第二章⑪『コインに表と裏があるように』


***


「───凄いわ、また百点! 椿つばきさんはいつも勉強も頑張ってて偉いわねぇ」


「───次の生徒会長候補は、霧谷きりやで決まりだな。 皆も、お前がやってくれると期待している。 立候補してくれるか?」



 私は、常に"期待"されていた。


 「あなたは出来る子だから」と、何の根拠もない評価を受け、逃げ場を失った私。だから、私はその期待に応え続けることでしか、息ができなかった。


 頑張ってない私は、私じゃない。


 テストで百点を取って、先生や大人に褒められ続けなければいけない。


 リーダーとして皆の前に立ち、成功し続けなければいけない。



 ───本当の私は、"出来る子"でも何でもないのに。


 苦痛は、いつしか強迫観念に変わった。

 弱音を吐く自分は、絶対に押し殺さなければいけない。裏の顔は、隠し通さなければならない。

 ……でないと、私の居場所はなくなってしまうのだから。



 ───そうして私は、"出来る子"を演じる"嘘つき"にならざるを得なくなったのだ。




***


「───凛桜りお。 お前は将来、母さんの会社を継いで、我があずさ学園の理事長夫人となってもらう女だ。 しっかり勉学に励みなさい」


「───何度言ったら分かるの! 方程式の一つも解けないようじゃ、お父様が推薦する小学校になんて入れやしませんよ!」



 私は、常に"期待"されていた。


 生まれた時から未来を決められ、勉強と習い事の日々。自由なんてどこにもない生活の中、私は両親の言うことを聞くことでしか生きられなかった。


 お父様とお母様の言うことは絶対。

 テストで高得点を取り続けて、お父様の言う大学に進学しなければいけない。


 自分の意思なんて関係なく、ただ言われた通りに動かなければいけない。



 ───そんなバカみてぇな人生、やってられっかよ。


 沸き上がる感情は、いつしか心の奥底に"もう一人の自分"を形成していった。

 囚人しゅうじんのような日々から逃げ出したい。しかし、その意思はいつの間にか一人歩きして、"頑張り続ける方"を置き去りにしてしまった。

 ……だから、助けなくちゃならねぇ。



 ───そうしてアタシは、凛桜を裏から追っかける無様な"反逆者"になっちまったんだ。




***


霧谷きりやさんっ! 聞こえてるんでしょ! 僕の話を聞いてっ……!」


 黒い霧の渦と、それをまとう黒い精神騎スピリットの急襲。それらを辛うじて回避しながら、僕はひたすら精神騎スピリットへ……霧谷さんへと声をかけ続けていた。霧谷さんの精神騎スピリットは動きが速い。少しでも油断すれば、精神騎スピリットが丸ごと貫かれるかもしれなかった。加えて、彼女の属性である"氷"が、冷たい空気と冷ややかな視線を生み、こちらの動きをはばむ。


「クソッ……霧谷さんが反応してくれなきゃ、こっちは打つ手がないのに……!」


 僕が言っていた"算段"……それは、霧谷さんの精神騎スピリットを説得することだ。ハナコが聞いたら、「またそんな短絡たんらく的な……」って呆れられるだろうけど。でも、今の僕には、その方法しか思い付かなかった。


 精神騎スピリットのフルーレが地面をピシャンと叩きつける。すると、地面が砂埃をき上げるように波をつくり、こちらへ襲いかかってきた。幸い攻撃は左の方へ逸れたものの、アレをそのまま喰らっていれば、きっとひとたまりもなかったことだろう。


『わタシは……人を傷つケノレだケ乃存ざイでしカ無いんデすッ!』


「違うよ! 霧谷さんはリーダーとして皆を導いてくれてたじゃないか! 君が償わなきゃいけないことなんて、何もない!」


 必死に言葉をかけるも、精神騎スピリットの攻撃の勢いは衰えない。しかし、狙いはどこか乱雑で、ただがむしゃらに暴れているだけのようにも見えた。自暴自棄になっている……のだろうか?


