第三章④『さよなら、偽善者《ヒーロー》』



『───君、いつもここにいるよね?

よかったら私も、ここで一緒に食べていい?』



 ……彼女は、まるで女神様のような人物だった。


 嫌味さもなく、打算的でもなく、ただ純粋に誰かに寄り添ってくれる。

 そういうことができる人だった。


『……別に、無理に話さなくても良いよ。 言葉にするのが難しいなら、言葉が出てくるまで一緒に待つし。 言いたくないなら、それは秘めていていい。 だから、私が力になれそうなことだけ、手伝わせて』


 特別扱いされてた訳じゃないことは分かっている。……でも、それで良かった。

 それがたとい、自分一人に向けられた優しさではなかったとしても。女神様が平等に与える、慈愛のうちの一つだったのだとしても。



『私は、日向ひなた 花心かさね。 よろしくね』



 ───彼女の優しさは、差しのべられた救いの手であることに、変わりなかったから。



 ***



「日向、花心…………」


 噛み締めるように、その名を呟く。この学校に転校してから初めて耳にする名前。……それなのに、その響きは、どこか懐かしさすら覚えるほどスッ、と頭の中へ受け入れられた。



「あのさぁ……僕が教えるより先に名前言うの止めてくれる? ペース乱されんのテンション下がるんだけど」


「……ハナコから先に聞いただけだ。 ……確かに僕は何も知らないけど、でも……アンタが話の主導権を全部握ってる訳じゃない」


「ま、そっちには当事者がいるしね」


 気持ちばかりの悪態を吐きながら、隣にあった椅子の背もたれに寄りかかる。"衝撃"の事実による"打撃"と、歌河うたがわの毒攻撃によって、僕の精神騎スピリットはかなりダメージを受けていた。だから、こうして中身の込もっていない掛け合いをする間は、精神騎スピリット的には停戦状態のような形になる。その僅かな休憩は、劣勢の僕にとって必要不可欠な時間であった。



「……その日向ひなたさんって人とアンタには、どういう関係が?」


「ハッ、主導権がどうとか言っといて結局質問? ダブスタにも程があるでしょ?」


「いいから答えろよ……アンタの知ってること、全部……!」


 歌河の精神騎スピリットが仕掛ける毒針攻撃は、油断する隙もなく放たれ続けている。僕の精神騎スピリットは、力を振り絞ってなんとかそれを回避しつづけている。しかし、ダメージの蓄積で動きが鈍くなっているせいか、完璧には避けきれていない。……当分は、このチクッとする心の痛みに耐えながら話を聞かなければならないらしい。


「関係っていわれても、ただのよく知らないクラスメイト同士だよ。 僕が他人に興味抱かないことぐらい、分かるでしょ?」


「……でも、アンタがその子の名前を覚えてるってことは、少なくともそれなりの交流はあったはずだ」


「まぁ、それはそうだね。 アイツはマザーテレサも腰抜かすレベルのクソ真人間だったから、僕みたいな掃き溜めのゴミにも話かけてきた。 ……いつもいつも、性懲しょうこりもなく、だ」


 歌河の意識がれる。その間に片膝をついて体勢を整えた僕は、カーテンの隙間から漏れる光をぼうっと眺める歌河の暗い背中を、じっと見つめていた。



「……でも、花心は自殺した」


「っ……」


 ゆっくりと首を回して此方を向く歌河。彼の瞳は、逆光になっているせいか影にまみれて真っ黒になっていた。


「死人に口なし。 何が原因で、どうしてそうなったのか、その前後に何があったのか……何も分からずじまい」


「でも、それはいじめが原因とかじゃなかった、って……」


 以前、霧谷きりやさんから聞いた言葉を思い出す。しかし、歌河はため息混じりに一蹴した。


「証拠は? 彼女が本当に誰からも心的ストレスを与えられてなかった、って確証は? ……いじめ問題が発覚した時の学校側の言い分、本気で信頼したことあんの?」


「そ、そりゃあ証拠なんて無い、けど……」


「けどまぁ、逆に"いじめがあった"って確証もないしね。 学校、警察、第三者委員会……皆がこぞって調査を進めたけど、結局は"原因不明"のまま終わった。 どっち付かずの、下らない幕引きだったよ。

