第一章⑨『失感情症《アレキシサイミア》』
「
『ねぇ、これって一体……』
咄嗟に、ハナコに念話で尋ねる。『
『これは、まさか……いやしかし、こんな症状は初めて見た……』
『……ハナコ?』
ブツブツと、独り言のように呟きつづけるハナコ。僕の呼び掛けを完全に無視して、一人考え事に没頭している様子だ。彼女でも見たことがない症状、か……一体
「ん、どうしたの剣悟くん? 私のことなら、もう気にしなくて大丈夫だよ?」
と、
「で、でも……」
一体、彼女にどう声をかけたら良いのだろう。恐怖心と戸惑いで尻込みする僕の背中を、
「ほら、ちゃんと謝るって決めただろ? 俺たちはもう
ケロッとしている、か……確かにそう見えなくもない。というか、
「…………」
とにかく、彼女に謝罪をしなければいけないのは事実だ。
「ごめん、
誠心誠意の言葉で謝罪する。これは嘘偽りのない、僕の本心だ。
これで、
……けれど、
「んもぉー、硬くなりすぎだってばー! 私は大丈夫だから、もう気にしないでー!」
彼女の返答は、それだけだった。
「あぁ良かった、許してくれた」と、普通の人なら安堵する場面なのだろう。しかし、彼女に貼り付いた闇は消える気配もなく、終始崩れない笑顔がむしろ不気味に感じられた。彼女の"大丈夫"は、これっぽっちも大丈夫じゃなかった。
「これで一件落着だな。 さぁ、皆自習に戻れ。 授業時間はまだ終わっていないぞ」
はーい、と気の抜けた返事をしながら、クラスメイトがそれぞれ席へと戻っていく。すれ違いざまに見えたクラスメイトらの
「
依然として闇に飲まれたままの彼女の
***
「はぁ…………」
そして、長い長い転校初日が終了した。
帰宅してすぐ、ベットに身を投げた僕は、そのままの体勢で深いため息をついていた。なるべく穏便に、穏やかにクラスに馴染んでいこうと思っていたのに、いつの間にか学校の皆の心を救うなんて役目を任されて、それなのにクラスメイトと早速ケンカして、挙げ句の果てにはクラスメイトの一人が心に闇を抱えてしまって……。そりゃ疲れるのも無理もないよな……と自嘲気味に呟く僕の背中を、窓から吹き込んだ夜風がスウッと撫でていく。
あの後、僕たちは至って普通に残りの授業を受け、至って普通に終わりの会をして、それぞれ教室を後にしていった。自習時間中にかなりドタバタしたにも拘わらず、先生は僕たちを咎めたりはしなかったし、クラスメイトも、あの事件を自分たちから蒸し返したりすることは無かった。まるで何事も無かったかのように、皆が平然とその時間を過ごしていたのだ。一人悶々としながら、
「……それにしても」
ポケットから取り出したペンダントをジッと眺めながら、呟く。
唯一の頼みの綱であったハナコと、あの時以来会話が途絶えてしまった。というのも、別にケンカしたとかそういう訳ではなく、突然の事態にハナコも慌てていたらしいのだ。ブツブツと独り言を言い続けて、僕の呼び掛けに全く応答してくれなくなってしまった彼女は、終わりの会の途中で、急に僕に声をかけた。
『……すまない、一人で考え込んでしまっていたようだ』
『遅いよ……で、どうなの?
『ああ、普通じゃない。 ただ、私自身もあんなケースは初めてで……どう対処したものかと悩んでいたんだ』
そう話すハナコは、どことなく悔しそうだった。
『……あの闇は間違いなく、『
『
『……ああ。 それに、
そう言って、またブツブツと一人考え事にふけり始めたハナコは、今度はすぐに我に返り、
『……少し時間が欲しい。 いや、解決を時の流れに委ねようという訳ではないが、今はまだ情報が不足しすぎている。 すぐに彼女に働きかけるのは、かえって危険だろうからね』
『分かった。 僕も、自分なりに調べてみるよ』
その言葉を最後に、ハナコの声は頭の中に響かなくなった。今はこうしてペンダントを外しているため、ハナコの声も、
「僕も、何か出来ることをやらないと……」
使命感か、自責の念か、はたまた別の感情か。そんな、目に見えない力に背中を押されるようにして、僕は自分から机に向かっていた。身も心もヘトヘトの筈なのに、何故か嫌な気はしない。やっぱり、誰かのために何かをするって良いな……。そんな事を考えて、自然と笑みを溢してしまう自分がいた。
でも、悠長なことは言っていられない。今こうしている間にも、ハナコは情報集めに奔走しているだろうし、何より、
ピリリリリリリリリ……
「ん……電話?」
不意に、机の上に置いていたスマホが音を鳴らしながら震えた。手にしていた本を伏せて画面を覗き込むと、そこには懐かしい名前が表示されていた。すぐさま応答ボタンを押し、スマホを耳に当てる。
『あ、もしもし?
