第二章③『ボランティア活動大騒動』



「定刻になりましたね。 それでは只今より、花壇修復作業を開始します。 皆さん、今日は貴重な時間を割いてお集まりいただき、ありがとうございます」


 カラスの鳴き声と、運動部員たちの掛け声が入り交じる中、霧谷きりやさんの号令でボランティア活動が始まった。流石に部活を休んでまでボランティアに参加するという人は少なかったらしく、辺りを見るに集まったのはざっと二十数人ぐらいのようだった。生徒会役員や環境委員を除いて考えれば、もっと少ないかもしれない。

 ……ただ、中には部活を休んでボランティアに参加している人も居るみたいで。


「うっしゃ~! バリバリ修復しちゃうぜぇ~! 土運び、畝作り、収穫などなどはこの私……鉄腕風晴かぜはれにお任せあれ~ぃ!♪」


「農家かな? 単純に土とか柵を元に戻して花を植え直すだけだと思うよ。 ……というか風晴かぜはれさん、部活の方は大丈夫なの?」


「ふっふ~ん……今日はなんと、女バスはオフの日なので~す! ま、熱心な先輩たちはしっかりがっつり自主練に励んでるけど♪」


「そう、なんだ……。 まぁ、本人が大丈夫って言うんなら大丈夫なんだろうけど……」


 ボランティア参加者の一人……風晴かぜはれさんは、相変わらずのハイテンションっぷりで皆の輪の中心になっていた。ジャージの上着を腰に巻き、上は半袖Tシャツ一枚という格好。更には自前の軍手とタオルまで用意している。まさに、今から作業します! と言わんばかりの見た目からも、彼女の気合いの入りっぷりがうかがえる。彼女の精神騎スピリットは、横に置かれている水の入ったバケツで、魚みたいなフォルムになって踊っていた。……どうやら、ボランティアの作業が楽しみで仕方なかったらしい。



「っはは! やっぱ風晴かぜはれと一緒だと、面倒な作業でも明るく楽しめちまうよなぁ! ほれ、小竹こたけもそう思うだろ?」


「チッ……うっせーな。 俺はこうさんがしつこく言ってくるから、仕方なく参加しただけだっつーの」


「おいおい、別に隠さなくても良いだろう。 俺はただ、風晴かぜはれが参加するらしいから、お前も一緒にどうだ? と誘っただけだぞ? 本当はお前も風晴かぜはれと一緒に居たかったんだろ? な?」


「あぁーくそっ! ……藤鳥ふじとりテメェ、この件に関してはマジでいつか借り返してやるから覚えとけよこの野郎ぉ!」


(ひぇぇ……)


 二メートルほど離れた位置。広崎ひろさきくんに肩を組まれながらバシバシ背中を叩かれる小竹こたけ淳平じゅんぺいくんに、物凄い剣幕で睨まれた。ひんやりした空気を纏った僕の精神騎スピリットが、全速力で僕の背筋を駆けていく感覚に、思わず身震いしてしまう。

 広崎ひろさきくんは、恋バナが絡むと途端に面倒くさいキャラに変わる。最初は僕もそれで苦労させられたんだけど、僕が小竹こたけくんの想い人のことをバラしてしまってからというもの、広崎ひろさきくんのターゲットはずっと小竹こたけくんだ。

 まぁ、これについては僕に百パーセント非があるし、恨まれても致し方ない。……ただ、殴る蹴るなどの物理的な報復は出来れば避けて欲しいなぁ、と密かに思う僕である。


「……という訳で、近辺の掃除と整地、植え替えの作業につきましては、一年二組の皆さんに担当してもらいます。 責任者は私です。

生徒会チームと並行して作業を進めていきますので、まずは全員で荒らされた花と土の撤去、清掃をしていきましょう」


「「「はーい!」」」


 とにかく、ボランティアには僕のクラスメイトもそこそこ参加しているようだった。風晴かぜはれさんに加え、霧谷きりやさん、梓内あずさうちさんも参戦し、『華の三美女』大集合という構図になっている。……多分だけど、ボランティアに参加している数少ない生徒のほとんどが、それ目当てなんじゃないだろうか。来る途中、「三美女が全員参加するだとっ!?」「クソッ……俺も部活さえ無ければ!」みたいな声を廊下で何回も聞いた。別にそう思うこと自体を咎める気は全くないけれど、こう……こんな中で修復される花たちもなんか不憫だな、なんて思ってしまう。