 …………でもね」


 歌河はそこで一度言葉を切ると、首だけでなく、身体全体をもう一度こちらに向けた。日の光が、彼の背中によって完全に遮られる。



「ただ一つ、分かることがある。

 ───花心は、『心此処に在らずメランコリック』にかかった後で死んだ、ってことさ」



「え…………あっ!?」


 ビリッ! と、僕と精神騎スピリットの頭に稲妻が走る。

 そうだ……今しがた、説明されたばかりじゃないか。ハナコは、『心此処に在らずメランコリック』で宿主を失った、心霊スピリットだと。つまり、日向さんは何らかの原因で悪性ストレスが重なり、『心此処に在らずメランコリック』に陥ってしまったということ。勿論、その具体的な理由までは分からないけど……。でも、今まで風晴かぜはれさんや霧谷さん、梓内あずさうちさん、その他何人かの『心此処に在らずメランコリック』の症状を見てきたから分かる。

 ……きっと日向さんは、相当辛い思いをしてきたに違いない。



「え……というか待って……! ……じゃあ、ハナコなら、日向さんが亡くなった原因も分かるんじゃ……!」


 日向さんから分離した、日向さんの心……ハナコなら、日向さんの当時の気持ちを知っているんじゃないのか。

 ……そう思ったけど、その考えは、ハナコの力ない呟きによって掻き消されてしまう。



『───覚えてないんだ』


「え……?」


『……私には、日向 花心の断片的な記憶しか残されていない。 だから、彼女の意図や、死の直前の記憶などは、私には分からないんだ……ごめん…………』


「そ、んな……どうして……」


 希望を絶たれた僕に、歌河からの追い討ちがかかる。


「いや無理だって。 考えてみりゃ分かるでしょ? ……ソイツは、花心を捨てて生き永らえてる存在。 宿主の記憶なんて邪魔だから、って捨て去っててもおかしくないしね」


『っ……!?』


「だってそうじゃん。 精神騎スピリットから見りゃ、宿主なんてのはただの"住処すみか"だ。 鳥のいない鳥籠に意味なんてないけど、鳥は鳥籠がなくたって生きていける。 ……むしろ、鳥籠から解き放たれた方が伸び伸び生きられる、ってね」


 ハナコの息が詰まる音が聞こえた気がした。それが、ハナコにとって一番言われたくなかった言葉であるということが、嫌でも感じとれる。


花心かさねが死んですぐに、僕はそのハナコとかいうヤツと会った。 そして話した。

……それで確信したよ。 コイツは顔こそ同じだけど、全くの別物だってね」


「っ!? やっぱり、ハナコと一度会って……!」


「会ったけど、ソイツは花心じゃない。 花心の皮で人間のフリしてるだけの、ただの人形ニセモノだ。

……僕は、それが心の底から不快だった」


『…………』


 ハナコが押し黙る。邪悪な空気で世界が満たされる感じがした。

 歌河の精神騎スピリットが再び杖を構えたことで、僕にも緊張が走る。心に負ったダメージは、まだちっとも癒えてない。けど、また歌河が攻撃を仕掛けてくるなら、ここで食い止めなければならない。




「───ねぇ、こういう風には考えられない?」


 空が曇ってきたのか、カーテンから漏れる光の量が徐々に減っていく。丑三つ時の林の中みたいな暗がりの教室で、歌河と、歌河の精神騎スピリットの瞳が輝いていた。


「花心が死んだのは、そのハナコとかいうヤツが離れたせい。 ……要するに、花心を死に追いやった人殺し・・・がソイツだ、ってさ」



「っ……いい加減にしろよッ!!」



 その言葉が、皮切りとなった。


 僕の精神騎スピリットが頭を爆発させたのと同時に、僕は歌河に飛びかかっていた。ガタンガタンッ! と、椅子や机がなぎ倒される。じわりと、机の角にぶつけた痛みが広がる中、僕はその両腕を真っ直ぐに伸ばして歌河の胸ぐらを掴んでいた。


「お前の言動は、何もかも悪意に満ちていて……到底許されるものじゃない! でも……その中でも! ハナコを侮辱することだけは、僕が絶対に許さないッ!!」


「誰も許して欲しいなんて思ってねぇよバーーーカ!!! お前ごときが怒り狂って暴れたって、そこの心霊スピリットが人殺しだって事実は変わんねぇだろうが!!」


「違う!! ハナコは人殺しなんかじゃない!! 彼女は、この学校の皆を救おうとしてたんだ! ハナコの優しさを……心を踏みにじるなッ!!」


「人間でもないバケモンに最初から心なんざねェだろうが!! 君が必死こいて庇ってんのはただのゴミ! ゴミなの! 分かる? テメェは死に損ないの残りカスに水やってるただのマヌケなんだよ!!」


