第二章④『インポスターは誰?』
「はぁ…………最悪だ…………」
トイレを出た僕は、盛大なため息と共に重い足どりで廊下を進んでいた。目的地は、一年二組の教室。そこで先に待っている
事の発端は、つい先ほど起こったボランティア作業中の出来事。
その場にいた人たちには、『小さいハチが飛んできた』っていうカバーストーリーで何とか誤魔化しが効いた。ただ、
「いやぁ、よもや
とか返答に困る発言をされるし、
「怖かったけど……でも、
という健気で逆に胸が痛む言葉をかけられるしで、散々だった。あと、遠くから
それよりも問題なのは、この後の
『でも、
「あぁ……僕にお説教することで怒りを発散して昇華する、とか?」
『……まぁ、そうなればそれはそれで結果オーライだね』
「冗談のつもりだったんですけど…………」
と、ハナコにとやかく言われながら、教室へと歩みを進める。結局、花壇荒らしの犯人探しからは遠のいてしまったけど、こっちもこっちでやるべき事ではあったのだから、ある意味ラッキーかもしれない。それに、証拠集めに関しては
「でもなぁ…………あれ絶対怒ってたしなぁ…………」
『全く情けない……。 心療関係の仕事を目指す人は、どんな暴言クレームにも耐えて話を聞く訓練をしなければいけないんだろう? だったら、これぐらいで不安がっていては駄目なんじゃないのかい?』
「うぐ…………それを言われるともう何も反論できない……」
はぁ……と、またしてもため息を吐く僕に、ハナコは畳み掛けるように言う。
『それに……彼女が『
予測、か……。今までの
彼女の
一応、怒りっぽい人とか真面目すぎる人とかにも、うつ病や統合失調症などの病理が当てはまることはある。もし
「…………着いちゃった」
と、あれこれ思考する内に、いつの間にか一年二組の教室の前までたどり着いていた。無意識とは何と恐ろしいことか。まだ心の……もとい、
「…………とりあえず、ちょっと覗いて様子確認するか」
『相変わらずヘタレだな、君は』
ハナコの言葉を無視し、扉を数ミリほど空けて教室の中を覗いてみることにする。何が変わる、って訳でもないけど……例えば、足をパタパタさせたり、あからさまに表情が怒っていたり等の様子が見られれば、それは危険信号。より用心した上で扉を開ける必要がある、ということだ。
頼むから、あんまり怒ってませんように……と、もう神頼みの台詞を脳内で唱えつつ、そっと教室を覗き見る。
そうして、僕は目の当たりにした。
───目の当たりにしてしまった。
「はあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ~っ……! どうしましょうどうしましょうどうしましょうどうしましょう……うわぁぁぁぁぁぁ~…………!」
───頭を抱えたポーズのまま、教室内をしきりにウロウロする、未だかつて見たこともない
「あああぁぁ……あんな言い方したら絶対怒ってるって思われますよね、でも
「こ、れは…………」
あまりの光景に、僕も言葉を失っていた。僕も、僕の
この人が……目の前で蒼い顔のまま教室を行ったり来たりし、ぶつくさと小声のマシンガン独りトークを繰り広げる彼女が、本当にあの
「今から
「……」
「というか、修復作業の方は大丈夫でしょうか?