 ……というのも、僕自身も『お花たちのために』ではなく、別の目論見があってボランティアに参加している人間の一人だからだ。



『……分かっていると思うが、修復作業が進めば進むほど、物的証拠や手がかりは消えていく。 まずは現場調べに注力すること。 梓内あずさうちさんや霧谷きりやさんに接触して情報を引きだすのは、その後だ』


 まるでスパイ映画の司令官みたいな台詞を、ハナコが脳内で語りかけてくる。僕は脳内で、「言われなくても分かってるよ」と返事をした。

 実際、この計画の発案者は僕なのだから、作戦の手筈ぐらい自分で把握している。……というか、「手伝わない」とか言ってた割には、ハナコも結構ノリノリに見える。もしかして、こういう推理ゲームみたいな展開、結構好きだったりするのかな……?


『うるさい。 無駄口を叩くな』


『はいはい』


 心を読まれたので、このぐらいにしておく。ここで調子に乗って追求しすぎると、後で痛い目を見ることを僕は知っているのだ。

 ……ともあれ、僕がやることに変わりはない。霧谷きりやさんから回されてきた軍手を握りしめ、僕は小走りして用具庫へと向かうのだった。



***


「……しっかし、俺らは霧谷きりやのチームで良かったなー」


「あぁー、それは分かるかも。 お堅そうな生徒会チームと一緒は……流石の私も超勘弁っ……!」


 コンクリートの上をほうきがすべる音と、ヒソヒソ声で紡がれる生徒会への陰口が重なる。それらの雑音を聞き流しながら、花壇荒らしの証拠を探そうとする僕だったが、やはりこれといった決め手は見当たらない。何なら、事前に生徒会役員の手で粗方の補修作業がされていたのか、事件当時の痕跡らしきものはほぼゼロだ。

 ……これじゃ埒が明かない。そう思った僕は、ほうきを動かす手を止めて、ふぅ……と小さく息を吐き出した。隣で、お腹にグルグルとロープみたいなものを巻き付ける精神騎スピリットをチラリと見やってから、僕はボソッと、



「…………結局、犯人って誰だったのかな?」


「え……?」


 あくまで、今ふと思い立ったかのような自然さで。誰にも悟られないよう、余計な力を抜いて。僕は、広崎ひろさきくんらに聞こえるぐらいの声で呟いた。


「まだ犯人って、見つかってなかったよね? ……もしかすると、この辺りにまだ証拠とか残ってるかも」


『……おい、何を考えているんだお前は!』


 焦りを露にするハナコとは対称的に、広崎ひろさきくんや風晴かぜはれさん達の顔は分かりやすくニンマリと歪み始める。


「そうか……確かに、ここはまだほとんど荒らされた時のまま……!」


「即ち、おマヌケな犯人の正体を突き止めるための手がかりが、まだここに眠っているかもと……そう言いたいんだねぇ、ワトソン君!」


 目論見もくろみ通り、エサに食いつく二人。"犯人探し"という格好の面白ネタをぶら下げれば、二人は確実に食いついてくれるはず……僕の読みは、ものの見事に的中した。


『……一体どういうつもりだ? 彼らに犯人探しのことをバラすなんて』


『別に、犯人を探すこと自体は僕の役目じゃないしさ。 広崎ひろさきくんや、他の人たちに手伝ってもらって犯人を見つけて、それから接触した方が効率が良いかなって。 ……それに、探偵ごっこが好きなのは、何もハナコだけじゃないってこと』


『私はそんなこと一言も言っていないだろう!』


『あはは、ゴメンゴメン。 でも、これも人間心理の応用なんだ』


 学校の内外で事件が起きた時、クラス内で犯人探しが異様に横行した経験はないだろうか? 学生に限らずとも、人は何かにつけて"犯人"を探したがる。そこには、自己保身だったり、誰かを裁きたいという思いだったり、白黒つかない状況をハッキリさせたいだったり……色んな種類の本質が隠れている。これこそが、



