第二章⑥『かくして隠せし賢しき刺客』
翌朝。
陰鬱な気持ちは、目が覚めた後も消えずにじわりと胸の隅に残っていた。
のそのそとベッドから出て、菓子パンを口に放り込み、カバンの支度をする。家を出て、いつものバス停までの道のりをとぼとぼと歩く。バスの窓から、ぼうっと曇り空を眺める。その間ずっと、僕の
「あ、来た!
教室に着くなり、
「その……見た? 花壇」
「うん……ひどい有り様だったね」
クラスメイト達の視線が、一瞬、僕たちの方に集中する。教室に入った時点から聞こえていた周りのヒソヒソ話も、花壇のことばかりだった。
「私も、今朝バリケード張られ直してるの見てビックリしちゃってさぁ。 ……ねぇ、昨日剣悟くんが帰る時は、花壇何とも無かったの?」
「っ……」
ドキン、という音と共に
ぐわ……と、シャベルが高く持ち上げられる。天を貫くかのように振り上げられたそれは、次の瞬間、風晴さんたちが懸命に植え直してくれたチューリップの一輪を叩き潰した。僕が見たのはその一回だけだったけど、後で確認したところ、同じような経緯で潰されたと思わしき花たちがいくつもあることが分かった。
ボランティア活動によって修復されかけていた花壇は、僕の目の前で、花壇荒らしの犯人にめちゃくちゃにされてしまったのだ。
ぐわんぐわんと、
「……うん。 帰る前に見たけど、その時はまだ荒らされてなかったよ」
首を振りながら、そう答える。罪悪感と
「そっかぁ……。 そうなると、やっぱ夜中の犯行? でも、ウチの学校ってそれなりにセキュリティ万全だし、夜中に誰かが侵入するってのは無理りんだよねぇ」
「俺の推理だと、やっぱ先生のうちの誰かが怪しいな。 ほら、生徒が帰った後でも、先生たちは残って仕事をするだろう? それで、何らかのストレス発散で花壇をバーン! とだな」
「ま、可能性はあるかもしんねーけど……大の大人がそんなガキみてーなやり方でストレス発散するか?」
皆が口々に呟く憶測が飛び交う。僕は、肯定も否定も出来ないまま、苦笑いを浮かべることしか出来なかった。
そんなどっち付かずの反応を見かねてか、遂には頭の中からも批判の声が上がってくる。
『何をぐずぐず悩んでいるんだ。 君も見ただろう? 決定的な犯行現場を』
イライラしている様子を隠そうともせず、ハナコは低い声でそう言ってきた。彼女もまた、僕の目を通して事件の現場を目撃した一人だ。
『分かってる。 ……でも、まだ分からないことがあるんだ。 それを確かめるまでは……』
『───君の本来の目的は』
食い気味に、ハナコが言葉をかけてくる。
『犯人と思わしき人物に『
『でも、さ……犯人は……彼女は本当に……』
「───
またしても、僕の
そこに現れたのは、昨日あの時、あの場所で目撃した花壇荒らしの犯人───
「
焦ったような表情のまま、僕の横……すなわち自分の席へと駆け寄る梓内さん。その言動や雰囲気、所作は、恐ろしいほどまでに"いつも通り"だった。
「あのっ! 外の花壇が、また……」
「あ、
「うん……私も、今朝見たらあんなことになってて、ビックリしちゃって……」
風晴さんと会話をする梓内さんの横顔を、僕は睨みつけるみたいに凝視していた。
───僕は昨日、梓内さんが花壇のチューリップを叩き潰す瞬間を、目の当たりにした。
そこには、つい十数分前まで秘密の会合をしていた
でも、今の彼女は、そんな事知りませんと言わんばかりに、"いつも通り"の様相で皆と会話している。その光景を見ていると、昨日の出来事の方が幻だったのではないかとすら思えてくる。……でも、そんな事本当に有り得るのだろうか?