「マヌケでいい! 僕のことはどう言おうと構わない! ……でも、ハナコはお前の言うようなヤツじゃない!! それだけは絶対に譲らないっ!!」



 ……正直、自分が一番驚いていた。

 さっきまで満身創痍だった身体が、心が動いている。奥底から溢れだす、"怒り"に彩られたエネルギーを、僕は振り絞るようにして歌河にぶつけていた。そして……その気迫は精神騎スピリットにも伝播でんぱする。



 ガシィィィン!! と、激しく響く金属音。

僕の精神騎スピリットの剣と、歌河の精神騎スピリットの杖とがぶつかり合うその音は、共鳴し、増幅するかの如く何回も繰り返された。身体に纏う熱い炎のエネルギーに身を任せるようにして、僕の精神騎スピリットは剣撃を何度も何度も叩き込む。毒で身体が震えているけれど、それさえも感じさせない気迫で歌河の精神騎スピリットを押し返しているのだ。

 対する歌河の精神騎スピリットも、手数こそ少ないが、劣勢であるといった様子は一切見受けられなかった。こちらの攻撃を杖でいなしつつ、隙を見て魔法での連撃。こちらは避けるだけでも精一杯なのに、ほんの僅かでもかすったら、そこから毒ダメージが蓄積されるという厄介なオマケつきだ。

 凄まじい言葉の応酬と共に繰り広げられる死闘。一瞬でも隙を見せれば負ける……そんな緊張感が常時この空間を支配していた。



「ヒュー、カッコいいじゃん主人公ヒーロー! そんな万人受けしそうなクソ寒い台詞で、誰のこと救うって? 人気度でも狙ってんのかよ!」


 歌河が、僕の手を掴み返してそのまま振り払った。同時に、ヤツの精神騎スピリットの杖から黒い光弾が放たれ、僕の精神騎スピリットかすめる。


「そういうお前は! 僕やハナコ、皆をわざと傷つけるような言葉ばかり言って、何が目的なんだ! お前は何がしたいんだよ!」


 それらをなんとか避けきって、剣で応戦する。刃は、歌河の精神騎スピリットを真っ二つに切り裂いた。……かと思いきや、切られた精神騎スピリットはそのまま煙となってボワンッ! と弾けてしまう。


「んなのただ楽しいからやってるだけだよ! この学校の連中はみんなメンタル弱者だから最ッ高に快楽だね! 人の不幸は蜜の味……お前もそうだろ?」


「アンタなんかと一緒にするなッ!!」


「一緒だよ! 人は誰しも、別の誰かを傷つける……自分より幸せな人を見て、ソイツの不幸を願うんだ。 そうして足を引っ張り合って全員で不幸を目指すのが人間ってモンだろ?」


「違うッ! 誰かの幸せを願う人だって居る! ハナコだってその一人だ!」


「だーかーらぁ、その"心霊ニセモノ"を人間にカウントすんなって言ってんだろうが!」


 ガンッ! と、歌河が蹴り飛ばした机が真っ直ぐに僕の方へ向かってくる。咄嗟に避けるも、机は他の机や椅子をなぎ倒し、そのまま壁にぶつかった。瓦礫のように積み上がった机と椅子は、一部に亀裂があり損傷しているようだった。


『剣悟くんっ! これ以上彼の相手をしては駄目だ! 早く逃げてっ……!』


 ハナコが叫ぶ。震え混じりの声には、不安と恐怖が見え隠れしていた。でも……


「歌河ァァァァァっ!」


 僕は、逃げたくなかった。

 ここで逃げれば、ヤツの言ったことを肯定してしまうような気がしたから。


 机がどけられてスペースが空いたところを、全速力で駆ける。ケンカのやり方なんて分からない。でも、多分それは相手も同じだ。だから、今はとにかく感情のままに。……僕の精神騎スピリットに同調するように、ただ怒りの矛先を真っ直ぐ歌河へと向けて動くだけだった。


