第一章⑧『黒い霧』
『
教室を飛び出し、一時間目の時みたいにあちこち廊下を駆け回っていた僕に、ハナコが脳内で声をかけてきた。授業中の教室のすぐ横で思わず「えっ?」と聞き返しそうになりながらも、寸前で堪えて、同じように脳内で聞き返す。
『何か用事? ……
そう。僕には今、行方を眩ませてしまった
しかし、ハナコはそんな事はお構いなし、といった様子で、
『いいから来い! ……君に、教えておかなければならない情報があるんだ』
その気迫に圧されたのか、あるいは、彼女の気迫から真剣な思いが読み取れたからか。僕は、それ以上ハナコ反抗することなく素直に『分かった』と告げ、彼女と出会った倉庫の方へと進路を転換した。
きっと、彼女もさっきの事件で負い目を感じているのだろう。僕と小竹くんの精神騎決闘(スピリットバトル)に気を取られ、
『あーもう長いんだよ説明が! いいから黙ってこっちに向かえ馬鹿が!』
『ちょっ……人がカッコいい感じに纏めようとしてる所に割り込むなよ! ……っていうか、やっぱ聞こえてたの!?』
『丸聞こえだよ、少しは学習したらどうなんだい? 全く……何が「責任という名のパズルのピース」だ、小っ恥ずかしいったらありゃしない』
『うわあああああ止めろぉぉぉぉぉ!!!!!』
死にたい! 今すぐ此処から飛び降りて死にたい!!
顔から火を出し、スコップを抱えてどこかの穴に入りたそうにしている
***
「ハァッ、ハァッ……お待たせ……」
「やぁ、お疲れ様。 ……そんなに息切れするほどの距離だったかな?」
「ハァッ……ランニングは……前頭葉を刺激したり……ハァッ、神経系に……良い影響を、及ぼしたりするから…………でも……ちょっと休ませて……」
肩で息をしながら、近くの椅子にドスンッと勢いよく座り込む。そんな僕の様子を、ハナコは足を組んで机に腰かけながら、相変わらずの態度で見下していた。今回ばかりは、流石に自分でも馬鹿だなぁと思う。こう、焦りとか恥ずかしさとか色んな感情が渦巻いてハイになっていたのだ。でも、こんなに無我夢中でダッシュしなくても良かったよな……。
「生憎、ここには麦茶も無ければ水も無い。 喉が乾いているんだったら、そこを出てすぐの水道に……」
「いや、お構いなく……それより!」
じんわりとダルさが残る身体をなんとか起こして、ハナコの方へと向き直る。さっきの全力ダッシュのせいで忘れかけてたけど、僕は今時間に追われている立場だ。五時間目の終了までは、あと三十五分しかない。「終了時刻十分前には戻ってこい」という霧谷さんの指示のことも考えると、現在僕に残されている時間は、あと二十五分だ。
「僕に教えておかなければならない、情報っていうのは?」
そんな時間に追われている身の僕をわざわざ呼び出してまで、伝えておかなければいけない事って一体何なんだろう?
(
そう、
「……そう、異常だな。 君の見たあの黒い霧のようなものは、『
……また心を読まれた。会話のペースが狂うから、なるべく対面してる時は口で会話して欲しいんだけどな……。
「あの黒い霧は、一体なんなの……?」
会話の仕方については目を瞑るとして、どうやらハナコが僕を呼び出した用件も、あの黒い霧についての事のようだった。『
「あれは、『
「ストレッサー……じゃあ、
「端的に言えば、そうなるな。 ……しかし、さっきも言ったけれど、あの量のストレッサーは常人が一人で抱え込めるような量じゃない。 病気レベルの能天気さか、あるいは病気レベルの我慢強さか……そのいずれかが原因でああなってしまったんだろうね」
「……」
ストレッサー。心理学や生物学上では、人間をはじめとした生物にストレスを与える要因となる、様々な刺激の事をそのように呼んでいる。その言葉がカバーする領域はとても広い。暑さ、寒さ、腹痛、擦り傷、きついジーンズの締め付け、タンスの角に小指をぶつけた時の痛み……などの外的要因を指す事もあれば、不安、悩み、怒り、イライラ、上司や母親のお説教、〆切が迫ってるのに終わらない課題……など、精神に働きかける内的要因を指す事もある。とにかく、人やその他の生き物のストレスの原因となる全てのものが『ストレッサー』と呼ばれるのだ。
「……元々、ストレッサーは
「ストレスが、放出……」
ハナコの説明を聞いてコクコクと頷きながら、僕も僕なりにストレッサーについて考えていた。
ストレスには、心に良い影響を与える『快ストレス』と、悪い影響を与える『不快ストレス』の二種類が存在する。人間が、筋肉にあえて負荷をかける事で筋肉をムキムキにするように、心にもある程度の負荷……すなわち、ストレッサーによる刺激が必要となるのだ。心がなんの刺激にも耐えられない程ひ弱じゃ、人間は社会で生きていけない。つまりストレスは、単に人間に悪い影響を与えるだけのものではないという事だ。
しかし、やはり人間の心はストレスによってひしゃげてしまうものである。それは、先述した『快ストレス』と『不快ストレス』のバランスが影響しているとされている。さっきハナコが言っていたように、人には、人それぞれのストレスの許容量がある。それがオーバーすると、心が病む原因になってしまう。いわば、筋トレのやり過ぎによる筋肉痛だ。一方で、ストレスの許容量が適正であったとしても、そのバランスが悪い場合……とりわけ、『不快ストレス』が多くなってしまった場合にも、同じように心が病んでしまう。これは……まぁ、腕の筋肉ばっかり鍛えすぎて他の筋肉が無い、みたいな……いや、それはちょっと違うかな……?