「梓内さん……昨日の修復作業が終わってからのこと、覚えてる?」
一見するとそれは、さっき風晴さんが僕に対してしてきた質問とほぼ変わらない内容の問いかけだった。しかしその裏には、彼女の反応を探ると同時に、彼女の
「あ……そういえば凛桜ちゃん、ボランティア終わった後、最終点検があるからって言って残ってたよね。 どう? 何か知ってる?」
風晴さんも加勢したことで、今度は皆の注目が梓内さんの方へと向かう。ただ、風晴さんたちは梓内さんが犯人であると疑っている様子はなく、あくまで重要参考人として話を聞こうとしている風だった。
渦中の梓内さんは、その時一瞬だけまばたきの回数を早めた。が、その後すぐに悲しそうな表情で目を伏せ、首を左右に振る。
「……私が点検を終えて帰ろうとした時には、何ともなかったから。 それ以降のことは、私にも……」
ごめんね……としおらしく呟く梓内さんから視線を落とし、僕はひっそりと彼女の
ライトグリーンのローブを被り、肩には大きな弓と矢筒を背負った、弓兵スタイルの彼女の
……ただ一点、
『これ……"心当たり"がある、ってこと?』
『そうだな。 ……自分が犯人の癖に、白々しい』
批判的な声でハナコは呟く。また、
僕と同じ、十五~六歳そこらの彼女が、ここまで完璧に嘘を突き通せることができるだろうか? 彼女の行動、そして
刑事ドラマや推理もののアニメなんかで、推理が繰り広げられるシーン。そこでは
普通の人は、隠し事や後ろめたいことがあった時に、「バレるかもしれない」「まずい、バレたかも」という不安を感じるものだ。こういう、「隠し事などを相手に気づかれたかもしれない」と思ってしまう感覚を、心理学用語で『
しかし、だ。
(……梓内さんの
梓内さんは、追い詰められた犯罪者に見られるような焦燥を
『なるほど、確かに不可解ではあるかもしれないな。 ……だがまぁ、単純に能天気なだけか、あるいは絶対に犯人と疑われない自信でもあるか……それだけのことなんじゃないのか?』
『まぁ、そういう可能性もなくはないと思う。 ……でも、そうじゃない別の可能性もあるんだ。 それを確かめたい』
ハナコの言うとおり、考えすぎなのかもしれない。でも、僕は梓内さんが犯人であることを裏付ける決定的な瞬間を目撃している。彼女が犯人なら、そこには動機があるはずで……それが、『
「ねぇ、梓内さん……」
彼女の顔を覗き込むようにしながら、声をかける。さっきまでの、犯人を睨むような意思を持つ眼ではなく、あくまで優しい眼を意識しながら。
「昨日、僕が帰ろうとした時に、昇降口の所で梓内さんと出くわしたの、覚えてる?」
「えっ……?」
この時、梓内さんは初めて言葉を詰まらせた。
「えっと、その時は特に話をした訳じゃないけど……その、靴を履き替えて出てきた時には、梓内さん居なかったから。 だから、どっちが最後の目撃者になるのかな~って、ちょっと気になって」
「おぉ、なるほどな。 花壇が最後に無事だったのを見たのがどっちなのか分かれば、犯行推定時刻やら、アリバイやらを絞れるってことか!」
「……いや、どっちも『何ともなかった』っつってたんだから、一緒だろ。 帰った時間もほとんど同じだろうし、意味ねぇって」
そう。小竹くんの言う通り、最後の目撃者がどっちなのかなんて事はどうでも良い。大事なのは……
「えっと……私、昨日あの後、
「うん、会ったよ。 ……覚えてない?」
「う、うん……どのタイミングだったんだろう。 ごめんね、気づかなくて」
梓内さんの
(となると、やっぱり……)
僕の疑念は、ほとんど確信に変わりつつあった。僕の考えが正しければ、少しばかり厄介なことになる。とにかく、ハナコに事情を説明して、作戦を練り直さなければ、と、ハナコに声をかけようとした時だった。
───ガラガラッ、と、教室前方の扉が開かれる。そこに現れた人物を見た途端、皆が無意識に背筋をしゃんと伸ばして前を向いた。騒がしかった教室の空気が、しんと冷やされたような感じだ。その空気を一身に受けて、全員の注目を浴びる彼女───