「いや流石にそれは無いからっ!! ……あっ」
堪らず、ツッコミを入れてしまう。
直後、「えっ……?」という
「……………………」
「……………………」
「……………………あ、あの……」
「……………………えっと……遅れてごめん、なさい……」
「………………いえ……問題ありません……」
「……………………あ、良かった……です……」
「…………その……いつから、いらしたんですか……?」
「……………………いやぁ、その……い、いつだったっけなぁ……」
「……とにかく、中へ入ってください」
海外中継かよ、って思うぐらい間延びした辿々しい会話が続く。ただ、
観念した僕が、ガラガラと扉を開けて室内に足を踏み入れた時には、
「随分遅かったですね。 まぁ、
「…………」
「では、早速本題に入りたい所なのですが……その前に一つ、重要な質問をします。 怒ったりはしませんから、正直に答えてください」
「は、はい…………」
ゴクリ、と唾を飲み込む音が聞こえてきそうだった。
真っ直ぐに僕の目を見つめながら、
「……………………いつから聞いていましたか?」
「……………………『どうしましょうどうしましょうどうしましょうどうしましょう……うわぁぁぁぁぁぁ~!』の所から」
「………………はああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ~っ!!!!!」
今度こそ、彼女のキャラクターとプライドは粉々に崩れ去ってしまった。
その場にうずくまり、ダンゴムシのような格好で床をゴロゴロ転がり回る
「最悪です……よりにもよってクラスメイトに見られてしまうなんて……きっと幻滅されたに違いありません……このまま私のウワサがクラス中に……いえ、学校中に広がって、ヘタレの学級委員と揶揄されて……イジメられて……何も出来ないまま学校生活を終えて大人になって……永遠にポンコツという肩書きを背負ったまま影の人生を歩んでしまうんです……」
「いや、飛躍しすぎだってば……。 その、確かにビックリはしたけど……でも、この事は他の人に言ったりしないからさ。 だから安心して」
まぁ、言ったところで誰も信じないだろうし、僕自身も目の前で起きた事件を正確に言語化できる自信がない。こういうのは、お互いのためにも黙っておいてあげるのがお約束というものだろう。
「……ほ、本当ですか?」
「本当本当! 絶対言わないって!」
「……学校の裏サイトやSNSに書き込んだり、秘密にすることを条件に金銭を要求したりしませんか……?」
「しないしない! ……というか、僕そんなことする風に見える……?」
起きて膝立ちの状態になり、懇願するように涙目で僕を見上げる
(……あ! そういえば)
"心"というワードで、
西洋の頑丈な甲冑を身に纏い、一分の隙もない完全なる
「これが、本来の姿…………?」
思わず、小さくそう呟いてしまう。それに反応した
「そう、ですね……私は、皆さんが思っているような立派な学級委員ではありません。 本当の私は、臆病でネガティブでダメダメな人間なんです」
「あ、いや! ごめん、そういう意味じゃなくって……!」
今のは
「私……ウソつきなんです。 自分には何の能力もないのに、人から非難されるのが怖くて、能力があるフリをしている。 しっかりした真面目な人物を偽って、学級委員のポジションに居座っている……そういう人間なんです」
ボロボロになった薄いウールのジャケットと、革の短パン。手には、"フルーレ"とかいうタイプの細い剣が握られている。
「でも、
「実績なんてたまたまですよ。 ……それに、私が手を挙げなければ、他の誰かが手を挙げなければいけなくなる。 私のせいで他の誰かに迷惑がかかってしまうんです。 そうして動いていたら、たまたまそれが活動実績になってしまいました。 ……私は結局、何もしていないのに」
フラフラして、戦闘どころか立っていることすらままならない彼女の
『ようやくたどり着いたみたいだね。 ……分かったかい?