『……あぁ、はいはい。 要するに人間は犯人探しみたいな義賊的行為や私刑リンチが大好きだってことだろう? 分かったから、とっとと自分の仕事を遂行しろ』


 うぅ、今良い所だったのに…………。

 心理学解説さえ邪魔され、いよいよ心の中でさえ自由に話ができなくなってきた。精神騎スピリットも、鼻の先をグキィッ! と折られたみたいな謎のダメージを受けて倒れている。



「馬鹿馬鹿しい……大体、もう先公やら生徒会やらが粗方調べてんだろ。 俺らが今さら証拠探ししたって、何も出てこねぇんじゃねぇのか?」


 こういうのには乗らないタイプらしい小竹こたけくんからツッコミが入るが、すかさず広崎ひろさきくんが、


「いいや、先生や生徒会の調査は、良くて"聞き込み調査"止まりだろう。 先生たちは、『怒らないから、犯人は正直に名乗り出なさい』のスタンスだったからな」


 へぇ、そういう感じなんだ……と感心していると、風晴かぜはれさんも加勢してくる。


「そ・れ・にぃ……もし先生たちが先に犯人見つけちゃったら、私たちにはその正体が明かされず、多分そのまま終わっちゃうんだよ? だから、真相を目の当たりにするには、私たち自らが動くしかないのだよ! 小竹こたけ少年!」


「お、おぅ……」


 流石の小竹こたけくんも、風晴かぜはれさんに詰められると弱いらしい。このまま小竹こたけくんも巻き込めたら、調査の目としては十分だろう。これで、犯人を探し当てられる可能性はグン! と高まった。




「───何をヒソヒソと話しているんです? 無駄話までは止めませんが、キチンと手は動かして下さいね」


 僕らのちょうど正面から、大きめのシャベルを片手に持った霧谷きりやさんが近づいてきた。既に作業を進めていたのか、服の裾や頬に少し土がついている。


「おぅ! 実は今、俺たち四人で花壇荒らしの犯人を───ムグォッ!?」


 僕がギョッとするよりも前に、後ろから小竹こたけくんが広崎ひろさきくんの口を押さえ込んだ。


「……バカッ、学級委員のアイツに話したら、止められるに決まってんだろ……! やるならコソコソやんねーと、犯人探し自体できなくなっちまうぞ……!」


「んぐ……そ、そうか。 すまん」


「アッハハ、仲良いねーお主たち! ……あ、さっきのは気にしないでね、椿つばきちゃん! 私が友達から聞いた噂話のことだから」


「はぁ……それなら構いませんけど」


 機転を効かせた風晴かぜはれさんが誤魔化してくれたおかげで、何とか助かった。小竹こたけくんと風晴かぜはれさんは、"犯人探しは隠密おんみつに"のセオリーをちゃんと分かってくれているらしい。物分かりの良い二人のことだから、この後も何とかなるだろうけど、広崎ひろさきくんはちょっと注意しなきゃだな……。


 その後、小竹こたけくんは広崎ひろさきくんを連れて向かい側の掃き掃除に行ってくれた。その場には、僕と風晴かぜはれさんと、霧谷きりやさんの三人が残される。


椿つばきちゃんの方は、もう作業終わったの?」


「いえ、ちょうど応援を頼もうとしていたところです。 この機会に、花壇の土ごと新しくしてしまおうと、生徒会からのお達しがありましたので」


 風晴かぜはれさんと気さくに話す霧谷きりやさんを一瞥する。……正確には、彼女と彼女の足元の精神騎スピリットを同時に、だ。



霧谷きりや 椿つばき。 彼女にも注意を向けておけ。

 ───彼女は恐らく、『心此処に在らずメランコリック』の予備軍だ』



 ……つい先ほど、ハナコが言っていた言葉がフラッシュバックする。風晴かぜはれさんの時もそうだったが、ハナコは『心此処に在らずメランコリック』の予備軍を見抜けるらしい。しかし、僕の目に映る霧谷きりやさんの精神騎スピリットは、いつも通りの凛とした騎士らしい佇まいのまま。何もおかしい点なんて見当たらない。……本当に、彼女は『心此処に在らずメランコリック』の予兆がある人物なのだろうか?



