第二章⑦『解離性同一症《DID》』


歌河うたがわ針月しづき…………」


「覚えなくて良いって。 俺、自分の名前嫌いだし」


 保健室に辿りついた僕と梓内あずさうちさん。そして、僕らに肩をかつがれた霧谷きりやさん。危機迫った状況の僕らを待ち構えていたのは、怪しげな笑みを浮かべながらベッドに腰かける、知らない男子生徒だった。


 くすんだ緑色のパーマに、左こめかみの編み込み。そして両耳の黒いピアス。目の下の大きなくまが目立つ彼は、見るからに不気味な雰囲気をかもし出しながら笑っている。僕は彼の声を聞いたその瞬間から、言い知れぬ不安と、沸々と沸きあがる怒りの感情に見舞われていた。


『この声は…………』


 聞きたいことが山ほどあった。

 まず、聞いたことのある声だと言ったが、果たして本当にその声と同一なのかどうか分からない。以前、風晴かぜはれさんの深層世界で聞いたのが最後の、不確定な声だ。ただ似ているというだけかもしれないし、僕や風晴さんの記憶が違っている可能性だってある。

 ただ、もしも彼が……目の前の男子がもしも、その声を発した張本人であるとするならば。風晴さんに罵詈雑言ばりぞうごんを浴びせ、『心此処に在らずメランコリック』を意図的に引き起こした、"黒幕"であるならば。


 ……僕は、彼と全面的に戦わなければいけなくなる。




『───駄目だっ!!』



 その時だった。急に、頭をガツンと殴るような大声が脳裏をつんざいた。


『ハナコ……?』


『駄目だ……彼とは、戦っちゃ駄目だ……』


 今度の声は、震えていた。いずれにしても、ハナコのこんな声は今までに聞いたことがない。


『アイツのこと、知ってるの?』


『……それは…………』


『心当たりがある、って事は……アイツが暗躍してたってことで間違いないんだよね?』


『…………』


『ハナコ……? ねぇ、ハナコってば!? どうしたんだよ、いきなり!』


 それから、ハナコの声は回線が切れたかのように途絶えてしまった。が、頭の中で微かに聞こえる荒い息遣いから、彼女が異様に動揺している様子がうかがえる。それほどまでに、目の前の男子生徒……歌河うたがわ 針月しづきという男は、危険な人物だというのか。



「あの、すみません……。 今、ちょっとこの子が……霧谷さんが体調不良で倒れてしまって。 申し訳ないんですけど、ベッドを空けてもらえませんか?」


 どうして良いか分からず固まってしまう僕に代わり、梓内さんが事情を説明してくれた。そうだ……霧谷さんは今、一刻を争う状況にある。呼吸は落ち着いているものの、まだパニック症の発作ほっさ状態からは抜けきれていないはず。早くベッドで寝かせて、安静にさせねばならない。

 が、


「嫌だよ、俺が今使ってるんだから。 ……今どきのヤツらって、順番守るとかも出来ないんだね」


「なっ…………」


 衝撃で、言葉が出なかった。それと同時に、胸の中にドスッと突き刺さるような痛みを覚えた。

 足元を見ると、僕の精神騎スピリットと梓内さんの精神騎スピリットが、片膝をついて倒れかかっていた。直接的なダメージを負った跡は見られない。が、その頬や防具などには、墨汁みたいな黒いシミが拡がっている。


(なんだ……アイツの精神騎スピリットはどこから……!?)


 キョロキョロと辺りを見回す。しかし、彼の精神騎スピリットらしき影はどこにも見当たらない。一体、どこから攻撃してきたんだ……? 属性は、やっぱり"毒"……? もしかして、梓内さんみたいな遠距離攻撃型で───



「───ん? 俺の精神騎スピリットなら、ここだけど?」



「……………………え?」


 今度こそ、言葉を失った。血の気が引く、という感覚を、僕の精神騎スピリットを通して感じることになった。


「な、んで……今、精神騎スピリットって……」



 歌河の指差す先……そこに、確かに彼の精神騎スピリットはいた。真っ黒のマントと、ゴチャゴチャした革のベルトが全身を包み、頭には大きな三角の帽子が被さっている。その見た目はまさに、魔法使い。手に握られた禍々まがまがしいフォルムの杖からも、それがうかがえた。……しかし、問題はそこではない。


 なんでコイツ……精神騎スピリットのことを知ってるんだ? というか、精神騎スピリットのことが視えているのか? 混乱が混乱を呼び、訳が分からなくなってくる。頭の中でハナコに何度も何度も呼びかけてはみたが、返事は一向に返ってこない。これじゃ、状況が掴めない。一体、何がどうなってるっていうんだ……!?