……とにかく、ストレスが原因による心的な悪影響は、そのほとんどがストレス過多及びストレスの偏りによるものである、という事だ。『
でも、もし
「黒い霧は恐らく、彼女の悪性ストレスが実体化したものと考えて良いだろう。 溜まりに溜まっていたストレスが、さっきの騒動で爆発したんだろうね。 ……ああなってしまったら最後、彼女が何かしらの精神病に近い状態に陥ってしまうのは時間の問題だ」
ため息混じりに告げられた、恐ろしい宣告。気づくと僕は、ブルブルと隣で震える
「……どうかしたのかい?」
「……僕が」
弱々しく開いた口から、思いがけず声が漏れる。その声すら、僅かに震えを伴っていた。
「僕が、
彼女が『
「……」
グシャグシャと頭を掻きむしる僕を、ハナコは何も言わずに見つめていた。……いや、声をかけたくなくなる程に、僕に失望しているのだろう。……そりゃそうだ。心眼石をたまたま拾って、意気揚々と皆を救う宣言をした奴が、こんなダメダメな人間だったんだから。僕の足元には、腰を直角に折った
思わず叫び出したくなり、その場にうずくまりかけたその時。僕の頭にトスン……と柔らかく何かが当たる感触がした。え……? と弱々しく声を上げながらゆっくり顔をあげると、そこにはハナコが立っていた。さっきまで座っていた机から降りて、呆れた顔で、僕の頭にやんわりとチョップをしていたのだ。
「なにを弱気になっているんだい? 火属性の
「でも……」
「
ハナコが、僕の頭の上に乗っけていた手を倒し、そのまま軽く頭を撫でた。ただそれだけの行為なのに、僕の頭をグルグルと渦巻いていた不安や恐怖といった感情が、すうっと抜けていくような感じがした。言葉は相変わらず辛辣だけど、どうやらハナコは、僕のことを慰めようとしてくれているみたいだった。
「何度も言ったけど、これは誰か一人に責任があるような問題じゃない。 君は君なりに、自分の過ちを取り返せば良いんだ。
……心配しなくても、『
「ハナコ……」
その言葉で、ズンと重くのし掛かっていたプレッシャーのようなものが、ゆっくりと消えていった。言葉一つで、こんなにも人は救われるものなのか。まるで、地上に降り立った天使を見上げるかのように、僕はただただぼんやりと彼女の姿を見上げていた。
「……ほら、いつまでボサッとしてるんだ? 早くしないと、
さっきよりも少し強めに、コツンと頭にチョップを入れられる。ハッとして起き上がる僕と同時に、僕の
「いいかい? 彼女を元に戻すには、彼女の
僕の
「しかし、ストレッサーを纏った
「あぁ。 ……それは、僕にしか出来ない事なんだよな」
「そうだ。 君にしか出来ない事であり……君がやるべき事だ」
ハナコの真剣な眼差しを受けて、僕も覚悟を決める。今は、後ろを向いて悲観的になっている場合じゃない。今、一番辛い思いをしているのは、僕じゃなくて
「私からの用件は以上だ。 後は、君自身でなんとかしたまえ。 ……決闘するにしろ寄り添うにしろ、その方法は変わらず「対話」だ。 君のやり方で構わないから、慎重に彼女の
「……分かった、やってみるよ」
力強く頷きながら、僕とハナコは示し合わせたかのように、ほぼ同時に立ち上がった。「じゃあ、そろそろ行ってくる」という僕の言葉も、「さぁ、早く行ってきなよ」というハナコの言葉も、もう二人には必要なかった。「心を通じ合わせた」二人は、やるべき事を確認し合うや否や、そのままミッションの遂行へと急ぐ。……まぁ、実際にミッションをこなすのは僕だけなんだけどね。
「……あ、そうだ」
用件を聞き終え、今まさに倉庫の扉に手をかけようとしていた所で、僕は動きを止める。
「……どうした? 何かどうでも良いうんちくでも思い出したのかい?」
「いや、ちょっと言い忘れてた事があってさ」
身体をくるりと反転させて、不思議そうに首をかしげるハナコの方へと向き直る。もじもじと身体をゆすり、むず痒そうにする
