第一章⑦『心に火を灯して』
五時間目の開始を告げるチャイムの音が鳴り響く。それでも、そんなものは聞こえないと言わんばかりに、彼女は勢いよく廊下を駆け抜けていった。途中、何人か先生とすれ違って声をかけられたが、それでも彼女は立ち止まろうとはしない。止まれない……いや、後戻りできなかったのだ。
「やっちゃった……最悪だ……」
ポロポロと目尻に涙の粒を溜めながら、彼女───
今日転校してきた男の子に突然体育館裏に呼び出され、かと思いきや自分そっちのけで謎のケンカが始まって、挙げ句の果てには全部勘違いだったと言われ……もう、頭の中がぐちゃぐちゃだった。
ただ、一つだけ分かることがあるとすれば。
それは、普段は明るく振る舞って怒ったりしないキャラで通していた自分が、急に怒鳴って、みんなをビビらせて、信用を失ったということ。何であんな風に怒っちゃったのか、自分でも分からない。いつものように笑って冗談めかして、何事もなかったかのように振舞えば良かったのに。さっきは何故か、それが出来なかった。
もう、明るくて元気な美晴ちゃんには戻れない。そう考えるだけで、彼女の心はズタズタに綻んでいった。
「はぁ…………」
気づけば、彼女は学校の屋上まで来ていた。全身の震えを必死に堪えながら、彼女はようやく立ち止まり、屋上のフェンスに寄りかかる。私が涙なんて流しちゃ駄目なのに、私が感情を表に出しちゃ駄目なのに……そう思えば思うほど、彼女の中から止めどなく悲しみや悔しさが溢れ出た。
これからどうしよう……そんな事をぼんやりと考えながら、空を見上げる
「───どうかしたの? お嬢さん」
不意に声をかけられ、美晴はビクッと肩を震わせて辺りを見渡した。どこかゾワッとするような、そんな寒気を感じさせる声は、彼女の頭上から聞こえたものだった。
屋上への入り口、その屋根の上にだらしなく座る一人の男。薄い緑色の短髪を風に靡かせ、どこかで見たことのある気がするオレンジ色のペンダントを揺らしている。彼はヒョイッと軽やかに屋根から飛び降りると、そのままゆっくりと美晴の方へ近づいていった。その口端を不敵に歪ませ、妖しく笑いを浮かべながら。
「あ、あの……」
「何か困り事? なら、俺に聞かせてよ。 ……その心に秘めた闇を、包み隠さず見せてごらん」
***
五時間目は自習になった。無精髭を生やした強面の先生が、教室に入るや否や、「小森先生が出張で休みのため、この時間は自習だ。 ……静かにしろよ」と、一言告げてそのまま去っていったのだ。
高校生とかって、普通は自習になると「っしゃー自習だー!! 自由だー!! ヒャッホォォォイ!!」って感じではしゃぎそうなものだけど。今現在、この教室内にそんな明るいテンションの人は一人もいない。むしろ、どんよりとした重苦しい空気が、教室内をぐるぐると渦巻くように漂っていた。
「…………」
誰も口を開かない。かと言って、集中して自習に取り組んでいるって訳でもない。恐らく、誰もが皆、ついさっき教室を飛び出していったクラスメイト───
いわゆる『群集心理』というヤツだ。「周りがやってるから、自分も」というあの感覚。そこに自分一人しか居なければ、状況を客観的に見て冷静に対処できるはずのことでも、集団になることでその意識が薄まり、行動がエスカレートしてしまったり、歯止めが効かなくなってしまったりする。「集団」というのは、それほどまでに恐ろしい影響力を持っているものなのだ。
そして今、僕たち一年二組のクラスメイト達も、見事にその群集心理にしてやられ、集団で罪悪感に見回れていた。事の発端は、間違いなく僕の(正確には広崎くんのせい)体育館裏呼び出しと、
「……テメェのせいだ」
ボソリと、そう呟く声が聞こえる。
でも、その呟くような声は心なしか、強い怒りを孕んだもののように感じた。
「全部……全部テメェのせいだろうが、
ガタンッ、と勢いよく席を立つ音が静寂を壊す。そのままズンズンと僕のところへ来たかと思いきや、いきなり僕の胸ぐらを掴んで怒鳴り散らす
「おい、落ち着け
「……クソがっ」
誰もが皆、やるせない気持ちで口ごもっていた。不安や反省、イライラといった負の感情が、そこかしこから漏れ出るのを感じながらも、誰も、何も出来ずにいたのだ。
その時だった。ヒソヒソと、クラスメイトの話し声が聞こえてきたのは。
「どうするんだろ……このまま、
「この後ってホームルームだろ? もし担任にバレたら、クラス会議じゃね?」
「うっわ、それマジ面倒くさいヤツじゃん……」
(……は?)