 

「ははっ、動揺してるみたいだねぇ。 君の精神騎スピリット、頭が白くなってるよ?」


「アンタ……一体何者なんだ!? 精神騎スピリットのこと知ってるのか? というか、何が目的でこんな……」


「はいはい、質問多すぎ。 それに、君が今気にかけてるようなことは重要な問題じゃないしね。 小説の展開には順序があるってこと、分からない?」


 彼は相変わらず、ふざけたような口調で煽ってくる。彼の言葉は、何というか……的確にこちらの神経を逆撫でしてくるような、人の気分を悪くさせる言葉選びという感じだった。嫌な言葉で相手を傷つけることを"毒を吐く"と言ったりするが、ヤツの言葉はまさにそんな感じ。精神騎スピリットは"毒"属性持ちで間違いないだろう。そして、風晴さんが『心此処に在らずメランコリック』に陥った時に受けたとされるダメージも、"毒"による攻撃の可能性が高かった。……だとしたら、全てがつながる。

 無意識的ではない、確実に分かった上で言葉を発している。全て計算づく。それは、ヤツの表情を見れば一目瞭然だった。




「あ、あの……剣悟くん? 早く向こうのベッドに、霧谷さんを……」


 そんな僕らの水面下の攻防など露知らず、梓内さんが遠慮がちに声をかけてきた。

 ……当然、僕だってそうしたい。けど、奥にある二つ目のベッドに向かうには、目の前で笑うコイツに道を空けてもらう必要があるのだ。


「はぁ……空気読んでよ? 遠慮したのか何なのか知らないけど、どっちにしたって偽善的だし、目障りだしね、お前」


「っ……あの! さっきから何なんですか! どうしてそんな酷いことばっかり」




「それと、用があるのはお前じゃないんだよ。 ちょっと眠っててくれる?」



 ───それは、一瞬の出来事だった。


 歌河は、ベッドから飛び上がるように腰を浮かせると、その勢いのまま梓内さんの背後に回った。

 そして、あろうことか───彼女の首筋に思い切り手刀しゅとうをお見舞いしたのだ。


「っ!? ぃ、ぁっ……!?」


 体幹ごと意識を奪われた梓内さんは、そのまま膝をつき、霧谷さんの身体に押し潰されるような格好で倒れてしまった。霧谷さんも、ほとんど気を失っている状態になっていたらしい。僕の肩から、スルリと霧谷さんの体重が抜け落ちる。そして、二人の精神騎スピリットも、体力が尽きたかのように、その場へパタンと倒れ伏してしまう。その時初めて、自分は目の前で何が行われたのかを理解した。


「……な、何を…………」


 怒りなのかとか、驚きなのかとか、戸惑いなのかとか。自分の感情が今どうなってるか、そんなことさえ分からなくなる程に。冷静さを喪失した僕の頭の中は今、ぐちゃぐちゃになってしまっていた。


「何……やってるんだよ!! お前ッ!!?」


 気がついた時には、僕の両手はヤツの胸ぐらにあった。同時に、僕の精神騎スピリットも剣を構えて一目散に切りかかっていた。喧嘩なんてしたこともない僕の手は、目の前の男の身体を持ち上げることなど到底できず、代わりにプルプルと震えを伴っていた。


「あれ、キレちゃった? ……だっさ。 自分の感情もコントロールできないとか」


「うるさいっ! こんなこと……許されると思ってるのか!?」


「許される? 誰に? 他者依存で生きてるからそんなチープな発想しか出てこないんだよ。 そうやって一生許さずに恨んでれば良いんじゃない? 俺のこと」


 不安定にりきむ僕の腕をガシッと掴み、ヤツは容易に払いのけてしまった。それと同時に、ヤツの精神騎スピリットから黒い針のようなものが射出され、僕の精神騎スピリットへと襲いかかってくる。攻撃を受けた精神騎スピリットは、そのまま後方へとボールみたいに吹っ飛ばされてしまった。