「教室で、怒りを皆にぶつけそうになった僕を宥めて説教してくれた事。 霧谷さんに追い詰められていた時に、『ファミリア・ストレンジャー』のことを教えてくれた事。 ……それから、さっき心が折れそうになっていた僕に、優しく声をかけてくれた事」
一つひとつ、頭の中で思い出すようにしながら、言葉にして整理する。こんな短い時間の中で、僕は何度となくハナコに助けられた。今はまだ、彼女に何かお返しが出来るような立場じゃないけれど……せめて、これだけは言っておこう……そう思ったのだ。
「ハナコが助けてくれなかったら、今頃僕は項垂れて何も出来ずにいたと思う。 だから……ありがとう。 君のおかげで、本当に本当に助かった!」
にっこり笑って、そう告げる。改まって感謝の言葉を口にするのって、なかなか照れくさいけど……でも、こんなに助けて貰ったんだから、お礼くらい言っておかないといけないな、と思った。心を通じ合わせた間柄だからこそ、こういうのは大切にしないと。
「……」
ハナコは、初めポカーンとした顔で僕の言葉を聞いていた。しかし、しばらく時間が経つと、彼女は面白いようにみるみる頬を赤く染めて、
「な……な、な、何を急に恥ずかしい事を言い出すんだ君はっ!? こんな事に時間を使って……本っ当に君は馬鹿だな!!」
「えぇっ!? 何でここで急に怒るんだよ!?」
まぁ、こういう反応するだろうなーとは若干予想していたんだけど、ここまで怒られるとは。
ハナコは、白い髪を指先にクルクルと巻きつけて弄りながら、いつになく早い口調で僕につっかかる。
「大体アレだ! ファミリア云々とかいう奴は……その……君の心の中にぼんやりと浮かんでいたワードを、たまたま拾って伝えただけで!
それに、心眼石の所有者である君がこんな所でへばっているようじゃ困るからね。 ……これは君を利用する立場である私の利益を考えての行動だ。 勘違いしないでくれ、別に君のことを心配して言ったんじゃない!」
「ふーん? ……もしかして、ちょっと照れてる?」
「なっ……この馬鹿が! あんまり調子に乗るな!」
「わ、ちょっ! 学校の備品を投げるなって!」
机の影に身を隠しながら、照れて小パニックに陥っているハナコを見つめる。最初は、いけ好かない奴だと思っていたけれど、こうして見ると、ただの可愛い女の子じゃないか。まだまだ謎の多い子ではあるけれど、今日一日の間で、かなり彼女との心的距離も縮まったような気がする。これからも、仲良く出来ると良いんだけど……って、今のこの思考も読まれてたらマズいな。まぁ、今の彼女はパニックって何も聞こえていないだろうし、大丈夫か。
「全く……ほら、とっとと出ていって
しばらくして、ハナコからの投擲攻撃が止み、代わりに罵声が飛んでくる。その言葉にハッとして、慌ててスマホの時計を見る。倉庫に入って来てから、もう既に十分が経過していた。タイムリミットまで、あと十五分しかない。
「やばっ!? 油売りすぎた!」
『ハァ……自業自得だ、馬鹿が』
猛ダッシュで倉庫を飛び出す僕の脳内に、ハナコのため息が響く。さっきまで普通に会話してた事もあってか、こうして脳内で会話する感覚への慣れがなくなっていて、若干気持ち悪く感じてしまう。……まぁ、今はそんな事気にしている場合じゃない。一刻も早く、
「───おーい、
職員室を探す時と同じ要領で、外から
「
「あーいや、そうじゃない。 俺は、
にししっ、と笑いながら肩に手を回してくる
うむむ……と一人悩んでいる僕を見て、
「安心しろ。 さっき、
は……?
あれだけ激昂して教室を飛び出し、『
『あぁ、こんなことは有り得ない……』
ハナコも、不思議そうに唸っている。
「お、おい!? 急にどうしたんだよ
***
「───
勢い任せにドアを開け、
ドアを開く音につられ、教室にいたクラスメイト全員の視線がこちらに向けられる。その中には、僕がずっと探していた、
「───あ、おかえり
「
───彼女は、真っ黒に染まった
つづく
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