながら、陽葵は少し不安げな表情を浮かべていた。彼女の頭の中には、ある不安要素があったのだ。
それは、昼休みのこと。
剣悟宛に届けられた、一通の手紙。最初はラブレターか何かかとクラスが盛り上がったが、中身を見た途端、剣悟はその表情を一変させた。そして、
『───
『アイツが……ゲームの続きをするって……僕を、呼んでる…………』
『…………行かなきゃ!』
その言葉を残して、彼は手紙を握りしめたまま教室を飛び出してしまったのだ。
歌河……その苗字には、聞き覚えがある。
何かの事件を起こして停学処分を受けている、という噂。さらに最近、放送室をジャックして、花壇荒らしの犯人が自分であると自白をしたことも記憶に新しい。
詳しく知っている訳ではないが、"ヤバい人"であるということだけは分かる。だからこそ、陽葵は剣悟のことが心配でならなかった。
(きっと剣悟くんのことだから、また人助けに没頭して……ってトコなんだろうけどさ。 それにしたって人が良すぎるよ、剣悟くんは)
陽葵も、彼に救われたうちの一人だ。
詳しいことは覚えていないが、かつて自分が思い詰めておかしくなっていた時、彼に体育館裏で説得されたことがある。誰にも分かって貰えないと思っていた自分の感情を、彼は初めて受け止めてくれたのだ。
それに、彼は霧谷椿や
……結局のところ、何も分からない。記憶があやふやだし、彼が具体的に何をしてきたのかもよく分かっていない。でも……彼はきっと、皆の心に作用する不思議な力を持っているのだと、陽葵は確信していた。
人の心を動かす力……それを剣悟くんは、善良な目的のために使っていて、それで人助けをしているのだと。
「……って! 今は別に剣悟くん談義はいいんだってば!」
ブンブンブン! と頭を振る陽葵。ここ最近彼女は、剣悟のことばかり気にかけては、一喜一憂することが増えていた。
話す時は普段通りに話せるのに、何故か緊張してしまう。目が合うと、口角が無意識に上がってしまう。先生に剣悟を探すよう頼まれた時だって、心の奥底では、ガッツポーズをするほど嬉しく思ってしまっていた。
あの日。
保健室で、倒れている二人を前に、剣悟くんと出会った時。
その時に何があったのか、今でも全然思い出せないけれど。でも確かに、あそこで"何か"があった。忘れてはいけない事件が、あった気がするのだ。
その日から、陽葵の心は彼に奪われてしまっていた。
(こんなの、まるで…………)
───恋。
そのワードが浮かんだ途端、ボンッ! と爆発するかのように顔が赤くなってしまう。いつも快活な彼女らしからぬその表情は、クラスの誰もが知らないだろう。何より陽葵自身が、自分の中に沸き起こる感情の高まりに驚いていた。こんなの、私らしくない! と思うたび、甘酸っぱい気持ちの起伏に揺り動かされるように、陽葵の足どりは時折フラフラと揺れた。
「───ちょっと貴女、廊下は走らないの!」
と、階段を降りようとした所で、陽葵は背後から何者かに声をかけられた。どうやら、知らぬ間に駆け足になってしまっていたらしい。どこかで聞いたような声に振り返りつつ、陽葵はあくまで平静を装いながら、
「あ……ご、ごめんなさ~い! ついついランナウェイしちゃって♪」
「はぁ……気をつけなさい。 今、下の階で窓ガラスが割れる音がしたとかで、風紀委員が見回りをしているの。 もし、ガラスが割れている所を走ってこけたりでもしたら、危ないでしょ?」
「ガラスが……?」
「そうよ。 今はまだ調査中だから、下の階にはあまり近づかないように…………って、ちょっと貴女! どこ行くの、待ちなさい!」
───それは、陽葵が察した"嫌な予感"だった。
何かに駆り立てられるかのように、陽葵は階段を物凄いスピードで下っていく。後ろで叫ぶ風紀委員の声など、彼女の耳にはもはや届いていない。ただ、その先に剣悟がいるような気がするという、予感。たったそれだけが、彼女を突き動かす。
