第二章②『花に嵐』
昇降口の横にある花壇。見覚えはあったけど、正直、形や様子は全く思い出せない。僕にとって……いや、恐らく僕を含めたクラスメイト全員にとって、学校の花壇はそれぐらいの認識でしかなかったと思う。
建物の南側に設置されている花壇は、校門側から見るとちょうど死角になっている。だから、下駄箱までのルートを最短距離で進むと、その存在を認識できないのだ。それこそ、"花壇を見に行こう"という意識を持っていないと、その存在を忘れてしまうだろう。
その花壇が、何者かによって荒らされていた。
「用務員の方が最後に手入れをしたのが土曜日の夕方。 そこから日曜日を挟んでの昨朝ですから、いつ誰がやったかというのは分かっていません。 ……問題は、こうした事件が起きてしまった事実そのものです」
「あの花壇って……確か、四月にも一回荒らされたって事件あったよね……?」
「ええ。 そして、その際も犯人は見つからず終いでした。 その後、環境委員を中心に柵や看板の設置といった対策が講じられた訳ですが、どうやら無駄になってしまったようですね」
ため息混じりに答える
『ハナコ……知ってる? その、前の事件のこと』
たまらず、頭の中でこっそりとハナコに声をかける。さっき風晴さんは"四月"と言っていたから、その事件は僕が転校してくる前に起きたものなのだろう。当然、そんなものを僕が知る由はない。
『風の噂程度には、ね。 入学式が終わってすぐの頃に、
『
『話の腰を折るな馬鹿。
……それで、全校集会まで開かれて犯人探しが始まったんだけど、結局手掛かりも何も見つからず、事件は風化していった。 今回の一件は、その矢先の出来事だった訳だね』
なるほど……じゃあ、今回のは二回目ってことか。同一犯なのか模倣犯の仕業なのか、って所はまだ分からないけど、随分悪趣味だな。けど、一体誰が何のためにそんなことをしたんだろう……?
一つ考えられるとすれば、ストレスによる"破壊衝動"……だろうか。簡単に言えば、イライラして何かに八つ当たりしたくなるという、あの衝動だ。
『……あぁ、確かにその可能性はあるね。 つまり、この事件の犯人を見つけ出せば、もれなく『
ハナコが口を挟む。僕は、ちょっと顔をしかめながら、
『……別に、そんな打算的な考えで言った訳じゃないよ。 あくまで推論だし、今のところ何も証拠はない訳だし。 ……というか、思っただけでまだ言ってないし』
話が早くて助かる部分はあるけど、やっぱり考えがまとまりきっていない段階で心を読まれるのは、どことなく気持ちが悪い。あまり先走って色々考えないようにしないと……と、クラウチングスタートの構えでピクピクする
「とにかく、この件については現在生徒会を中心に調査中です。 もし、皆さんの中に何か知っているという人がいれば、学級委員である私に報告してください。 勿論、通達者に関しての守秘義務は徹底します。 誰がどんな情報を流した、といったことは一切口外しません」
っと、いけないいけない……まだ話の途中だった。皆の前で、ハキハキと話を進める
黒縁のメガネをキラリと光らせ、首もとぐらいまで伸びた外ハネの黒髪(ミディアムヘア、っていうんだっけ?)を揺らす彼女。制服の着こなしもカッチリしていて、真面目な印象を受ける。また、落ち着きのある声のトーンや、無駄のない一挙一動なども、彼女の威厳を際立たせている。
いや、実際のところ彼女は、見た目も心もしっかりとした人物なのだろう。それは、僕にしか見えない彼女の精神……もとい、彼女の
「…………あの、
「ねぇ、
まぁ、心の強さ・弱さなんてものは人それぞれだし、先天的な影響というものも少なからずある。だから、スタート時点から強さに差があるというのも一部致し方なく
「───
「……へぁっ!?」
突然、僕の右腕が制服の袖ごと引っ張られた。不意を突かれて、思わず変な声を上げてしまう僕。近くの席にいた数名がチラッとこちらを見た程度で済みはしたが、驚きと混乱でまだ状況を飲み込めない僕と僕の
腕を引かれた方向。まだ何かに引っ張られているような感覚が残る右腕に視線を移すと、そこには確かに、僕の腕を掴む別の手があった。……そして、その手をたどるように視線を上げていくと、そこには隣の席のクラスメイト───