「霧谷さん……」
彼女の姿を目に留めた瞬間、僕の意識は……否、僕の
『……昨日あの後、彼女は何も言わずに立ち上がり、とぼとぼと一人で帰っていった。 花壇の惨劇を目の当たりにして、言葉を失ったという感じだった。
……私はてっきり、学校に来れないぐらいやられていると思っていたけど』
ハナコの声と共に、昨日の霧谷さんの様子が脳裏に浮かぶ。僕がなんと声をかけても、彼女はただ俯き震えるだけだった。かと思うと、彼女はいきなり立ち上がり、カバンを抱えてそのまま帰っていったのだ。顔を伏せられ、その表情すら窺い知れず、昨日の僕はただその背中を見つめることしか出来ずにいた。
彼女と、彼女の
『……本当は、一人にするべきじゃなかった。 でも、僕自身混乱してて、どうすれば良いか分からなくて……』
『反省なんてしている暇があるなら、目の前のことに集中しろ。 ……彼女、何をしでかすか分からないぞ』
ハナコに促され、前を見る。
昨日の朝と全く同じ構図で、皆の前に立つ霧谷さん。何も言わずとも、「今から大事な話をします」というオーラを醸し出しているような感じだった。
(……まさか、この場で梓内さんに昨日のこと言及する気なんじゃ……!?)
冷や汗が首筋を伝う。
そんなことをされたら、大事になってしまうじゃないか。それに、梓内さんにはまだ"別の疑念"が残っている。このまま、先生や生徒会に梓内さんの身柄を奪われる訳にはいかない。
『止めなきゃ……!』
『おい! 何を……!』
衝動的に、僕は霧谷さんの方へと歩いていた。まだ話が始まっていない中、突然動き出した僕のことを、クラスメイト達が
対する霧谷さんは、僕の行動に一切動じていなかった。ただ一点を見つめ、真っ直ぐに立ち、両ひじを抱えるようにして腕を組みながら…………
…………そこで、僕ははたと足を止めた。
「霧谷さん……?」
……様子がおかしい。
霧谷さんが前に立ってからもう一分ぐらいは経っているというのに、彼女は一向に話し始めない。加えて、動きがあまりにも少なすぎる。それはまるで、氷漬けにでもされたかのような硬直具合だった。
……いや、よく見ると、霧谷さんの手指はぶるぶると小刻みに震えている。瞳も、細かく揺れ動いているみたいに、焦点が定まっていない感じだ。おまけに、口元までも震えを纏っていた彼女だが、そこから呼吸音らしきものが一切聞こえてこない。
「………っ……ぁ………………」
「……霧谷さん、大丈───」
『マズいっ! 彼女の
僕が声を発しかけたその時、脳内にビリビリと響くようなハナコの叫び声が轟いた。
慌てて霧谷さんの足元に目を移す。その先には、今まで通り重厚な鎧を身につけた霧谷さんの
ピキ……と音を立てたかと思うと、その刹那。
───
「なっ……!?」
クラスメイトたちが首を傾げる中、僕と僕の
『この量……尋常じゃないっ……!』
『あぁ……これだけのストレッサーを、彼女は自分の内に抱えていたというのかっ……!』
『待って……何か様子が変だ……!』
吹雪のように……と形容したが、彼女から吹き出す"黒い霧"は、こちらに向かって攻撃を加える意図で出されたものではない気がした。突然のことに気圧されて、僕の
「……ぁ……ぐっ………」
「
そして、霧谷さん自身にも異変が生じる。
前に立ち、小さく震えながら硬直するだけだった彼女は、突然その場に倒れるようにしてうずくまった。ガタンッ! と、霧谷さんが手をついた机が倒される。これには、クラスメイトからもどよめきの声があがった。
「お、おい……何がどうなってんだ?」
風晴さんが、慌てた様子で霧谷さんの元へ駆け寄ってくる。霧谷さんは、両手で喉を押さえながら、必死の形相で酸素を取り込もうとしていた。その間も、全身の震え……いや、
「丸まった体勢のままじゃダメだ! 足を伸ばして、息を吸いやすい姿勢で座らせてあげて!」
「わ、分かった!」