「
電話の相手は、僕が転校前に通っていた
『どうだった?
「あはは……そうだね、今日はちょっと色々あって疲れたよ」
『だろうな。 ま、転校初日なんてそんなモンだろうよ。 これから徐々に馴染んでいけば良い』
そんなモン、って言われてもなぁ……。 生徒の命運を託されたり、
『生活面で問題は無さそうだが……もし、心理学の勉強で行き詰まった時なんかは相談してくれよ。 独学では限界があるだろうし、ウチの学校で調べられるようなことだったら、俺がお前に教えたりも出来るからな』
「
『いいってことよ! 俺も、お前と一緒に夢を叶えたいって思ってるからさ』
アハハッ! と、二人で笑い合う。本当に、良い親友に巡り会えたものだ。電話越しでも、彼の
『それで、本当に困った事とかは無いか? 俺にできる範囲なら、相談に乗るけど』
「あ……いや、ありがとう。 でも、特に相談するほどの事はないから大丈夫だよ。 ほら、まだ転校初日だしさ。 相談しようにも、何から手をつけていけば良いか分からないような状態だし。 さっき言ってくれたように、これから徐々に馴染んでいかなきゃだしね……」
内容が内容なだけに、いくら
『……聞いてもいないのに詳細に話し出す。話題を変えようと必死になる。少しばかり挙動が不審、声も若干上擦っている。
……何か困ってるんじゃないのか? それとも、俺には言いにくい事か?』
「……あはは、流石だね」
一瞬にして見破られた。やはり心理学に精通している人間なら、こういう事には敏感なのだろう。
まぁ、無理に隠していても仕方がない。このまま一人で
僕は、
『……なるほど。 ずっと笑顔で「大丈夫」の一点張り、か……』
うーん……と低く唸る声と、パラパラと何かの本をめくる音が、スマホ越しに聞こえてくる。しばらく経ってから、彼は本をパタンと閉じて咳払いを一つすると、
『───可能性として挙げられるのは、
「あれきし、さいみや……?」
薄っすら勉強した記憶はあるが、よく思い出せない。困惑する僕に、
『
「感情が無くなるんじゃなくて、感情があってもそれに気づけなくなる、だったけ……?」
『あぁ。 つらい、悲しい、苦しい……そういった感情を押し殺して、過度にストレスがかかった状態が長く続くと、その状態を脳が"普通"と判断してしまう。 結果、ストレスが無い状態がどんなものだったのかが分からなくなり、自分がストレスを抱えているという事にさえ気づかなくなってしまう。 ケガを追っても、痛みを感じないからそれに気づかない。 ……それが、
なるほど……確かに
終始ずっと笑顔で、むしろ笑顔以外の表情を見せないぐらい感情を表に出さない。何を言っても『大丈夫』としか返さない。本音を話すというよりも、"はぐらかしている"ような感じ。……それらがもし、敢えて怒りや悲しみを押し殺していたのではなく、一周回って、自分の感情が分からなくなってしまっていたのだとしたらどうだろう。あれだけ
しかし……
「それって、先天的なものというか……発達障害やアスペルガー症候群とかに関係するような特性だったよね?