風晴かぜはれさんの時も、自暴自棄になってた彼女の精神騎スピリットを説得することで沈静化できた。 でも……)


 今の霧谷さんには、僕の言葉が届いてる感じがしない。聞く耳をもたれてないというか、聞いてはいるけど、心に響いていないというか……そんな感じだ。

 このままじゃ駄目だ……でも、一体どうすれば……


「……ん?」


 ザンッ! と横ぎの攻撃をかわしながら、ふと気づく。


 僕の……いや、僕が使役している風晴さんの精神騎スピリットは、攻撃を回避しながら、ひたすら霧谷さんの精神騎スピリットに体当たりを仕掛けていた。しかし、踊り子ダンサー精神騎スピリットであるためか、攻撃力はあまりにも弱く、まるでスーパーボールのように軽々と跳ね返されてしまっている。



「もしかして……戦い方が悪いのか……?」


 いつもなら、剣士の特性をもつ僕の精神騎スピリットが、僕の言葉に合わせて斬りかかってくれる。しかし、風晴さんの精神騎スピリットには武器がない。……つまり、"言葉をぶつける"やり方では、霧谷さんの心に攻撃を響かせることはできない、ということではないだろうか。



「霧谷さんっ!」


 再び、呼びかける。フルーレを構えたままの精神騎スピリットの注意が、こちらに向いた。


「ごめん……ちゃんと聞こうとしてなかったね。 ……教えて欲しいんだ、霧谷さんの今の気持ちを。 何が辛くて、どうしたいのかを」


 心理カウンセラーに最も必要なのは、『話を聞く力』だ。ふつう人は、自分の意見を主張しようとして、つい話しすぎてしまう。しかし、相手が悩みや不安を持っているならば、話しすぎるのは逆効果。それでは"お説教"になってしまうのだ。

 大事なのは、相手の心に寄り添うこと。理解しようとして、しっかり耳を傾けること。そうして初めて、相手の感情や意図を汲み取り、こちらからのアプローチに繋げられる。


(……こんな初歩的なことも忘れてしまってたなんて)


 冷静さを失って焦っていたのは、僕の方だった。



『あああああアアぁああァああアッ!!!!!』


 襲いかかる精神騎スピリット。だが、今度はジャンプ回避のようなことはせず、敢えてギリギリまで引き付ける。そして、ターンの要領でヒラリと攻撃をいなしてみせた。


『私は……学級委員としテ、真面目に頑張ろうって、そう思ってただけナのに……』


 攻撃をかわした、その一瞬。

 確かに霧谷さんの声が、今までより鮮明に聞こえた。精神騎スピリットの立ち振舞いを変えたことが、功を奏したのかもしれない。


『傷つけるつもりなんてナかったんです……。 でも、どうすレば良いか分からなかった! 私のやり方じゃ、何も変ワらなかったんですっ!』


「変わらなかった、って……?」


『花壇が……三度もめちゃくちゃにされタから。 でも、結局それも、私が梓内さンヲ追い込んだから招イたことで……私、何もかモ裏目に出て……』


 真っ直ぐで、スピードがあった霧谷さんの精神騎スピリットの動きに、ブレが生じる。狙いが完全に定まっていない。攻撃を回避するというよりも、こっちから攻撃を追いかけて、直前でいなすようなパターンが何度か続いていた。


「そう……だね。 一生懸命頑張ってたのに、あんな風に言われたら、辛いよね」


『違ウ! 梓内さんは悪くない……悪いのは、梓内さンを追い込んダ私です!』


「ううん、霧谷さんだって悪くないよ。 そんなに自分を責めないで」


『でもっ!! 私ハ嘘つきで……本当の姿を隠して皆のマえに立っているんですよ!

 本当の禾ムは、臆病でネガティブで優柔不断で、何をやっても駄目な存在ナのに……だからこそ、嘘をつく時の私は、完璧でナきゃいけないのにッ!! なのに、人を傷つけることマでしてしまったら、私っ……!!』


 霧谷さんの精神騎スピリットの攻撃が止まる。ピタリとその場で立ち止まった精神騎スピリットは、そのまま天を仰ぐようにして"黒い霧"を撒き散らした。


 ブワッ! と、突風が吹いたみたいに、僕と風晴さんの精神騎スピリットの身体が体幹を崩される。空気が氷のように冷たい。でも、何とか気流を読んで、精神騎スピリットが身体を大きく回す。僕は背中を強く打ち付けて倒れてしまったが、風晴さんの精神騎スピリットは無事だ。

 

「霧谷さん……これは、僕の個人的な考えだ。 君へのお説教でも、正論でもない。 だから、ただ聞き流してくれると嬉しい」



 ゆっくりと身体を起こしながら、優しく語りかける。風晴さんの精神騎スピリットは、空中で衣装のレースと四肢とをなびかせるように舞い、クルクルと回転しながら霧谷さんの精神騎スピリットへと近づく。