階段を下りて、一階に到達する。この棟の一階は、幽霊が出ると噂の、あの『開かずの倉庫』がある場所だ。陽葵は、倉庫がある方へと走っていった。つい先ほどまで浮わついていた足どりは、タンタンとしっかり地面を踏みしめる力強い一歩へと変わっている。
そうして、ものの十秒と経たないうちに倉庫へとたどり着いた、その時だった。
「……え?」
倉庫の前の廊下が、赤黒く汚れているのが目に入った。まるで、吐血したのを足で強引に掻き消そうとしたような、グチャグチャの
血の痕は、ポタポタと道しるべのように
「…………何、これ………………」
陽葵は、目の当たりにしてしまう。
机と椅子が、無茶苦茶になぎ倒されて積み上がっている。
割れた窓ガラスの破片が四方八方に飛び散り、曇り空から漏れるぼやけた光を乱反射している。
まるで、クマが暴れたのかと言わんばかりの惨状。
その中心で。
「───剣悟くんっ!!!」
ボロボロになった藤鳥剣悟が、血溜まりの中で倒れ伏していたのだ。
***
ぶはぁっ! と、
そこは、校舎端にある運動部用のトイレ。部活動の時間か、外での体育の時ぐらいしか利用されないその場所は、針月が身を隠すのにうってつけの場所なのだ。
「───あーあー、派手にかましてくれたねぇ。 というか、もうちょい綺麗なとこの水で洗えば良いのに」
その声は、トイレの外から聞こえてきた。
「…………別に、今さら衛生とか気にする意味ないでしょ。 死ねば皆一緒だしね」
「ってか、なんであんなアホな事したの?」
「ただのパフォーマンスだよ。 傷ついて、血を吐いて、痛々しくてキモい姿を晒して相手を不快にさせる。 ……見てるヤツを嫌な気持ちにさせたかった、ただそれだけさ」
「ははっ、相変わらずだねぇ」
不意に現れたその女子生徒は、トイレ入り口前の壁に
「……で、何の用だよ醜女」
「だ~か~らぁ、私には
針月の悪態を特に気にする様子もなく、女子生徒───四條由佳は、ただ
針月は、口に溜まっていた血の塊をプッ! と側溝に吐き捨てた。そして、由佳と目を合わせることもしないまま、何も言わず歩き出す。置き去りにされた由佳は、やはり乾いた笑みのまま針月の背中を見つめ、
「ねぇ、これからどうするつもり?」
ピタリ、と針月が一瞬歩みを止める。
由佳からは、ちょうど彼の顔は窺えない。やや俯きがちに影を落とした彼の
「決まってるよ。 ……この学校に残された"希望"を一掃する。 新展開はその後だ」
***
『───剣悟くん』
「……ハナ、コ…………?」
……それは、モーニングコールと呼ぶには少しばかり重く、悲しげな声音の呼びかけだった。
意識がハッキリしていくと同時に、僕の身体は一瞬で痛みと気だるさに包まれた。辛うじて目は開けられるけれど、体を動かす気力は湧かない。そんな満身創痍の状態の中で、僕は、一面に広がる真っ暗闇に包まれた世界を目の当たりにした。
ここは……深層世界、だろうか……?
これまでハナコと共に救ってきた、『
……でも、何かが変だ。ノイズも、モンスターらしき影もない。何より、僕の
『───剣悟くん。 目を覚まして』
と、目の前に一筋の光が浮かぶ。光は次第に形を変えていき、やがて、ハナコの姿になった。暗闇の中心にポツリと、僕たち二人の姿が並ぶ。
「ハナコ……ここは一体…………」
『……残念だけど、もうお別れだ』
僕の質問に答える前に、ハナコはそう言い放った。彼女を包む光は、次第に薄まっていく。
「待って……どこ行くんだよ、ハナコ……!」
『……私が君に対して黙っていたこと、沢山あった。 それは謝罪する。 けど……もう戻れないんだ。 力を失ってしまった以上、もう君と私は一緒には居られない』
「でも、それは僕がそう言ったからで……!」
『君はもう、これ以上踏み込んじゃ駄目なんだよ。 ここから先は、もう君の立ち入れる世界じゃない』
余計な
……でも、こんな終わり方なんてしたくない! 秘密がどうとか、力がどうとか、そんなこと関係ない。ただ僕は、ハナコが心の底から僕を信頼してくれるまで、僕を認めてくれるまで待っていたかっただけなんだ!