しかし、
『いや、怒りが突然現れるってのも
それに……と、
「コミュニケーション能力ってのは本来、自分の意思や考えをその場その場でちゃんと言える力があるのが前提なんだ。 聞く力とか伝える力とか以前に、自分のことを話すという意志がないとコミュニケーションはそもそも成り立たない。 ……お前から見て、
「あっ……」
僕の頭に、今日一日の
(
彼女はずっと、良くも悪くも"ふざけ続けて"いた。自分の本心を見せないように振る舞い続けていた。今日一日、たくさんの言葉を交わしてきたにもかかわらず、僕はまだ、彼女の本心を掴めていなかったのだ。
『……私が悩みなんて持っちゃ駄目なんだよ』
廊下で出会ったあの時、
『……あくまで推測だが、彼女は教室を出てから戻るまでの間に、感情表現を……「何で怒っていたかを皆に説明すること」を放棄しようという考えに至ったんじゃないかと思う。
教室を出てから戻るまでの間……確かに、その間は空白の時間だ。その僅かな時間に、
「どうすれば……」
ボソリと、呟く。
「どうすれば……彼女は、苦しみから解放されるのかな?」
ここからが本題だ。彼女の闇を取り除く為に、自分に何が出来るのか。それが知りたかった。真剣な声音で尋ねる僕に対し、
『そうだな……スタンダードにいくなら、やっぱり対人関係療法だけど……』
「基本は、うつ病の治療に近いって事?」
『そうなるな。 ……ただ、一日や二日でどうにかなるような話じゃないし、第一、それはちゃんとした精神科医がいて初めて出来る療法だ』
対人関係療法。これは、僕も知っている。その人の対人関係を軸にして、周りの環境を少しずつ変化させていくことで、感情を変化させていく精神療法だ。分かりやすく言えば、コミュニケーション力のリハビリって感じだ。
対人関係療法では『自己志向』と『協調性』を高めること。つまり、自己と自己、自己と他者といった関係を改善していく事が重要になる。その出発点として、患者は、自分自身の感情を見つめ直す必要があるのだが、その手助けをする役割を精神科医が担わなければならない。いわゆるカウンセリングである。
『ウチの高校の系列で、そういう治療を行っている病院がいくつかあったはずだ。 調べてみようか?』
でも、
「……いや、大丈夫。 僕がなんとかするから」
気づけば、そんな事を口にしていた。
『……何言ってるんだよ
「それでもっ! ……これは、僕がやらなきゃいけない事だから」
そう、これは僕がやらなきゃいけない事。
『そうは言っても……出来るのか? お前に』
心配そうな様子の
「出来るよ。 ……なんたって僕は、運命に導かれた存在だからね」
***
翌日。
澄みきった空の下、ゾロゾロと生徒たちが校門へ足を踏み入れていく。その人混みに紛れて歩くようにしながら、僕はそっとペンダントを首に回した。深呼吸する時と同じように、精神を集中させる。すると、僕の傍らにぼんやりと
『……おはよう、
ああ、と短い返事だけしか返せなかったのは、多分緊張していたからだろう。その緊張を感じ取ったのか、ハナコは何か話そうとしたのを止めて、少しばかり口ごもっていた。が、やがて意を決したように口を開き、
『昨日の件、私も幾らか調べてみた。 あの闇の量、あの急変っぷり……普通じゃなかったからね。 それで思い当たったのが…………"毒"だ』
『毒……?』
ハナコの口から飛び出したのは、昨日の
『君の
『あぁ、そういえば……』
『それと同様だ。 彼女の
毒か……確かに、
『でもさ、それってつまり……』
『ああ』
僕の心中に浮かんだ不安を読みとったのだろう。ハナコがゆっくりと告げる。
『
確証はないけどね……と、後から付け足すハナコ。でも、もしそれが本当だとしたら……故意であろうと無かろうと、僕はその人を許さない。
『……話が逸れたな。 今重要なのは犯人捜しではなく、彼女の治療だ』
『うん、そうだね……』
『君ももう分かっているとは思うが……治療にしろ決闘にしろ、彼女と会話をしなければいけないのは変わらない。 彼女を救うには、彼女の
覚悟は出来ているつもりだった。しかし、いざそれを意識すると、どうしても緊張を抑え込めない。僕の
『任せて。 ……僕が必ず彼女を救ってみせるから』
『……良い心意気だ。 君にばかり負担を押し付けてしまって、本当に申し訳ないと思っている。 ……が、これはやはり君にしか出来ない事だ。 だから……頼んだぞ』
『分かってる……これは、僕がやらなきゃいけない事だ』
そんな話をしている内に、教室へと辿り着いた。今日は道に迷わずに済んだようだ。教室の中では、クラスメイト達がお喋りをしていたり、今日提出の宿題をしていたり、スマホを弄っていたりと、皆が思い思いに時を過ごしていた。そして……
(……居た)
そんなクラスメイト達の中で、唯一、特に何かをする訳でもなくボーッと天井を見上げて動かない少女がいた。
ズンズンと、一直線に
「
彼女の視界を覆うように立ち塞がり、声をかける。彼女は、一瞬呆気に取られたような顔をしながらも、昨日のように薄く笑って挨拶を返した。
「あぁ、おはよう
『……おい、一体何をするつもりだ!?』
ハナコが呼び止める声も、クラスメイト全員から注がれる視線も、もう僕は気にしていなかった。
深く息をつき、
「
つづく
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