まだ慌てた様子ながら、風晴さんが僕の指示に合わせて処置をしてくれている。息を吸うことさえできないような状態に陥っていた霧谷さんだったが、姿勢を変えたことで、まるで水面から顔を出した時みたいに勢いよく酸素を取り入れてくれた。でも、まだ呼吸自体は荒い。
「剣悟くん、これって……」
「うん……」
間違いない。僕は、ハッキリとこう言った。
「───『パニック症』による発作だ」
『パニック症』。
それは、現代では百人に一人が罹患するとされている精神的な病気の一種で、『パニック障がい』とも呼ばれているものだ。
何の前触れもなく、突然
「パニック、症……? でも、今まで椿ちゃんがこんな風になったこと無かったよ!?」
霧谷さんの背を優しく撫でながら、風晴さんが声を挙げる。
「それに、あの霧谷さんがパニックになるなんて……」
「いつもクールで、何にも物怖じしないあの霧谷さんが……まさか……」
クラスメイトたちからも、そんなヒソヒソ話が聞こえてくる。確かに、今までの霧谷さんの立ち振舞いを見ていれば、彼女が『パニック症』になるなんて考えられないかもしれない。
……でも、僕は知っている。霧谷さんが抱えている苦悩と、その心の
「とにかく、僕が霧谷さんを保健室に運ぶ。 皆は、先生にこのこと伝えておいて」
「───待って!」
声が響く。
皆の注意を一手に引き受けながらその声を挙げたのは…………梓内さんだった。
「私も……私も一緒に行く! 一人じゃきっと大変でしょ?」
「…………」
霧谷さんの腕を肩に回しながら、一瞬黙り込む。頭をブンブンと激しく振って揺らす僕の
「……わかった。 お願い」
『おい! 正気か!?』
ハナコの制止する声が頭に響くが、僕は構わず、駆け寄ってきた梓内さんと協力して霧谷さんの両肩を担いだ。
『今は、霧谷さんの安静が最優先だ。 それに、保健室に霧谷さんを運んだ後には、梓内さんと二人で話せるタイミングができると思うし、むしろチャンスだよ』
それから……と、足元に目を向ける。
『梓内さんの
『だが……』
ここまで言っても、何故か納得してくれる様子がないハナコ。僕は、今までとは逆に、ハナコの心を読んだような気持ちで言った。
『もしかして……心配してくれてるの?』
『……はぁっ!?』
ハナコは、急に言葉を詰まらせたかと思うと、すぐに怒ったような口調で、
『ぐ……あぁ、そうだよ! 心配だ!
『あはは……いつも心配かけちゃってごめんね。 でも、大丈夫。 きっと何とかするから。 それに……いざとなったら、ハナコのこと頼るからさ』
『っ……あぁ分かった! 勝手にしろ! どうなっても私は知らないからな!』
「うん……ありがとう。 じゃあ行こう、梓内さん」
ハナコへの言葉を、梓内さんへの言葉に重ねる。それから、僕と梓内さんは、霧谷さんの両腕を肩に抱えて歩きだした。
朝のホームルームまで、あと三分。クラスメイトの心配の眼差しを背に受けながら、僕と僕の
***
「───やぁ、遅かったね。 もしかして、一限の授業サボるために、わざとこの時間に来たとか?」
「…………え」
保健室のドアを開けてすぐに目に飛び込んできた光景とその声に、僕は驚愕した。
保健担当の初老の先生が座っているはずのその席に、見知らぬ男子生徒が座っている。
くすんだ緑色の髪が左のこめかみ近くで編み込まれ、後は全体がパーマっぽくなっている。両耳には、学生にあるまじき黒いピアス。メイクでもしてきたかのような長いまつ毛の下には、どんよりと大きな
「アンタは…………」
そして、何より僕の肝を冷やしたのは、その声だった。言葉の端が掠れ、ゆっくりねっとりとした低い声。たった一声だけなのに、その男の声は妙に重く、鈍く、ぐぶりと内臓を
───それはあの時、風晴さんの深層世界で聞いた声。
「……初めまして、藤鳥 剣悟クン?」
彼女の心を踏みにじった、最低最悪の声。
「俺の名前は、
───風晴さんの『
つづく
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