 風晴さんの精神騎スピリットに合わせて……彼女ならどんな風に語るかをイメージして……そこに合わせながら、慎重に言葉を紡ぐ。


「君は、自分のことを"嘘つき"って言ってるけど、僕にはそう思えない。

 ……だって霧谷さんは、実際に学級委員として皆を指揮して、引っ張ってきてくれたでしょ? 僕たちは、そんな霧谷さんを信じてたから、ここまでついてきた。 霧谷さんの中では、"演じてる"つもりかもしれないけど……でもその信頼は、本当のものなんじゃないかな?」


『え…………』


 黒い霧の噴出が和らいだ。 黒く歪む視界が安定してくる。


「君は、完璧な自分を演じて、嘘をつき続けた。 周りから非難されることを、裏の顔が露呈ろていすることを恐れて、隠そうとした。

  ……でも君は、その恐れを抱きながらなお嘘をつき続けた。 それってさ、本物の勇気と変わらないんじゃないの?」


『わ、私ハ……そんな……』


「もちろん、本当に何もかも完璧にこなせる人間なんていないよ。 梓内さんの時みたいに、自分じゃどうしても防げないミスだってある。

 けど、それでも君は今まで、君が理想とする"完璧な自分"を演じきってみせた。 それだけでもすごいことなんだ!

 霧谷さん、今まですごくすごく頑張ってたんだね……!」


『っ!!?』


 着地した風晴さんの精神騎スピリットが、両手を前に突き出す形で静止した。と、そのままクルクルと優美に服の裾をはためかせて回りだす。まるで、神社で巫女さんがする舞のようだった。加えて、東洋の幻想的なオーラもまとっていて、ただ見ているだけでも魅了されるような、そんな美しさを放っていた。

 どうやら風晴さんの精神騎スピリットは、舞によって"黒い霧"から生まれる負のパワーを浄化しているらしい。精神騎スピリットの周りに、草や葉っぱの渦が舞う。それが、大きな力を貯めるみたいに広がっていき、霧谷さんの精神騎スピリットに癒しの力を与えていた。



歌河うたがわの虚言には、耳を貸さなくて良い。

 それと、梓内さんの言葉も、気負いすぎないで。 彼女の別人格は、少し乱暴だったけど……彼女も家庭の事情とかで追い込まれていただけなんだ。 だから、君がかけた言葉の真意は、梓内さんならきっと、理解してくれているはずだよ」


『あ……あぁ…………』


「霧谷さん……君の頑張りは嘘なんかじゃない。 僕たち皆、それをちゃんと分かってるから! だから、これだけは言わせて。


───今まで、僕たちのために一生懸命になってくれて……ありがとうっ!!」



『っ……!』



 風晴さんの精神騎スピリットが作ったオーラの塊が、霧谷さんの精神騎スピリットにぶつけられる。

 その瞬間。黒く染まっていた霧谷さんの精神騎スピリットが、パアァッと弾けた。それと同時に、視界がブワッ! と、まるで夜明けのように光で満たされる。空間がグラリと揺れている。白い地平線だけが広がる世界の中で、僕と……闇が解けた霧谷さんの精神騎スピリットは、対峙していた。



「───私……これからもきっと、臆病なままだと思います。 それで、取りつくろって……皆にまた迷惑をかけてしまうかもしれません。 それでも、良いんでしょうか……?」


 言葉尻を震わせつつ、霧谷さんが尋ねる。


「良いんだよ。 学級委員を演じる君も、臆病な君も、どっちも正真正銘……霧谷きりや椿つばきだ。 霧谷さんが真剣な思いでやった事なら、誰も迷惑だなんて思わない」


「そう、なんですね。 ……どっちの私も、私……」


 ふっ、と肩の荷が下りたような自然な笑み。そこにはもう、不安も、恐怖も、苦しみも、自責の念も……彼女を痛めつける負の感情は何一つない。


「私、もう少しだけ頑張ってみます。 表も裏もない私を、いつか見せられるように。

 ありがとうございます! 剣悟くん……!」



 世界が、光に包まれる。

 超新星爆発ビッグバンのような白い光の衝撃が、僕と、風晴さんの精神騎スピリットと、霧谷さんとを包み込んだ。

 

 霧谷さんは、これできっと大丈夫だろう。

 あとは、残るもう一人を救うだけ。



「───頼んだよ、ハナコ」



 希望を言葉に託し、目を閉じる。 

 そうして、僕の意識はまばゆい救済の光と共に上へ上へと昇っていき、そのまま温かい感覚に包まれて消えていくのだった。





***

 