 人をおちょくるようなその態度と、言葉遣い。死んだような目と、薄ら笑いの唇。それらも計算の内なのか否かは分からない。が、僕の精神騎スピリットのお腹がグツグツと煮えたぎってしまっていることは確かだった。


「というか、今日は別に君にケンカ売られに来た訳じゃないしね。 そろそろ物語も中盤に差し掛かった頃だから、ネタバラしをしようと思ってさ」


 力の込もっていない、飄々ひょうひょうとした声で歌河は言う。まるで、僕と僕の精神騎スピリットの反応を見て楽しむかのように。


「そろそろ知りたくない? ───"花壇荒らし事件"の真相」



「っ……やっぱり、アンタが一枚噛んでたのか」


「ははっ、別に俺がやったんじゃないし、俺には何の責任もないよ? 俺はただ、ゲームの傍観者として楽しんでるだけさ」


 ヤツの精神騎スピリットは、杖をこちらに向けて構えたまま、挑発するようにクルクルとその先端を回転させている。あの杖から射出される魔法攻撃は、毒で作られたトゲのようなものらしかった。"トゲ"のある言葉で"毒を吐く"……その攻撃は、じわじわと侵食するかのようなダメージを、僕の心に植え付けていた。


「さてと、それじゃ解決編といこうか。

 ……ほら、起きろよ元凶はんにん。 次はお前のターンだぜ?」



 そう言って、ヤツはうずくまったまま動かない梓内さんに向かって声を飛ばす。その時、微かに彼女の耳がピクリと動いた気がした。


「…………」


 消えかけていた意識に火が灯るように、梓内さんの身体がゆっくりと動きを持つ。左半身に覆い被さっていた霧谷さんの身体が滑り落ち、彼女の膝に乗っかった。が、それさえものともせずに、膝を立てて立ち上がる梓内さん。その動きは、起き抜けのような覚束おぼつかなさと、篝火かがりびのようにぼんやりとした……しかしどことなく力強さを感じさせるオーラをまとっているような感じがした。


「梓内、さん…………?」


 のそり……と立ち上がる彼女へ、遠慮がちに声をかける。虚ろな瞳をこちらに向け、梓内さんは僕をしばらく見つめていた。しかし、その後すぐに両の眉をひそめると、彼女は怪訝けげんな表情のまま言った。




「───テメェ、昨日のヤツか?」



「え…………」



 それはまるで、ファンシーな見た目のカフェから爆音のへヴィメタルが聞こえてきたかのような衝撃……と言えば良いのだろうか。あまりにも唐突なその出来事に、ここまで何度も言葉を失ってきた僕は、今度こそ言語中枢ちゅうすうが焼き切れる程の衝撃と困惑の感情を抱いていた。



「ははっ、そうこなくっちゃ。 それぐらい驚いてくれないと、ここまでお膳立てした意味がないしね」


「あァ? ……んだよ、オメーもいんのかよ。 チッ、メンドくせぇことになってんな……」


 そう悪態をつく梓内さんは、もう今までの梓内さんではなかった。さっきまで梓内さんだった人は、全く以て別の人に取って変わられたかのように、僕が見たことのない挙動を連発していた。


 そしてよく見ると、彼女の精神騎スピリットにも一定の変化があった。大きな見た目や武器は元のままだが、気迫が今までとは全然違う。今までは、"恋のキューピッド"的な清楚な雰囲気のある弓兵の精神騎スピリットだった。しかし、今のオーラは完全に殺し屋のそれだ。まさに、ロビン・フッドのような殺気と嵐をまとって弓を構える伏兵に、彼女の精神騎スピリットは変わり果ててしまったのだ。


「…………これ、は……」


「それじゃあ……精神騎スピリットの頭をグルグル回しているであろう君に、俺から解説をしてあげよう。 花壇荒らしの犯人は、本当に梓内 凛桜だったのか。 そして、目の前で彼女が豹変した理由とは何なのか。 それは───」