「うへぇ、この暑い中よくやるよぉ……。 ……あ、椿つばきちゃん、ほっぺたに土付いちゃってる」


「え? ……あぁ、すみません。 実は、タオルを持ってくるのを忘れてしまいまして……」



「……あのさ、霧谷きりやさ……んんっ!?」


 意を決し、彼女とコンタクトを取ろうとしたその瞬間、事件は起こった。



 ……霧谷きりやさんが、頬についた土の汚れを拭おうと、服の襟を持ち上げたのだ。


 当然、伸縮性のある白いシャツはそのまま上へと引っ張られ……スラッと引き締まったお腹を露にしてしまっていた。

 少し蒸し暑い気候のせいか、彼女の肌は汗で微かに光っていた。その滑らかな曲線をスウーッと一滴の汗が滴る。その先には、可愛らしく窪んだ谷底……おへそが見えていた。今までに目にしたこともない、同年代の女の子の柔肌。その異様なまでに扇情的な魔力に、僕の頭は一瞬にしてショートしてしまう。



「……? 藤鳥ふじとりくん、どうかしましたか?」


「はひっ!? あ、いや、そのえと……!」


 自分から話しかけておいてテンバッてしまう惨めな僕の横で、僕の精神騎スピリットはガンガンガンガン! と高速で鐘を叩きまくっていた。


「ありゃりゃー、また剣悟けんごくんの女の子不慣れが発動しちゃったかな?」


「いや、そ、そうじゃなくて……そうなんだけどそうじゃないっていうか……!」


「? 一体何の話をしているんですか?」


 ど、どうしよう……今ので完全に話題がすっ飛んでしまった。風晴かぜはれさんの精神騎スピリット霧谷きりやさんの精神騎スピリットも、不思議そうに僕の方を見つめている。それが、余計に僕の冷静さを欠いてしまう。



「───霧谷きりやさ~ん! 持ってきたよ~」


 と、そこに新たな刺客が現れる。

 環境委員として手伝いに来ていた梓内あずさうちさんが、枕みたいなサイズの大袋を抱えてやって来たのだ。


「わ! 凛桜りおちゃん、それ何?」


「あぁ、これは花壇の土に撒く肥料だよ。 全部使う訳じゃないけどね」


 ……僕が今、梓内あずさうちさんのことを"刺客"と呼んだのには訳がある。

 袋を抱くような格好のまま、彼女は小走りでこちらへと駆け寄ってきていた。……あろうことか、その豊満な胸が袋の上に乗っかった状態で、だ。軽快に地面を蹴るその度に、彼女の身体全体が……とりわけその胸がポヨンポヨンとゴム鞠みたいに跳ねる。しかも、袋を抱えた状態のせいで、胸がグイッと強調されてしまっているため、その揺れが目を引くほど大きくなってしまっているのだ。

 あまりにも幸福な……もとい、衝撃的な光景を前にして、僕はまたしても固まってしまった。いつの間にやら、僕の精神騎スピリットの両目に、釘みたいなのがくっついている。


梓内あずさうちさん、ありがとうございます。 ひとまず、ここに置いておいて下さい」


「うん。 ……あれ、どうしたの藤鳥ふじとりくん? なんか、顔が赤いよ?」


「……あぁいえ、彼はさっきからずっとこの調子でして。 ……今日は暑いですから、熱中症などには気をつけてくださいね?」


 幸い、霧谷きりやさんも梓内あずさうちさんも、僕からのよこしまな視線には気づいていないようだった。内心ホッとするも、胸の動悸が止まらない。……というか、『華の三美女』って言われてる三人が僕の前に集結してるって、一体どういう状況!?