『…………』


 渦巻く風とともに"黒い霧"をもまとう精神騎スピリットは、強さと美しさを兼ね備えた眼光を、鋭くこちらに向けている。それは、ハナコと剣悟けんご精神騎スピリットを射抜くものなのか、それとも、後ろにいる黒い精神騎スピリットに向けられたものなのか。この時のハナコは、まだ目の前の精神騎スピリットが敵か味方か、判別がついていなかった。


『あ……ァ、凛桜りお……り、オ…………』


 暴走する黒い精神騎スピリット……もとい、梓内紫陽しよう精神騎スピリットが動きを止める。しかしハナコは、精神騎スピリットと戦闘をしていた時よりも警戒心を強めていた。


 梓内凛桜りおと、梓内紫陽しよう

 『解離性同一症D I D』によって二つに分かたれた彼女たちの人格は本来、相容あいいれない存在のはずだった。


 しかし、それはあくまで現実世界では、という話。彼女の心の奥底であるこの深層世界では、互いの精神騎スピリットが共存している。前に剣悟が言っていたが、『解離性同一症D I D』の人間は、一つの身体を取り合って、複数の人格が対立することも起こり得るらしい。人の意識にさえ上らないこの深層世界でなら、そうした複数人格の対峙も発生するのだろう。

 そう、ハナコは頭の中で結論づけた。



『───貴女は』


「っ……!?」


 不意に、弓を下ろした凛桜の精神騎スピリットから呼びかけられるハナコ。驚きと呼応したのか、剣悟の精神騎スピリットがビクンと大きくジャンプする。


藤鳥ふじとりくん……なのかな? でも、そうじゃないような気も……』


 あまりにも流暢な受け答えだったので、ハナコは面食らった。この"黒い霧"が充満した世界の中で、平気な顔をしている。無論、影響がない訳ではないだろうが、それでも、深層世界にてこうしたやり取りを精神騎スピリットと交わすというのは、ハナコにとって経験のないことだった。


「あ、あぁ……私は彼の代理人だ」


『代理人……ってことは、紫陽しよちゃんのこと、助けに来てくれたんですよね?』


「っ……」


 言葉にきゅうするハナコ。だが、ふぅ……と小さく息を吐いてから、


「あぁ、そうだ。 紫陽と……そして、君を救いにきた」


『っ……!』


 今度は、凛桜の精神騎スピリットの方が目を見開いた。風と共に舞う黒い霧が、一瞬だけブワッと舞い上がる。


『私は……救われなきゃいけないことなんて、何も……』


「勿論、今急を要するのは紫陽しようの方だ。 ……でも、君も充分と言って良いほど黒い霧を取り込んでしまっている」


 それに……と、ハナコは、紫陽の精神騎スピリットを見つめながら言った。


「アレは、元々君から生まれた存在。 別の人格とは言えど、かつては君自身があの闇を背負って生きていたんだ。 それは、君が一番よく理解しているだろう?」


『…………』


 ハナコの視線を追うように、凛桜の精神騎スピリットが紫陽の精神騎スピリットを見る。光と闇。同じシルエットでありながら、まるで正反対の様相ようそうていした彼女たちが対峙する。

 凛桜と紫陽の精神騎スピリットは、共に種族ジョブが『弓兵』で、遠距離攻撃を得意とする後方支援型。属性は『風』である。ただし、凛桜の精神騎スピリットの属性は、人を包み込む優しい風……"そよ風"に近い。対して、紫陽の精神騎スピリットの方は、荒々しい強風……"嵐"といったところ。全く別の精神騎スピリット同士が、たまたま同じ種族ジョブや属性を持っていた、というのは珍しいことではない。しかし、属性が同じでも、こういった性格特性の違いによって、属性の捉え方が大きく変わる場合は得てしてある。彼女たちの場合がまさにそれで、出所が同じである両者の精神騎スピリットは、似ているようで全然違うのだ。



『そっか…………』


 ゆっくりと、一歩ずつ距離を詰める凛桜。対する紫陽は、どこか怯えたような様子で彼女の方を見つめている。


『あの子を助けることは、私自身を助けること……なんだよね』


 凛桜の精神騎スピリットを覆う風の渦が、紫陽のそれとぶつかった。その衝撃は、さながら爆風のように黒い霧を周囲に撒き散らす。ブワッ! と襲い来る強風に、ハナコは二、三歩ほど後ずさった。


