第二章
第二章①『新たに迫る不穏』
コインに表と裏があるように。
人間の心にも、表と裏がある。
オーストラリアの精神科医、ジークムント・フロイトが提唱した『無意識』という概念はかなり有名だけど、それもある種の「表と裏」だと言えるだろう。僕たちはよく、「つい、無意識でやっちゃいました……」みたいな感じで『無意識』という言葉を使う。言うなれば、『意識』の反対言葉としての『無意識』だ。
もう少し具体的に言うと、意識は『自我』、無意識は『エス』というようにも言い換えられる。『エス』は、人間の心が原初的に有している衝動的な感情、本能のことだ。そして、『自我』はそれを抑制する手綱に喩えられる。このようにして、人々は本能と自我とのバランスを上手に保ちながら社会で生活をしている。そう、大事なのはバランス。「表と裏」というのは、そういう絶妙なバランスの上で成り立つ世界なのだ。
…………で、結局何が言いたいのかというと。
先々週から
「おーっす! おはよう、
「あ……おはよう
「ったり前だ! いいか、俺みたいな体育会系は、朝から元気に満ち溢れてるんだぞ。 お前も体育会系になってみたらどうだ?」
「あはは……それは、ちょっと遠慮しとこうかな」
朝の八時ちょい。
気だるそうなクラスメイト達が次々と教室に入ってくる中、僕は一人、自席でちょこんとすまし顔をしながら座っていた。
六月末にもなると、もうクラス内でそれなりのコミュニティというものが形成されている。気の合う友達を見つけたり、はたまたグループで遊びに行ったりして。そうして少しずつ小さなコミュニティが出来上がっていく中で、それが段々と一つの大きなコミュニティとして固まってゆき、やがて"絆"と言われるような関係が築かれていく。要は、今がその前段階の時期にあたるってことだ。
「つーかお前、折角早く来てんのに、ボーっとして何してんだ? 友達と話したりしないのか?」
「へ? あーいや、その……心理学の勉強しようにも、ちょっとアウェーな空気感でテキストを開きにくいというか……。 そもそも、話せる友達とかもまだいないというか……」
「あー……いや、何か悪かったな……」
そして、転校生である僕は、そうしたコミュニティ形成に一歩出遅れてしまっている。
そんな訳で、今の僕は、大人しくすました態度の「表」の顔を駆使してクラスに馴染んでいる。全く会話が弾まない僕に愛想を尽かしてか、
しかし、そうして誤魔化そうとしても、僕の本心……すなわち「裏」の顔の主張はある訳で。普通なら見てみぬフリをすれば良いソレを、僕は目の当たりにせざるを得ない境遇にいた。というのも…………
(……あぁ、今僕は心を律しようとしてるんだな。 そしてフラついてる…………)
僕の足元。鞄をかけている所のすぐ横の所に、僕によく似た小さな生物が佇んでいた。具体的には、ヨガの「立ち木のポーズ」みたいな格好をして。
この生物の正体は、
……何も知らない人にそう説明すると、十中八九病院に行くことを勧められそうだけど、決して幻覚とかではない。このキャラ……もとい、
けれど、さっき
ちなみに、こうして脳内で情報を整理するというのは、“感情のラベリング”と呼ばれる行動に似ている。要は、感情を言語化することでストレスに対処したり頭の中を整理したりできるのだ。だから、こういう心中での独り言は重要な意味を持ってて…………
『───いつまでベチャクチャ喋っているんだい?