『うん……この症状、僕も知ってるよ。 恐らく彼女は───』
「───『インポスター症候群』だ」
「へ……?」
ハナコへの語りかけと重ねるように呟く。ハナコも、
「『インポスター
自己肯定感が極端に低い人が陥りやすい症状で、他者からの評価を内面的に受け入れられない……つまり、"嘘だ"と思い込んでしまう。 結果、自分が周囲を欺いているかのように感じてしまう、という状態なんだ」
『インポスター』というのは、今流行りの宇宙服を着た怪物……ではなく、"詐欺師"や"ペテン師"などと訳される言葉のこと。要するに、自分を偽っている人という意味だ。『インポスター症候群』に陥った人物は、自分が周囲の人を騙していると錯覚する。今までの成功を、「たまたまそうなっただけ」とか「自分ではなく周りのおかげ」というように極端に過小評価してしまうのだ。いわば、度を過ぎた"謙遜"。……今まさに、
「『インポスター症候群』は、勤勉で完璧主義な人や、空気を読んで自己主張が出来ない人、失敗することを極端に恐れる人なんかがなりやすい。 "偽物の自分を演じている"というプレッシャーが重なってストレスが溜まり、抑うつ症状なんかにもつながったりする。 物事をプラスに捉えることが難しくなって、幸福感を得にくくなる……好ましくない状態なんだよ」
「わ、私……心の病気なんですか……?」
「ううん、これはあくまで心理状態の名称であって、精神疾患とは違う。 実際、全人類の六~七割が、人生で一度は『インポスター症候群』の状態に陥ったことがあるのではないか、という見解もあるんだ」
勿論、それは一時的な症状として、時間経過と共に回復するのが一般的だ。しかし、
『なるほど……つまり彼女の甲冑は、鉄壁の防御を誇る"武装"としてではなく、自身を偽るための"仮面"として機能していたということか。 どうりで、見た目の割に戦闘力が低いわけだ』
『それと……多分、
『ほう……少しは
彼女の
「……大丈夫。 僕がきっと
「え……?」
そう言って、隣にいる僕の
しかし、
『残念だけど、彼女の『イドア』はまだ開いていない。 彼女の治療をするなら、もっと信頼を得て"心を開かせ"ないといけないよ』
『あっ…………』
そうか……。
『じゃあ、どうすれば…………』
俯く彼女を見据えながら、考える。今はとにかく、互いのことを知るためのコンタクトが必要だ。心理カウンセラーも、ただ患者の話を聞くのではなく、アイスブレイク的に自分の話を織り混ぜたりする。即ち、オープンハート……カウンセラー側もまた、患者に対して心を開かねばならないのだ。
「あ……えっと、ところでさ。
今回は、丁度よく話題が用意されている。先ほどのボランティア活動における僕の失態へのお説教だ。……まぁ、この状態の
しかし、傷心状態の彼女から返ってきた返答は、思いもよらぬものだった。
「お説教……? ……あぁ、やっぱり怒ってると思われていたんですね。 ごめんなさい、顔が怖くてごめんなさい……」
「あ、違う違う! そういうつもりで言ったんじゃな……ってあれ? お説教じゃなかったの? その……僕が
「ですが、あれは事故だったのではないのですか……?」
え……それで処理されてたの……?
事件があった直後、僕はとっさに「事故だ」と弁明した。当然、
「じゃあ……僕をここに呼んだのって……?」
尋ねると、彼女はふぅ……と深く息を吐き出し、ゆっくりと立ち上がった。
「……そう、ですね。 私の本来の目的はそちらでした。 いつまでもこんなことをしている場合ではありません」
「……
「協力……?」
ふぅ……と、
「えぇ。 私と一緒に、突き止めてください。
───花壇を荒らした張本人……犯人の所在を」
***
生徒会役員の号令で、花壇修復チームはひとまず解散となった。集まった人数の都合もあり、未完成の部分についての作業は明日に持ち越しになったのだ。
バラバラと散っていく生徒たち。その顔は、どこかやりきった感に満ちており、皆ヘトヘトなはずなのに表情は明るかった。
「いやぁ~、青春の汗水って感じでございますなぁ~……! ま、結局
「あはは……
「さ~てっと! そんじゃ、我らもそろそろ帰りましょうか! ……って、ありゃ?
昇降口に置いていた鞄を取りに戻ろうとした
「あ……うん。 環境委員は、この後最終点検をしなくちゃいけないから」
「あやや……そかそか。 環境委員も大変なんだねぇ」
「ありがとう。 私のことは気にしないで、
言われて、
それじゃねー! と、明るく手を振る
まるで祈りを捧げるようなその格好のまま、瞳を閉じた彼女はそっと呟く。
「…………お願いだから……これ以上、勝手なことしないでね」
ふっ、と冷たい風が彼女の髪を吹き抜ける。
ほとんど沈みかけの夕陽の光と、昇降口の電灯が、二方向から彼女を淡く照らしていた。
つづく
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