『ねぇ、紫陽しよちゃん。 ……こうしてお話するのは、初めてだよね?』


『あ……ァァ…………凛桜……………』


『紫陽ちゃんが出てくる時、私はいつも意識を失ってるから。 ……でも、紫陽ちゃんは私のこと知ってるし、私の記憶も引き継いでる。 だから私、ずっとマジックミラー越しに貴女から見られてるような感覚で……ちょっと寂しかったんだ。 こんなに近くにいるのに、お話さえ出来ないなんて』


 凛桜の精神騎スピリットは、弓と矢をそれぞれ両手に握りしめながら、ゆっくりと紫陽の方へ近づいていく。対する紫陽側も、周囲に無数の矢を浮かび上がらせ、迎撃体勢を取っている。



『私、紫陽しよちゃんにもし会えたら……伝えたいな、って思ってたことがあるの』



『っ!? …………ナ、にヲ………………』



 ───それは、異様な光景だった。

 "そよ風"と"嵐"がぶつかった時、当然"嵐"が勝つと誰もが予想するだろう。しかし、凛桜の精神騎スピリットが向こうの間合いに入った時、凛桜がまとう風は、紫陽の周囲を渦巻く黒い霧の嵐を、まるごと包み込むように抑えこんだのだ。


 それはまるで、抱擁。

 暴れる子供を慈しんで受け止める、優しい母のような、そんな光景であった。



『───ごめんね』


『っ……!!?』


 紫陽の精神騎スピリットを取り囲んでいた無数の矢が、霧散するように消滅していく。


『私……貴女に苦しみばかりを押し付けて、背負わせてしまった。 本当は、私が自分でちゃんと向き合わなきゃいけなかったのに……貴女だけに辛い思いをさせて……』


『チがう…………違う! ……辛い思いをしてたのは、凛桜の方だろ!』


『そう、かもしれないね。 ……でも、貴女はそんな私を助けようとしてくれた。 貴女だって辛いはずなのに……私の分まで悩んで苦しんで、泣いてくれていたのに……』


 深層世界の様相が一変する。

 先ほどまで、台風の暴風域にいるかのような荒れ模様だった紫陽周辺の空気が、安定しはじめていた。そのせいか、ノイズがかっていた紫陽の精神騎スピリットの声が、鮮明になっている。ハナコと、剣悟の精神騎スピリットは、少し離れた位置から、二体の精神騎スピリットの様子を見守っていた。


『花壇を荒らしたこと……あれは、私が環境委員の仕事から解放されるようにと思って、やってくれたんだよね。 そして、それだけじゃなくて…………花壇荒らしの罪を、自分一人で全部被ろうとした』


『っ…………』


紫陽しよちゃんがやったことにすれば、二重人格のことを言い訳に、私に責任がかからなくなる。 そう思ったから、二回目、三回目の事件を敢えて起こしたんでしょう……?』


『待って…………ダメだ、凛桜。 お前は……っ!』


 紫陽が何か言いかけるも、凛桜がゆっくりと首を左右に振る。精神騎スピリットが浮かべるその笑顔には、覚悟の表れともとれる力強さと優しさがあった。



『ありがとう。 ……でも、もう分かってるんだ、私。


───最初の花壇荒らしは、私の仕業・・・・だったんだ、って』



 ブワッ! と、一瞬の隙に猛烈な突風が四方に飛んだ。

 衝撃の事実に目を丸くしていたハナコだったが、咄嗟の判断で剣悟の精神騎スピリットを宙に跳び上がらせる。そして、剣を縦に構え、風を切って舵を取るように身体を安定させた。そうして出来た死角に身を置いてダメージを回避しつつ、ハナコは「そうか……」と、静かに呟いた。


「……一度目の犯行は、凛桜が衝動的に行ったもの。 しかし、本人はその記憶が曖昧で、自分がやったことなのかどうかが分からなくなっていた。 それで、紫陽がその責任を肩代わりした。 敢えて犯行を重ねることで、凛桜が責任を感じないよう仕向けていたんだな……」


 まぁ、その手法は大方、歌河うたがわから吹き込まれたのだろうけど……とハナコは口には出さず思う。

 環境委員の仕事と、日々の生活で受ける重圧で、衝動的に花壇を荒らしてしまった凛桜。そんな彼女を助けるために、紫陽は自ら"花壇荒らし"の汚れ役を請け負ったのだ。最終的に、凛桜が『解離性同一症D I D』であるということが、周囲の人間に露呈ろていすることまで見越して。