「───彼女に"二つの人格"があるから。 ……でしょ?」



 その瞬間、保健室は静寂に包まれた。

 得意気に話していた歌河の動きがピタリと止まる。首を傾けながら睨む梓内さんのまぶたがピクッと僅かに動く。僕一人が追い詰められていたかのような状況は、この一瞬間のうちに元通りのフラットな空気へと変わっていた。


「…………気づいてたの?」


「……昨日梓内さんに会った時に、なんとなくね。 でも、確証が持てなかった。 だから、彼女に話を聞いて確かめようと思ってたけど……今ので確信した」


 ふぅ……と、音を押し殺しながら息を吐く。心理学の知識が頭を駆け巡ったことで、幾分いくぶんかいつもの冷静さを取り戻せそうな感じがした。


「彼女の……梓内さんの症状は───」



***


『───『解離性同一症D I D』?』


「うん……確証はまだ無いんだけど、友達に、そんな感じの子がいてさ。 色々調べてはみてるんだけど、客観的な意見も欲しくて」



 話は、昨日の夜にさかのぼる。


 心眼石しんがんせきのペンダントを外し、部屋に一人となった僕は、早速梓内さんの症状について調べはじめた。本棚を漁り、ありとあらゆる学術書を机にドン! と置いたり、PCを起動してネットに転がっている論文を読んだり。はたから見れば、高校生ではなく大学生がするような作業に見えるかもしれない。でも、父さんのような日本一の心理学者になることを夢みていた僕からしてみれば、こんなのは朝飯前だ。


 で、僕が最後に頼ったのが、転校前に通っていた清森きよもり高校の友人、眞鍋まなべ瑞人みずとくんだった。

 彼とは、週に一回ぐらいの頻度で連絡を取り合う中であり、互いに得た知識の交流だとか、近況だとかを語り合っている。何より、彼は心理学に関しての知識が幅広く、清森きよもり高校で得た知識と臨床心理士の父親から得た知識とを、惜しみなく僕に提供してくれる。(僕も、得た知識を瑞人くんに教えたりしてるから、ギブアンドテイクは成立している)まさに、僕にとって親友且つ師匠……そしてライバルとも言うべき存在なのだ。



『……なるほど、事情は分かった。

『解離性同一症(Dissociative Identity Disorder )』……もしくは、『解離性同一性障害かいりせいどういつせいしょうがい』。 いわゆる"多重人格"ってヤツだよな。 一人の人間の中に、全く別の性別や性格、記憶なんかをもつ複数の人格が現れる、神経症の一種』


「そう。 外見は同じ人なのに、まったく連続しない別の人格がその時々で現れたりする。 性格だけじゃなくて、口調や筆跡、動き方までもが異なることもある。 中には、一人の中に三つ、四つ……多い人だと、二千近くの人格を持っていた人もいるって、ネットの記事には書いてた」


 よく、ドラマやアニメなどの創作物で、こうした"多重人格"が取り上げられることがある。所詮しょせんフィクション……とまでは言わないが、そういうものでは、多重人格は"都合の良いキャラチェンジのスイッチ"として描かれることが多い。でも、実際はそんな単純なものではない。


 一つの身体を取り合って、複数の人格が対立することがあったり、片方の人格が起こした問題行動によってもう片方の人格が被害を受けたり、といったことも多いのだそうだ。喩えるなら、「複数人で一台のスマホを使い回している」ようなものだろうか。そこに"都合の良さ"などというものはなく、かえって不便なことの方が多いだろうということは、容易に想像がつく。

 さらに、もっと厄介なのが…………


『『解離性同一症D I D』は、様々な精神疾患の中でも、特に周囲からの理解が得にくい。 「サイコパスだ」とか「ただの演技だ」とか言われてな』


「うん……だから、僕も最初はそう思っちゃったんだ」


 今もまだ、確信は持ててないんだけど……と小声で言いつつ、続ける。


「でも……その子の普段の様子を考えると、あれほどの豹変ぶりはおかしいと思って。 さっきも言ったけど、口調や態度、走り方まで、いつもの様子とはまるで違ったからさ」


 梓内さんは、物腰が柔らかく、誰にでも優しく接する清楚な女の子だ。それに、ボランティア活動の時に肥料の袋を持ってきた時の彼女は、胸をポヨンポヨンと揺らした……いや、違う。その……ゆったりとしたペースの走り方だった。