その時だった。
突如として、僕を蔑むような冷たい女の子の声が響く。正確に言うならば、僕の頭の中にのみ、だ。脳内会話に割り込むようにして入ってきたその声は、脈絡もなしにいきなり僕をけなしてくる。これもまた、何も知らない人に説明すると、正気を疑われそうだけど……。
ため息を心の中だけでつきながら、僕は語りかけてきた声───ハナコに言った。
『……急に話しかけるの止めてって前にも言ったでしょ。 あと、一日の始まりの挨拶とかなく、いきなりディスりから入るのも止めてってずっと言ってるよね?』
『フンッ……私はずっと君に声をかけていたとも。 気づかない君が悪いね。 ……というか、君の独り言はいつも長いんだよ。 もう少しコンパクトにまとめてくれ』
『はぁ……相っ変わらず辛辣……』
ハナコとは、この学校の一角にある謎の倉庫で出会った謎の少女だ。
彼女は、初めて出会った時に僕の心を奪い、繋げた。……なんかこういう言い方すると、僕がハナコに魅了されたみたいで癪だけど。要するに、心と心が繋がったことで、テレパシーみたいに会話する力を得たという訳だ。だからこうして、ハナコはその場にいなくとも僕に声をかけることができる。高みの見物といった具合に、安全圏から僕にガヤガヤと小賢しく指示してきやがるのだ。
『……訂正が二点。
私が君を利用していると言ったが、この契約は私と君とのギブアンドテイクで成り立っていたはずだ。 学校内の生徒たちの心を救いたい、と声高らかに宣言したのは、他でもない君だろう? それと、私の指示は
……ほら、こんな風に。
僕が一人心の中で喋っているつもりでも、ハナコはそこにツッコんでくる。これじゃ、気も休まらないってもんだ。
きっと反論しても水掛け論になっていくだけだし、何より周囲で不思議そうに僕のことを見ているクラスメイトの視線がそろそろ痛くなってきた。チクチクと謎の刺し傷を負う僕の
と、僕が一人悟りの境地に達していると。
タッタッタッ……と軽快なリズムの足音が教室へと近づいてくるのが聞こえてきた。チラホラと、談笑に耽っていたクラスメイト達が顔を上げる。皆の視線が音のする方へと向けられる中、ズバァン! と、教室の扉が開け放たれた。
「───おっはよーぉ諸君! 今日も一日、頑張ろーではないかー!」
このクラスには、
明るい金色のショートボブを揺らしながら、にこやかな笑みを振り撒く
と、その視線が不意に
「あ! おはよっ、
「え、あ、お、おはよう
「んもぉ~、何でそんな緊張してるのさぁ~。 ほれほれ、アタイとアンタはんとの仲でっしゃろう? もっと無礼講で行きましょうやぁ」
「いや、どこの人? ……というか、別に緊張してる訳じゃないから。 ただちょっと、まだ人と話す準備が出来てなかっただけで……」
「あっはは! 準備って何なのさ~! 相変わらず面白いよね、
そう言って、バシバシと僕の背中を叩く
と、
『……元気そうだね、彼女』
僕の思考を察知したハナコが、しんみりとした声で言う。
彼女は以前、こうして笑顔を浮かべることすら儘ならない程に、心が壊れてしまったことがあるのだ。『
「……
「へっ!? い、いやいや大丈夫だから! 何も、何も考えてないよ!?」
いかんいかんいかん!! 何を思い出してるんだ僕はっ!
僕の足元でバインバインとボールのように跳ね回っている
「んー……前から思ってたんだけどさ。
「……へぁっ!?」
「あはっ、その反応はもしや図星ですかにゃ? まぁ、たまーに饒舌な時もあるからアレだけどぉ~。 んふふ~、
「いやっ、そのっ! そ、そうやって勝手に決めつけるのはど、どうかと思うんだけどなっ!」
「ふむふむ、それは確かに。 ………って、ハチャメチャに動揺しとるやないかーい!」
ズビシッ! と、
頭の片隅から聞こえてくる、クスクスという笑い声。それにひっそりと苛立ちを覚えつつ、僕は頭の中で、再びハナコに話しかけた。ちょっと、気になることがあったのだ。
『あの、さ。 ちょっと聞きたいことがあるんだけど……』
『うん。 何かな?』
ハナコが聞き返す。
『あの……今とかさ、めっちゃ平和だよね』
『うん。 まさに穏やかな日々だね』
『いやその……
そう……
『そりゃあ、見つからなくて当然だろう。 現に君は今、『
『うっ…………』
『まぁ、精神の問題というのは目に見えないからね。 一応、今の君はそれを可視化する特別な力を得ている訳だけど……それでも結局、異常性を発見するためには"目を凝らす"しかない。 生徒一人ひとりとカウンセリングするか、君が生徒全員に片っ端から声をかけていくとかしない限り、早期発見は難しいと思うよ?』