そうして、本当に全ての苦しみを背負おうとしていたのだ。



『……ありがとう、紫陽しよちゃん。 私のこと、まもろうとしてくれて』


『あぁ……ごめん、ごめんよ……凛桜ぉ…………』


『……謝らないで。 もう、大丈夫だから。

私は、私の責任とちゃんと向き合うよ。 自分がやってしまったことをちゃんと認めて、謝って……そして次に進む。

 だから、紫陽しよちゃんも一緒に行こう? 悪いことしちゃったのはちゃんと認めて、向き合って。 ……私も、一緒に頑張るから』


『…………っ!!』



 ……その時だった。

 紫陽の精神騎スピリットをまとっていた黒い霧の渦が、シュウウウと音を立てて吹き出し始めた。ただし、それは今までのような霧の放出ではない。さながら、幽体離脱のように霧が紫陽の精神騎スピリットから抜けていく、そんな光景だった。



「上出来だ。 感謝するよ、梓内凛桜」


 不敵に笑うハナコ。しかし、その眼前には、行き所を失った黒い霧の塊が、うねりながら立ちはだかっている。形を失くしたそれは、怪物ともとれるようなおぞましい見た目をしていた。


『な、なんだよアレ……』


『あ、あの! 大丈夫なんですか……!?』


 心配する凛桜がハナコに声を飛ばすが、ハナコは動じない。


「大丈夫。 ここからは私の役目だ。

 ……君たちの努力に恥じないよう、私も全力でやる」


 ハナコは、俯きがちに笑みを浮かべながら、真っ直ぐに右手を前へと伸ばした。それが、剣悟の精神騎スピリットへの合図となる。


「……いくよ、剣悟くん」


 ゴオォ! という音が周囲の人たちの耳を突き抜ける。剣悟の精神騎スピリットは、剣を真っ直ぐに構えながら、金色のまばゆいオーラを煌々こうこうと放っていた。


 ───それは、剣悟の精神騎スピリットに備わっていないはずの特性だった。




「━━━━━Whoever will call on the name of the Lord will be saved.《主の御名を呼び求める者は、すべて救われる》」



 どこからともなく、鐘の音が鳴り響く。

 剣悟の精神騎スピリットは、ハナコの手の動きに合わせてゆっくりと浮上し、黄金の輝きを増していった。

 

 精神騎スピリットの背中から、巨大な翼が出現する。

 精神騎スピリットが持つ剣が、光と共にその形状を変える。

 精神騎スピリットのまとう服が、大きなマントのように変化し、輝きを放つ。



『あれ、は……………………』



 その姿は、まるで剣悟の精神騎スピリットとは違う…………


 ───何か別の精神騎スピリットの魂が注ぎ込まれたかのような、そんな神々しい姿をしていた。



「━━━━━聖十字の剣セイントクロスッ!」


 

 ゴオオオォォ!! と、渦が音を大きくする。

 ブラックホールのように肥大化した黒い霧それに向かって、剣悟の精神騎スピリットは一直線に飛びかかっていった。


 黒く染まる大海に、一滴の白い絵の具を垂らすような、圧倒的な大きさの違い。無謀。



 ───それでも、光の力をその身に宿した精神騎スピリットは、負けない。



「はぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!」




 ───ザンッ!! という耳を裂くような音が、二度。

 その直後にはもう、勝負は決していた。


 抱き合う凛桜と紫陽の精神騎スピリットが地上から見守る中、聖剣を片手に、剣悟の精神騎スピリットがゆっくりと降下する。


 背後には、十字に切り裂かれた黒い霧の残滓ざんし

 それらも、深層世界一帯を包んでいく白い景色の広がりの中で、溶けるようにフッと消えていった。そこにはもう、不安も、恐怖も、苦しみも、自責の念も……二人の少女を痛めつける負の感情は何一つない。



「……誰だが知らねぇけど、ありがとな」


「ありがとう。 私たちのこと、救ってくれて」



 世界が、光に包まれる。

 超新星爆発ビッグバンのような白い光の衝撃が、凛桜と、紫陽、剣悟の精神騎スピリット……そして、ハナコを包み込んだ。



「あぁ。 ……君たちの未来に、幸福があらんことを」


 言葉に希望を託し、ハナコは満足げに目を閉じる。 

 そうして、彼女たちの意識は、まばゆい救済の光と共に上へ上へと昇っていき、そのまま温かい感覚に包まれて消えていくのだった。


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