なのに、それなのに……!
『君の役目は、もう終わった。 君はもう、人助けなんてしなくていいんだ。 だから、私のことは忘れて、自由に生きて』
「嫌だ……嫌だ嫌だっ! 嫌だっ! 待ってよハナコ! 君がいないと、僕は……っ!」
『……ごめんね。 さよなら、剣悟くん』
刺すような痛みに耐えながら伸ばす手は、光に届かない。ゆっくりと消えていくハナコの光を、僕はただ遠くから見ていることしかできなかった。それは、誰かを救う力を失った僕の現状そのものだ。ハナコは、そんな僕を置いていくように、遠ざかる。
嫌だ…………嫌だよ、ハナコ。
僕を置いていかないで。 僕を見捨てないで。
僕にはまだやるべきことがある、って……そう言ってよ!
───僕には……君が必要なんだ!
「嫌だ………待って……嫌だ!! ハナコッ!! ハナコぉっ!! うっ……ぐっ……うわあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!!」
…………………………
………………
……
「───ゎあああああっ………!?」
叫ぶ声と共に、僕は大きく目を見開いた。だが、開くことができたのは右目だけ。そこに、暗闇の世界はない。代わりに僕の視界へ飛び込んで来たのは、真っ白な天井と蛍光灯だった。
「……ここ、は…………」
「───藤鳥くん! 気がついたんですね……!」
半分奪われた視界の外から、聞き覚えのある声が響く。身体を動かそうにも、痛みが僕をベッドに縫い付けて離さない。それに、どうやら僕の顔には、包帯が巻かれているようだった。左目は、眼帯か何かで覆われているらしい。ズキズキする頭を何とか転がして隣を見ると、そこには二人の人影があった。
「霧、谷……さん? それに、梓内さんも…………」
「あっ、まだ無理しちゃダメだよ! 絶対安静だ、って先生が言ってたから」
見下ろすような形で、霧谷さんと梓内さんが僕の顔を覗き込んでいる。二人とも、
「ここ、は……」
「保健室だよ。 君も、すっかり常連になったねぇ」
その声は、二人がいる所のさらに後ろ側から聞こえてきた。温かみのある優しい声音と、スリッパの音を近づかせながら、声の主……保健室担当の
「教室棟一階の空き教室で、君は血を流して倒れていた。 それを発見したのが、君のクラスメイトの……風晴さん、だったかな。 彼女が、ここまで君を運んでくれたのさ」
「風晴さん、が……」
どうやら、風晴さんにも心配をかけてしまったらしい。お礼を言おうと、右目でグルリと辺りを見回す。しかし、そこに風晴さんの姿は無かった。
「風紀委員づたいに、クラスにも連絡があったんです。 藤鳥くんが保健室に運ばれた、と。 それで、クラスを代表して、私が様子を見に来たんですよ」
先生に続いて、霧谷さんも口を開く。さらに、梓内さんもその隣から顔を覗かせた。
「私も、
草影先生がいる方向の壁に、時計がかけられていた。時刻は午後六時半を過ぎている。……ホームルームが終わってから今まで、二人はずっと僕の側にいてくれたのだろうか。
「確かに出血はしていたが、頭や肩、腕の辺りをガラスで切ってしまっただけのようだったから、大事には至らんだろう。 だが、しばらくの間は安静にしていることだ」
「ありがとうございます、先生。 ……二人も、ありがとうね」
声をなんとか振り絞ってそう告げると、二人は穏やかな笑みを浮かべた。しかし、すぐにまた不安そうな表情で僕を見つめると、
「それで、その……あの空き教室で一体、何があったんですか?」
安堵の空気から一変。二人は、不安と恐怖が入り混じったような苦い表情で僕を見つめた。優しい笑顔を浮かべていた草影先生も、この時ばかりは眉を下げて押し黙っていた。
……そうだ。僕は、思い出さなきゃいけないんだ。
あの時、空き教室で何があったのかを。誰と戦い、何を知り、何を奪われ、壊されたのかを……。
「歌河と……会ってきた」
「っ……」
霧谷さんと梓内さんが、同時に顔を蒼くする。