『全員……全員かぁ……』
『なに、別に私も鬼じゃない。 一朝一夕で達成できるような目標でないことは、私だって重々承知さ。 ゆっくり取り組んでくれたら良い』
ハナコはそう言ってくれたけど、でも遅かれ早かれやっていかなきゃいけないんだという事実は変わらないのだ。今更だけど、僕はハナコととんでもない契約を交わしてしまったのかもしれない。途方もないミッションにうちひしがれながら、
「どーしたの? 今度はおっきなため息ついちゃって」
僕の顔を覗き込み、
「あぁ、ごめん。 その……ちょっと将来のことを憂いてた」
「ほぇ? ……あー確かに、女の子と上手に喋れないちゃんは将来色々困るだろーねぇ」
「あ……うん、そうだね。 課題山積みだね僕……」
ネガティブに陥ってしまうのは良くないこと。分かってはいるけど、いろいろと心配事が絶えないこの状況では気持ちが沈んでしまうのも避けられない。心理学的にも、こういう反応は自然なのだ。
(それに……)
『───そうだねぇ。 君はもうクラスメイトの前に顔を出す資格もないイタいヤツになっちゃった訳だ』
その中に、聞き慣れない謎の男の声があった。それは、彼女を傷つけ、いたぶり、心を抉るような言葉ばかりを連ねる……そんな最悪な声だったのだ。
(あの声、一体誰だったんだろう……? ……もしかすると、この学校に
『───裏で糸を引いている"黒幕"の仕業かもしれない。 ……君はそう考えているんだね?』
僕の心を先読みしたハナコが、そう言い当ててくる。クラスメイトとの会話に参加している僕の代わりに、
『……風晴さんの
『そうなると、事情がかなり変わってくる。 君のの目的は、何故かこの学校内で広がっている
『対処、か……説得でどうにか出来るような相手じゃない気はするけど』
『良いんじゃないかい? 生徒全員のカウンセリングなんかより、よっぽど先が見える目標じゃないか』
楽観的な言葉を並べるハナコだったが、事がそんな単純なものではないということは、彼女も重々承知だろう。黒幕の正体は誰なのか。何が目的なのか。そもそも、本当に黒幕なんて存在するのか。
転校して間もない僕も、倉庫の外に出られないというハナコも、圧倒的に情報不足だった。
『でも……』
ふぅ、と息を真っ直ぐ吐き出しながら、ハナコに言う。
『とにかく今は、目の前のことを一つずつこなしていくしかないよね。 黒幕探しじゃなく、
僕の言葉の後、しばらくハナコからの返答が無かった。どうしたんだろう? と思った矢先、クスッというハナコの優しげな微笑の声が微かに聞こえた。
『……あぁ、その通りだ。 君のやるべき事は変わらない。 元々、そういう契約で動いているんだからね。
ようやく頼もしくなってきたじゃないか』
『だから、一言多いんだってば……』
スケールの大きな話ばかりが頭を渦巻いて、僕の
「───もしもーし? もしもーし? 私の声は聞こえてますかどうぞー?」
「……へっ? あ、ごめん
「全くぅ、油断するとすーぐトリップしちゃうよねぇ。 で、さっきの双生児ソーセージの話の続きだけど……」
「ごめん、本当に何の話?」
危ない危ない……慣れてきたと思って油断してた。ハナコとの念話に意識を向けすぎると、いつもリアルの方の会話に置いていかれてしまうのだ。"よくボーっとしちゃう人"という認識がクラスメイトにも広がっているおかげか、最近は何とか誤魔化せてはいるけど。でも、クラスに馴染むためには、やっぱりちゃんとリアルの会話にも意識を向けなきゃな……
と、
「───皆さん。 ホームルームの前に、少し時間をいただけますか?」
ザワザワと日常会話で満たされる教室一帯に、凛とした声が通る。その瞬間、クラスメイトの話し声は、波の引いた水のようにピタリと止んだ。
僕と
「昨日の委員長会議で出た話を、皆さんにも共有しておく必要があるかと思いまして。 ……一度、席についてもらえますか?」
……でも、それ以外の理由もあるように思えた。僕を含めたクラスメイト達の
心理学に精通していなくても、皆がどことなく不穏なその空気を感じ取れたことだろう。
「少し、残念な発信にはなります」
かくして、その嫌な予感は的中することになる。
「…………昨日の朝、昇降口の横にある花壇の花が、何者かによって荒らされているのが発見されました」
つづく
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