 しかし、あの時……花壇荒らしの現場を目撃された直後の彼女は、目つきが鋭く、荒っぽい口調で、そして走りも異様に速かった。それで、もしかしたら……と、この『解離性同一症D I D』の可能性に行き着いたのだ。



『そもそも"解離かいり"っていうのは、意識や記憶なんかが途切れる状態のことを指すんだ。 その中でも特に、痛みや苦痛による精神的な瓦解がかいを防ぐために、痛みの知覚や記憶を自我から切り離すタイプの解離がある。 『解離性同一症D I D』は、そうした解離が断続的に起こることで発症すると考えられているんだ』


「痛みや、苦痛…………」


『あぁ。 だから、もしその友達が本当に『解離性同一症D I D』なんだとしたら、その……過去に何かトラブルとかがあった可能性が極めて高い』


 ……本当、瑞人くんとの会話は有意義だな。自分が忘れていた知識や、気づかなかった視点を提示してくれる。

 で、今の瑞人くんの話をまとめると、精神的なストレスを回避するために、ストレスの"ぐち"として人格を分離しているってことか。過去に、断続的にストレスを受けるようなトラブル・事件があり、それがトラウマとなって精神的な病に繋がるというケースはよくある。例えば、いじめや虐待、暴力など…………。


(梓内さん…………)


 頭の中に、梓内さんの笑顔が浮かぶ。普段の彼女からは、そんな様子は全く見受けられなかった。……いや、だからこそ、人格の分離によって上手く隠し通せているということなのかもしれない。どちらにせよ、彼女と接触して確かめる必要がありそうだ。


(梓内さんが本当に『解離性同一症D I D』なんだとすれば……彼女の、切り離された方の人格は……)



***


 そして、現在に至る。

 今、目の前で梓内さんの人格交代を確認した僕は、昨日知った知識と、ここまでの状況とを冷静に整理しようと努めていた。


「何だよそれ、興醒きょうざめもいいとこじゃん。 せっかく盛り上がりのシーンをお膳立てしてやったのにさ」


「うるさい……アンタは黙っててくれないか」


 そう言って、僕は梓内さんの……"もう一人の梓内さん"の方に向き直った。


 梓内さんが『解離性同一症D I D』であることが確定した今。ここまでの彼女との接触を振り返って分かったことが二つある。

 一つは、普段の梓内さんは、切り離された方の人格が起こした行動や発言などを認知していない可能性が高い、ということ。

 内在する人格同士は、コミュニケーションを取ることは基本的に出来ない。いつも僕とハナコがやっているみたいに、"心の中で会話する"みたいなことは不可能だということだ。記憶の引き継ぎができるケースもあるみたいだけど、少なくとも今朝の会話から、梓内さんが昨夕のことを覚えている様子はなさそうだった。つまり、"犯人であることを隠していた"のではなく、"本当に知らなかった"という訳だ。


 そしてもう一つは、彼女の精神騎スピリットについてのことだった。



「……君、名前は?」


「あァ? 何だよいきなり。 ……テメェもよく知ってんだろ、梓内凛桜だよ、梓内凛桜」


「そうじゃなくて。 いつもの梓内さんの人格と区別するために、君も固有の名前を持っているはずだ」


「チッ…………別に名前なんざどーでも良いだろうがよ」


「お願い。 聞かせて」


 真っ直ぐ。目を逸らさないように、真剣な表情で彼女を見つめる。同時に僕の精神騎スピリットが、剣を真っ直ぐに構え、熱いまな"し"を見舞う。しばらくすると、彼女は観念したのか、舌打ちをしてよそを向きつつ、



「…………アイツは……凛桜は、アタシのことを『紫陽しよう』って呼んでるよ。 それで良いか?」

 