 炎を纏う僕の精神騎スピリット。その剣が振りかざす一撃は、僕の直進と重なりあうようにして歌河へと向かっていった。ここで終わらせるために、ヤツにこれ以上好き勝手させないために。……その信念と覚悟を乗せた攻撃だった。


「はあああああああぁぁぁぁぁぁぁ!!!」



 ───しかし。


 歌河は、それを見て狂喜の笑みを浮かべた。



 「はい、おしまい」



 直後、ゴツンッ! という鈍い音が響く。

 僕の体当たりは、歌河に直撃した。反動で尻餅をついた僕が顔を上げると、歌河は机と椅子を巻き込みながら倒れ伏していた。彼の頭からは、ツーッと血が細く垂れ落ちている。


「え……何、で……何で避けな……」


 勢い任せの一撃から一転。僕は、予想だにしなかった展開に、狼狽うろたえることしかできなかった。まさか、当たりどころが悪かったんじゃ……と、一抹いちまつの不安が僕を襲う。

 しかし、その直後、


「だから言ったじゃん。 "おしまい"だ、って」


 さげすむような、楽しむような声でそう答えると、歌河はすんなりと立ち上がった。

 その手には、スマートフォンが握られている。


「これ、君が僕に対して暴力を振るったシーンがバッチリ録画されてるから。

 ハイ、これで君は社会的・・・に死亡決定ね」


「っ…………!?」


 精神騎スピリットの身の毛がよだつ。怒りで力を増していた僕は、それによって冷静さも失ってしまっていたのだ。

 まさか、全部罠だったのか……!? 形勢が完全に逆転してしまったことを悟った僕は、またしても全身から力を奪われて、その場にへたり込んでしまう。


「あーあ、そうやってすぐカッとなって手を挙げる。 バカだよねぇ。 理性を失った猿同然って感じ」


「お前……まさか、最初から……このつもりで……」


「気づくの遅っそ。 ……あぁ、ちなみに動画は音声消して、僕が君に体当たりされたシーンだけ切り取って匿名で公開してあげるから。 せいぜいブルってろよ"加害者"」


 ニタリと笑う歌河の顔は、悪魔そのものだった。怒りで得た力は僕の中から抜け去り、恐怖と喪失感、絶望で色濃く染まっていく。


「心配しなくても、学校は必死で揉み消してくれるし、クラスメイトもみんな君の味方だよ。 この学校じゃ、僕の方が断然嫌われてるしね。 多数から嫌われてる方は悪って相場が決まってる」


 けーどぉ……と、歌河はいやしく笑う。


「匿名性の高いインターネット上だとどうかなぁ? 誹謗中傷、炎上、私刑リンチ……裏事情も知らない低脳どもが必死こいて君を追い詰めてくれるよ。 当然……これから先、君に生きる場所なんてない。 "いじめの加害者"ってレッテルを一生貼られ続けたまま、自殺するまで誰からも許されない世界でゴミみたいに生きるしかない!! 人生終わりなんだよお前は!!」


「っ……あぁ……!」



『剣悟くんっ!!!!!』



 もう立つことも出来ない僕に、歌河が歩み寄る。頭から滴る血の雫が、ポタリと僕のズボンの裾を濡らした。歌河は、さっき僕がやったみたいに胸ぐらをグッと掴むと、そのまま無理やり僕の身体を起こす。


「見え透いた罠に引っ掛かってくれてアリガト。 ……テメェみたいな虫酸むしずの走る善人が無様に人に裏切られて絶望する様が、僕はいっっっちばん大好きなんだよね」


「なんで……怪我までして、そんなこと…………」


「怪我? あぁ、生憎あいにくもう"痛い"とか"辛い"とか"苦しい"とか、そういう感情忘れてんだよねこっちは。 傷ついたことアピールするヤツって、実際傷ついてたとしても寒いだけじゃん」


「でも……君だって傷ついて……」


「……いちいちうっせーないい加減黙れよ偽善者ヒーロー!」



 直後。


 歌河は僕の身体をグルンと大きく回し、後ろにあったガラス窓に力いっぱい叩きつけた。



「がはぁ、っ……!」



 ガシャアアアアアン……!!! と、鋭い音と刺すような痛みが全身を襲う。


 後頭部がじんわりと熱を帯びたように痛み、身体中にガラスの破片が降り注ぐ。僕の顔と、歌河の腕が次第に赤く色づいていく。僕の精神騎スピリットは、もはや動くことさえ出来ないまま、そのガラス片の下敷きとなって倒れていた。



「皆を救うとか、誰かの幸福を願うとか……そんな薄っぺらい綺麗事で何が変わるの? 