「あ、やっと気づいてくれた。
……いきなり引っ張っちゃってごめんね。
「え……嘘、ずっと呼ばれてたの?」
「うん、呼んでたよ。 小声だったから、気づきにくかったかもしれないけど」
そう言って微笑む
彼女はクラスの中でも特に"高嶺の華"的な意味で人気の高い女子だ。
『スケベ野郎』
……なんか聞こえた気がするけど気にしないでおく。
誰にでも別け隔てなく優しくしてくれる
ふと、彼女の足元に目をやる。僕の
森の妖精みたいな、ライトグリーンの長いローブを頭から被り、肩には大きな弓と矢筒を背負っている。誰がどう見ても"弓兵"って感じの、分かりやすい見た目だ。しかし、そこに攻撃的な印象は全くなく、逆に彼女のイメージに近い優しい感じの雰囲気が見てとれる。よく、先っぽにハートの付いた矢を飛ばす天使のビジュアルとかを見かけたりするけど、
「えっと……どうかしたの?」
また一人の世界に入ってしまう前に、
「あのね……私、今さっき教室に着いたばっかりなんだけど、
あぁ、そういう事か。
そういえば、
「それが……昇降口横の花壇が、何者かに荒らされてたらしくて」
そう言うと、
「うーん……そういえばさっき、立ち入り禁止のロープが貼られてたの見たかも……。 あ、実は
「そうらしいね。 で、今は
僕が尋ねると、彼女は再び「うーん……」と唸りながら斜め上の天井辺りを見つめて、
「私も、前の事件のことは知ってるけど、今回のは今さっき知ったばかりだから……。 それにしても、一体誰が……」
「───
「「は、はいっ!?」」
鋭い声で名前を呼ばれ、二人でビクッ! と肩を震わせて振り向く。目の前では、眼鏡に手を添えた
「ちゃんと私の話を聞いていましたか?」
「あ、いや、その……ごめんなさい……」
周りのクラスメイト達の視線も突き刺さってくる。あと、「アイツ、隣の席だからってまた
「
「そ、そうそう! そこまでの話はちゃんと聞いてたから!」
「……そういう事なら、別に構いませんが。 では、改めて伝達しますね」
そう言うと、
そして、
「───本日の放課後、生徒会と環境委員会を中心に花壇の修復作業を行います。 もし、ボランティアとして参加してくれる人が居たら、放課後、ジャージに着替えた後に昇降口前に集合するようにしてください。 ……多くの方の協力を期待しています」
***
「───で、そのボランティアに参加してみようと」
「うん、まぁね。 ……あ、着替えもうすぐ終わるから、あとちょっとだけ待って」
授業を終え、僕はジャージを持って開かずの倉庫に来ていた。花壇修復ボランティアは、あと二十分後ぐらいに始まる。それまでにジャージに着替えておかなければいけないのだが、帰宅部まっしぐらの僕には、運動部の生徒が使う更衣室が使えないのだ。(使えないというか、気まずくて入れないってだけだけど) あと、トイレで着替える、っていうのもちょっと気が引けたし。
「……だからって、わざわざ立ち入り禁止になっている倉庫に入ってまでここで着替えをする必要はないと思うけど? それに、私に対しての配慮もして欲しいものだね」
いつも通りの呆れた声で、ハナコが悪態をつく。僕らは今、倉庫内のアルミ製の棚を隔てて、背中合わせのような形で会話をしている。僕がここで着替えると言ったので、ハナコが気を遣って向こうに行ってくれたのだ。
「気を遣った訳じゃない。 男の着替えなんて見たくないという、純粋な嫌悪感だ」
「はいはい、悪うございました……」
上着のチャックを閉め、「終わったよ」と一声。仄暗い部屋の中で、返事代わりのため息が返ってきたかと思うと、棚の向こうからハナコがスッと顔を出した。
透き通るような白い髪をフワッと揺らし、色褪せた制服を薄明かりに光らせる。その一瞬一瞬が、相変わらず絵になるような美しさを纏っていて見惚れそうになってしまう。が、さっきまでのムカつく言動を思い出し、
ボランティア開始まで、あと十五分。早めに着替えを済ませておきたかったのは勿論だけど、僕がわざわざ倉庫にやって来た理由はそれだけじゃない。ボランティアの前に、ハナコと一度話をしておきたかったのだ。僕は、薄く埃を被ってしまった袖をパンパンと払いながら、