二人は共にヤツの被害者であり、ヤツの恐ろしさを知っていた。
「それで、言い争いになって……僕がカッとなって手を出した所を、動画に……撮られて……」
「そんなっ……挑発してきたのは向こうなのに……!」
「うん……でも、何もできなかった……
当然、
「……」
二人は顔を見合わせつつも、何も声をかけてこなかった。その沈黙が一体何を意味するのか……今までなら分かったんだろうけど、今の僕にその
例えるなら、日常的に使っていた翻訳アプリを没収され、その上で海外の人と会話しているような感じだ。相手の発言の意図、自分の心理状態……それらを明確にすることができないまま、通じているかどうか分からない言葉を発する。勿論、本来会話というのはそれが普通であるということぐらい分かってる。だが、
皆を救う力を奪われた。
ハナコとのつながりを絶たれた。
……けど、それだけじゃなかった。
力に依存していた僕は、もう元の人間に戻ることすらできないほどに、"当たり前"を失ってしまっていたのだ。
「……少し、一人にしてあげた方が良いかもしれないね」
そんな僕の様子を察してか、草影先生がふと呟いた。着ていた白衣を脱いでハンガーに掛けると、先生は机の上の鞄を手に取り、
「生徒指導部の先生たちや生徒会には、私の方から説明しておこう。 ……今日は私も遅くまで残る予定だったから、回復するまでゆっくり休んでいきなさい」
「先生……ありがとうございます」
先生はニコッと笑うと、隣の二人にも目で合図を送った。一方、霧谷さんと梓内さんの二人はというと、困惑した顔で僕と先生とを交互に見返していた。が、仕方ないといった様子でゆっくりと席を立ち、草影先生に続いて部屋を後にした。
……と、思った直後のこと。
「あのっ! 藤鳥くん……!」
壁から再び顔を出したのは、霧谷さんだった。彼女は、いつものキリッとした
「私は……私たちは、何があっても藤鳥くんの味方ですから! だから、その……貴方は一人じゃありません。 それだけは、忘れないでください」
「霧谷、さん……」
と、霧谷さんの背後から、もう一人の人物が顔をのぞかせた。梓内さんだ。彼女は、いつもの穏やかな微笑みを僕に向けながら言った。
「私も味方だよ。 ……本当は、今剣悟くんが抱えている辛さを、私たちも分かってあげたい。 いつも皆のために動いてくれる剣悟くんみたいに。
……でもね、自分のことを本当の意味で守ってくれるのは、自分だけだと思うから。 だから今は……自分のことを大切にしてあげてね」
「梓内さん……」
そう言い残し、二人はニコッと笑ってまた壁の向こうへと姿を消した。カチ、カチ……とアナログ時計の秒針だけが音を刻む中、ベッドに一人取り残される僕。
でも、不思議と一人じゃない感じがした。
風晴さんが、僕をここまで運んでくれたこと。草影先生が、応急処置をしてくれたこと。霧谷さん、梓内さんがかけてくれた温かい言葉。
「……」
正直、まだ立ち直れそうにない。いつものようなパワーは沸いてこないし、希望なんて持てない。この先どうすれば良いのか、その見当さえつかない。
……けど、今この瞬間感じる心の温かさが、僕を唯一癒してくれる。死にそうな心を、繋ぎ止めてくれている。それが、心の底からありがたかった。
「…………」
顔じゅうを襲うチクチクとした痛みに耐えながら、ゆっくりと身体を起こす。白い布団をすり抜けるように足を抜き、ベッドの手すりを掴んで立ち上がる。上靴は、教室から持ってきてくれたのであろう僕の鞄とともに、棚の側に並べてあった。ふらつく足どりでそこへ向かい、上靴を履く。パンパン、と軽く服を払って、鞄を手に取る。
「……行こう」
そうして、満身創痍の身体を抱えて、僕は保健室を後にした。
電気が消え、生徒らがほとんど帰ってしまった夕暮れ時の校舎を、一人歩く。
向かう先は勿論…………開かずの倉庫だ。
つづく
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