本当は誰も、救おうとなんてしてない癖に。 「可哀想」って表面上の言葉だけで済ませて、手を差し伸べようとさえしない癖に!!!」


「ぅ、ぐ…………!」


「結局そうじゃん。 "自己責任"って便利な言葉使って、皆責任から逃げてるんだよ。

いじめってのは、被害者が自殺して初めて"問題"になる。 それまで、いじめてる側はそれを"いじめ"と認識しないし、学校や家族、警察もそれを深刻な問題として取り扱わない。 でも、それで実害が出た途端に、自分たちに降りかかる不利益に怯えて動きだす。 そこに、被害者への悼みは存在しない。 ……ちょうど、今のお前みたいにな?」


『───っ! ─────!!』


 ハナコの声が聞こえない。意識が薄れていくのを感じる。僕は……何をしていたんだ?

 だんだん、何も感じられなくなっていく。精神騎スピリットはもう動いていない。でも、それが再び立ち上がるイメージを、僕はどうしても浮かべることが出来なかった。


「皆、自分さえ良ければ良いんだよ。 苦しんでる人たちのことなんてどうでもいい。 遠く離れた国で起きてる戦争だって、「嫌だな」って自分の心を痛めるだけの、邪魔な"コンテンツ"でしかない。 当事者じゃないヤツらにとって、いじめとか戦争とか、そういうのは対岸の火事レベルでしかない。

……ソイツらに、被害者の本当の痛みなんて一生分からない」


 歌河は、肩に乗っかった大きなガラス片を、空いている方の手で取ると、なんと、それをおもむろに自分の口へと放り込んだ。


「っ……!?」


 バリィ……とくぐもった音が聞こえる。歌河が、ガラスを紙みたいに咀嚼しているのだ。直後、口内のいたるところを切った歌河が、その血を吐き出すように舌を広げる。見るだけでも痛い……そんな光景を見せつけながら、それでも歌河は笑っていた。


「人の痛みは目に見えない。

 ……もっと分かりやすく言おうか? 人は、こうやって"血を流したヤツ"だけしか助けようとしないんだ。 血とか怪我とか病気とかが、"苦しみ"の象徴。 それを見ないと、人はソイツの痛みに気づけさえしない。 っ……こうやって、口の中でどんだけ血が流れてても、口を閉じてる間は誰にも気づかれないんだ」


「歌、河…………」



「…………あーあ、柄にもなく自分語りしちゃったよ。 ダッサ。

こんなの、見てるヤツがしらけちゃうだけなのにね」


 そう言うと、歌河は僕を掴む手をパッと離した。支えを失った僕の身体は、そのままスルスルと窓枠と壁を伝い、床へと崩れ落ちる。ガラス片が散らばったキラキラ輝く空間に倒れ込むむくろのような僕と、日の当たらない位置からそれを見下ろす歌河。災害でもあったかのような惨状の教室で、二人を静寂が包み込む。



「ゲームはこれで終わりだ」


 歌河の手が、僕の首へと再び伸びてくる。また胸ぐらを掴まれるのかと思いきや、ヤツは僕の首にかかっていたペンダント───心眼石しんがんせきを掴み、無理やり引きちぎるようにして僕からそれをむしりとった。


「これで君は、人を助ける力を失う。 ……いや、人助けごっこが出来なくなる、って言ってあげた方が良いかな」


「やめ、ろ…………」


「さよなら、藤鳥剣悟クン。 ……君はもう、精神騎使いスピリットユーザーじゃない」



 パラッ……と、歌河の手からこぼれ落ちた心眼石は。


 床に落ちた瞬間……無慈悲に、ヤツの足で踏み潰された・・・・・・




『剣悟く──────』




 その瞬間、ハナコの声はプツリと途絶とだえた。

 僕の精神騎スピリットは、まるで最初から居なかったかのように、忽然こつぜんと僕の視界から消えた。



「あ…………………………………………」




 人を救う力……希望……。

 その何もかもを打ち砕かれた世界で。


 僕は、何も言わずに去っていく歌河の足音だけを耳にしながら、なす術もなく意識を手離すしか出来なかった。

 



つづく


 

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