 ……と、とにかく落ち着こう。このままじゃ目的達成はおろか、また変なキャラ付けをされて悪評がつくというマイナス収支で終わってしまう。ここは冷静に。今はとにかく目的……そう、目的を達成することに集中だ。目的、目的…………




「───ち・な・み・にぃ……そういうエッチぃな視線は案外女の子にバレちゃうから、気をつけた方が良いぞ~少年?♪」



「………………へぁっ!?」



 突如、耳元に感じるウィスパーボイス。今度こそ、僕の精神騎スピリットはロケットのように天高く飛び上がった。


「かっ、かかかかかかかかか風晴かぜはれさん!!? いや、その僕はっ……!」


「あっはは、隠したって無駄だぜぇ~? だって剣悟けんごくん、顔真っ赤にして固まりながら、視線は一ヶ所に集中してるんだもん。 ……今、凛桜りおにゃんのオパーイに釘付けだったっしょ?」



 ニヤニヤと、まるで手玉にとるかのような上目遣いでからかわれる。一応配慮のつもりか、霧谷きりやさん達には聞こえないようにヒソヒソと話してくれてるのは助かるんだけど……でも、今このタイミングでの指摘は、僕の冷静さをより瓦解させていくだけだった。


「あと、さっきも椿つばきちゃんの思わぬへそチラにドギマギしておりましたよね~?」


「気づいてたの!? ……あ、いや、嘘。 今のナシ! 今のは違くて!」


「おやぁ、今自白したねぇ~? さぁどうする? 正直に認める? 健全な男の子の性欲エロスパワー、発揮したこと認めちゃう?」


「うぅ…………ご、ごめんなさい。 もう許して…… 」


 風晴かぜはれさんと、風晴かぜはれさんの精神騎スピリットに詰め寄られ、弱々しくそう呟くと、風晴かぜはれさんはプッと吹き出し、


「あはははっ! 冗談ですよ冗~談♪

 別に、男の子だったら普通っしょ? ……なのに、剣悟けんごくんってばいちいち面白い反応するから、ついイジりたくなっちゃって」


「か、勘弁してよ……」


「ははっ、ごめんちごめんち♪ ……でも、あんまりあからさまだと他の子にもバレちゃうから、気をつけたまえよ~?」


 いつも通りの気さくな笑顔で、風晴かぜはれさんは僕の色欲に許しを与えてくれた。正直、霧谷きりやさんや梓内あずさうちさんにバレてたら色んな意味で終わっていただろう。そういう意味では、バレたのが懐の深い彼女で良かったかもしれない。……とはいえ、性に取り憑かれて自分を客観的に見られていなかったのは事実だ。ちゃんと反省しないと……。



陽葵ひまりちゃん、大丈夫? そろそろ花の植え替え始まるよー?」


「おっと、あいあいさ~! 今行きまーす!」


 梓内あずさうちさんに呼ばれ、風晴かぜはれさんが花壇の方へと駆けていく。僕は、その場ですぅ、はぁ……と何回か深呼吸を繰り返した。


 一九八七年にダニエル・ウェグナーが提唱した、『皮肉ひにく過程かてい理論』というのがある。これは、何かを考えないようにしようとすればするほど、かえってそれが頭から離れなくなってしまう、というものだ。

 この理論に基づいて行われた『シロクマ実験』はかなり有名で、三つのグループにシロクマの映像を見せたあと、それぞれのグループに、「このシロクマを絶対覚えておいて下さい」、「このシロクマのことは覚えていても忘れても構いません」、「このシロクマのことを絶対に考えてはいけません」、という指示が出された。結果、シロクマのことを一番よく覚えていたのは、一番最後の「絶対考えるな」と指示されたチームだったのだという。……つまり、人は思考を排除しようとすればするほど、逆にその思考に囚われてしまう、というものなのである。



 ……僕の思考は今、思春期男子特有の"スケベな思考"に犯されてしまっている。考えるな、考えるな、考えるな……と呪文のように思考を繰り返してしまった結果、僕の頭の中からは"それ"が離れなくなってしまったのだ。

 こういう時は、さっき風晴かぜはれさんがやってくれたみたいに、"そういうものだ"と割りきって、受け入れるしかない。忘れたくても忘れられないなら、仕方ないと割り切る他ないのだ。……ただし、油断するとこのエロ思考はエスカレートしかねない。現に、"おっぱい"に支配された僕の脳内は、何の変哲もない普通の女子たちの見え方さえも変えてしまう。今もまさに、体操着姿の風晴かぜはれさんの胸に自然と目が吸い寄せられるのを、僕は必死に堪えているのだ。僕の足元でも、今精神騎スピリットは懸命に───