「……ありがとう。 紫陽しようさん、だね」


 僕が名前を繰り返したその時。

 彼女は……紫陽しようさんはいきなり僕の方へと距離を詰め、突き上げるような挙動で僕の胸ぐらをすくい上げた。


「気安く呼んでんじゃねェぞ。 ……アタシのことなんざ何も知らねぇクセに」


「…………」


 言葉の矢で貫かれたような胸の痛みが、精神騎スピリットを通して伝わってくる。そして、矢を放った彼女の精神騎スピリットが眼前に立ちはだかる。


 ───その周囲には、『心此処に在らずメランコリック』のきざしとして現れる、あの"黒い霧"が立ち込めていたのだ。



 僕は当初、こんな予想を立てていた。

 「もし、花壇荒らし事件の犯人が学校の生徒で……そして、『心此処に在らずメランコリック』の罹患りかん者だとしたら……」と。そして、その犯人は梓内さんであることが判明した。しかし、そこには一つの疑問が残った。


 犯人たる人物の精神騎スピリットからは、あの黒い霧が出るはず。なのに何故、梓内さんの精神騎スピリットからは、黒い霧が出ていなかったのか。そして何故、梓内さんの精神騎スピリットは、事件との関わりを匂わせるような動きを一切しない、なんてことが出来たのか。

 考えてみれば、単純なことだった。

 それは───



「そう。 彼女の精神騎スピリットは特殊でね。 精神騎スピリットもまた、本人と同じように二面性をもつ……つまり、スタイルチェンジが可能な精神騎スピリットなんだ」


「二面性をもつ、精神騎スピリット……」


 僕の思考を読むかのように、歌河が言葉を被せてくる。

 そう……『心此処に在らずメランコリック』の症状に陥っていたのは、梓内凛桜ではなく、梓内紫陽の方だった・・・・・・・・・という訳だ。だから、紫陽さんの方の精神騎スピリットが眠っている間は黒い霧が出ず、梓内さんが普通に見えたのである。ハナコが黒い霧に気づけなかったのも、これなら頷ける。


(つまり、僕は……)


 横目に、僕の精神騎スピリットを見る。

 負傷した精神騎スピリットは、いつの間にか、その背中に大きな荷物みたいなものを背負っていた。その"重荷"と向き合いつつ、僕は息を吐き出す。


(僕は……霧谷さんと紫陽さん、二人の治療をしなければいけない、ってことか)


 無論、深層世界に入っての治療は、二人同時にはできない。それは、二人の話を同時に聞いてカウンセリングを行うようなものだ。

 じゃあ、どっちから先に治療をすれば良い……? 霧谷さんが『心此処に在らずメランコリック』を発症したのは昨日か今日になってからだから、梓内さんの方が先か……? でも、紫陽さんの人格は、果たして僕の話を聞いてくれるのか? ハナコが音信不通な中、僕一人でそれができるのか……?


 悩みが悩みを呼ぶような状況の中、僕は内心焦りを覚えていた。一時間目の授業が始まったばかりの時間から、色々な事が起こりすぎだ。それに、こういう時に一緒に議論をしてくれるハナコの不在も、かなり応えていた。

 僕一人で、出来るのか……。僕だけの力で、彼女たち二人を救うことなんて、本当に───



「───世界ってのはさ」


 不快極まりない、ドス黒く染まった声で、歌河が言う。


「選ばれた一パーセントの人間だけが幸せになって、あとの九九パーセントは不幸になるように作られてるんだ。 誰もが幸せになる世界なんて、創作フィクションの世界でしか叶いっこないしね。

 いじめも、差別も、戦争もなくならない。 俺たち不幸サイドの人間は皆、どうあがいたって不幸なまま、幸せな人間たちの足蹴にされながら死ぬしかない運命なんだ」


 歌河は、乾いた笑みを浮かべていた。まるで、全てを諦めきったかのような、絶望の嘲笑ちょうしょう。神様も、希望も、奇跡も、人も、何もかも信じることを止めたかのような、その表情。それでいて、加虐的で人の悪意をたぎらせるその言葉は、精神騎スピリットもろとも、僕の胸を突き刺しえぐるように響いていた。

 僕と、歌河とが改めて対峙する。睨む僕に対し、ヤツはずっと笑っていた。そして、その不気味なまでの笑みのまま、ヤツはこう言い放った。


「さぁ……それじゃそろそろ始めようか。

 不幸と絶望に彩られた、俺たちの決闘ゲームを」



つづく


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