「もし、今回の事件の犯人が学校の生徒で……そして、『
脱いだ制服を畳んで、ナップサックの中に放り込みながら言う。ハナコも、この点に関しては僕と同意見らしく、何も口を挟まなかった。
「結局のところ、犯人探しには生徒会やら教員やらが動くことになるだろう。 そうなったら、私たちが出る幕はなくなる。 私達が事件に介入できなくなる前に、少しでも手がかりを見つけないとね」
「うん。 ……まぁ、まだこの件が『
すると、ハナコはフッと口角を上げ、
「でも、君の頭の中には、そう思うだけの根拠が……何か"引っ掛かっている"ことがある。 ……違うかい?」
ずばり、図星を突かれる。普段テレパシーみたいに会話している時でさえ、心を見透かされるのだ。ましてや、対面した状態で、そして物理的に棚の端に"引っ掛かって"揺れる僕の
「まぁ、大したことじゃないし、ただの憶測でしかない部分もあるんだけど…………」
ハナコの愉快そうな眼差しから逃げるようにして、僅かに目線を下へ向ける。
「───
「へぇ……そう考えた理由は?」
面白い、とでも言いたげな表情で聞いてくるハナコ。わざわざ聞かなくても、僕の心を読めば分かるクセに。……まぁ、考えをまとめるという意味でも、声に出して話しておくのは良いことかもしれない。
バッ! と服をはだけるような格好をする
「今朝の反応だよ。
「挙動? ……私には、普通にキミと話をしているだけに見えたけど」
ハナコが尋ねるが、僕は小さく首を横に振る。
「口や顎を手で隠すような仕草。 花壇が荒らされたと伝えた時の、一瞬の硬直。 間延びした返事。 右斜め上への視線移動。
……これらは全て、行動心理学に基づく"嘘をついている時"のサインなんだ」
嘘をついたり、隠し事をしたりする時の後ろめたさや不安。そうしたものを人は誤魔化そうとする。しかし、表情やしぐさ、動作などといった非言語コミュニケーションまでは、なかなか隠せない。即ち、人の感情というものは、そうしたパラ・ランゲージによって表出されることが多いということだ。そして、
普段、
それに……と僕は続ける。
「
「……しかし彼女は、花壇に立ち入り禁止のロープが貼られていたのを今朝見たと証言している、か……。 確かに、不可解な点はいくつかあるようだね」
どうやら、ハナコも僕の言い分を納得してくれたらしい。心理学的知見と、事実に基づいた推論。その両方を元に説明したおかげだろう。ハナコとの会話のコツも、だんだんと掴めてきたような気がしてきた。
「じゃあ、犯人は
「そこまでは分からないけど……多分、そうじゃないとは思う。
だって、あの
「いきなり説得力に欠ける説明になったな……」
「うぐっ……いや、だから、何か隠しているっていうのは、『犯人を知っているけど、敢えてそれを隠している』とか、『誰かを庇っている』とか、そういう方面なんじゃないか、ってこと。 そっちの方がしっくりくるでしょ?」
強引に話を通す。ハナコは呆れた表情のまま、「まぁ、それは一理あるか……」と呟いてくれた。
「とにかく、事件のことを調べるなら、
手元のスマホで時刻を確認する。ボランティアの開始まで、あと六分。ここから花壇のある昇降口までは、走れば一分弱で到着するはずだ。もうそろそろ出発しなければいけない頃だろう。
「なるほど……まぁ、事件の調査は君に任せるよ。 今回の大きな目的は、犯人と思しき人物に『
「……要するに、手伝ってくれないってことだよね?」
「そういうことになるね。
……ただ、その前に私からも一点だけ忠告をしておこう」
制服でパンパンになったナップサックを手に取ろうとした所で、ハナコの口から意味深な言葉が飛ぶ。相変わらずの不敵な笑み。ハナコがこういう笑い方をする時は、何となく嫌な展開が待ち構えている予感がするのだ。
オレンジ色に暮れ始めた空からの光が、倉庫の扉の窓からうっすらと僕らを照らす。影に隠れた目を細め、ハナコは静かに口を開いた。
「
───彼女は恐らく、『
つづく
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