「…………ハッ!?」



 ……気がついた時には、もう遅かった。

 エロスの影響を受けまくった僕の精神騎スピリットは、ムラムラと怪しげな湯気を放出しながら、風晴かぜはれさんの方へとにじり寄っていた。その挙動は、まさに"吸い寄せられる"かのよう。何か良からぬ空気を醸し出しているのは、肌感覚で分かった。


 ……今思えば、この時点でもう冷静さは失われていたのだろう。別に、精神騎スピリットがどう動こうが普通の人たちには見えないのに、この時の僕は、それを完全に忘れてしまっていたのだ。



「ちょ、ストップ……!」


 風晴かぜはれさんの胸を目掛け、どこぞの怪盗三世みたいにダイブする精神騎スピリット。僕は、慌ててそれを止めようと手を伸ばした。バランスを崩し、僕の身体は大きく倒れる。


「……ほぇ?」


 結果、精神騎スピリットをすり抜けた僕の手は、空を切る……のではなく、むにゅんという柔らかな感触の中に包まれた。そして、目を丸くする風晴かぜはれさんと、そのすぐ近くにいた梓内あずさうちさんと、そして僕とがシルエットごと一体化する。



 ───ズドンッ!!


豪快な音が響いた。ボランティアに参加していた生徒全員の視線が、音のした方へと注がれる。薄く土煙が舞う中、そっと目を開いた僕は血の気が引いた。



 僕の伸ばした手は、風晴かぜはれさんの胸に。そして顔は、梓内あずさうちさんの両胸の隙間に。

 ……まさに、二人にサンドイッチされるような形で、僕は彼女らの上に覆い被さってしまっていたのだ。


「う、んん…………」


 幸い、二人の後ろには先ほど運ばれてきた肥料の袋があり、それがうまくクッションになってくれていた。が、問題なのはその体勢だ。音に驚いてこちらを向いていたギャラリーの視線が、次第に訝しげな視線へと変わっていく。「アイツ何やってんだ……?」的な。



「あ、ごごごごごめん二人ともっ! 大丈夫、怪我とかは───」


「…………藤鳥ふじとりくん」


「はひっ!?」


 僕の声に応じたのは、下敷きにされた二人とは別の声。……恐ろしい程に冷たいその声だった。

 ガタガタガタ、と不調なロボみたいな挙動で後ろを振り返る。西日をバックに黒くそびえ立つその姿は、僕の精神騎スピリットを凍りつかせるには十分すぎる威厳と強大さを物語っていた。


「これは一体どういう状況ですか?」


「いや、違うんです! これは、その……じ

事故なんですっ! 事故っ!」


「そうですか。

……少しお話したいことがあります。 この後、一緒に一年二組の教室へ来てもらえますか?」



「…………………………はい」


 ……断れるはずもなく。

 すっかり冷えた頭をガックリと垂れ下げながら、僕は彼女の命令に従うしかなかった。



『───っと。 ようやく私の声が届くようになったみたいだね。

……さて、剣悟けんごくん。 今から私が君になんて声をかけるか、もう分かってるよね?』


 身の痛む静けさの中、久方ぶりにハナコの声が頭に響いた。飄々ひょうひょうとした声ながら、そこにはゾクリと身の毛をよだたせる怖さがあった。なんて声をかけられるか……そんなのもう分かりきっている。僕は覚悟を決めて身構えた。



『…………このムッツリド変態クズ童貞野郎』



 想像よりも五割増しでキツいお言葉。それでも、今の僕はそれを甘んじて受け入れるしかないのであった。




***


「───さーてと。 もう頃合いかな?」


 屋上。

 給水タンクに光が遮られ、ちょうど影になったその場所に、彼は溶け込むように座っていた。

 ふらふらと足を揺らすその真下では、今まさに花壇の修復作業が進行している。ボランティアの参加者、部活動に勤しむ生徒、教員……それら全てを、彼の虚ろな瞳は見下ろしていた。


 カシャン、とフェンスに背が当たって音がする。光の届かないその空間で、ただ一つ……彼の首にかかったオレンジ色のペンダントだけが、煌々とした光を内包していた。



「そろそろ…………仕掛けた"毒"が回りはじめる頃だ」


 


つづく


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