……信じられなかった。
何だよ、それ……この期に及んで自分たちの心配……?
どこから取り出したのか、僕の傍で荒んでいた
『───止めておけ。 君まで痛い目を見るぞ』
立ち上がって抗議しようとした僕を遮ったのは、僕の頭の中で響くハナコの声だった。怒り心頭の中でも、頭の隅にまだ冷静さを残していた僕は、今日だけでも何度となくやらかした同じヘマを、もう繰り返さなかった。深呼吸を一つ挟んで、声ではなく、脳内で会話をする。
『……どうして止めるの?』
『今のその冷静な頭のままもう一度考えてみろ。 君こそ、自分の非を棚に上げてクラスメイトに八つ当たりしてるだけなんじゃないのか?』
鋭く突き刺すようなその言葉に、
『……勿論、彼女から目を離していた私にも非はある。 そこで項垂れているデカブツも言っていた通り、これは各々に責任がある問題だ。 誰かが悪くて、誰かが悪くないという話じゃない』
『……』
分かってる、そんなこと。
でも、それじゃこの怒りの矛先をどこに向ければ良いのか分からない。
『誰か一人が、他の誰かに成り代わって責任をとることなど出来ない。 もとより、責任とはそういうものだ』
『……だったらどうすれば良いのさ。 このまま、
『さぁね。 ……でも、君の分のビハインドは君自身で取り返すしかない。 少なくとも、周りの人間に声をあげるのはそれからだ』
……まるで、こういう問題には慣れているかのような、落ち着いた対処法の提示。それでも、今の自分にとってそれは救いだった。自分が今なにをすべきなのか、それをもう一度冷静に考える必要がある。ハナコは、それを諭そうとしてくれているのだ。
マイナスの考え方ばかりに囚われていては駄目だ。現状を嘆くのではなく、それを打開するために正面から取り組み、考え、行動する。ストレスは、受け止め方次第で軽減させることが可能なのだ。アメリカの心理学者であるラザルスは、ストレスの原因であるストレッサーに対して、それによる反応を軽減させるための、コーピングと呼ばれる対処法が存在するという理論を提唱した。つまり、どんな状況に置かれても、考え方を一つ変えるだけで、身体や心のマイナス反応を払拭できるという事。……言うなれば、前向き論だ。それを意識するだけでも、ストレスというものは軽減できるのである。
『でも、実際どうすれば……』
そう、急に気持ちを前向きに切り替えるなんてのは至難の業だ。前向きになろうにも、打開策を考えようにも、あるいは現実から逃避しようにも、まずは、今自分が居る悲観的精神状態から抜け出さなければいけない。それが、「気持ちを切り替える」という行為の第一歩なのだ。……でも、今の僕にそれが出来るだろうか。
『分からないのなら、周りに頼ると良い。 クラスメイトの中には、とっくに気持ちを前向きに切り替えて行動しようと目論んでいるヤツも居るだろう。 こういう時に周りを導いてくれるのは、そういう心の強さを持ったヤツだ』
『周りに……』
ハナコがそう言ったのとほぼ同時に、ガタッと椅子を引く音がした。自分を含めた全員が一斉に、音がした方へ視線を動かす。全員からの注目を浴びる中、鋭い目つきで眼鏡をクイッとあげる女子生徒。あれは確か……学級委員の、
「一度、頭を冷やしましょう。 今私たちがすべき事……それは、
ワンテンポ間を置いてから、
「これは私たち全員の問題です。 だからこそ、
「私も、今すぐにでも
僕の隣で、
すると、
皆、心の中では反省していたんだ。面倒だ、なんて考えていた人はほんの僅か……あるいは、考えを改めてくれたのかもしれない。今は、こんなに多くの生徒が、
「落ち着いて下さい。 皆さんの気持ちはよく分かりました。
……
「ま、待てよっ! 俺にも探しに行かせろ!」
と、ここで
しかし、
「……では、一つ質問です。
「なっ……それは……」
「……私としても、このクラス内でのいざこざを外部に広げるような真似はしたくありません。 私は、学級委員という肩書きでどうとでも説明が出来ますし、落ち着いて状況説明をする自信もあります。 気持ちは分かりますけど、ここは私に任せて下さい」
口ごもる
「良いですか? 私が
「───待って」
クラスメイトの誰もが頷こうとする中、一人、彼女の声を遮る人物が居た。それは紛れもない……僕だ。
「僕も、
そう言って、立ち上がる。それが、ハナコの言っていた「ビハインドを取り返す」為の、僕なりの答えだった。
「テメェ……どの面下げてモノ言ってんのか分かってんのか!?」
「僕にはっ! 彼女に会って直接謝る責任がある! これは、僕がやらなきゃいけないことだ……!」
確かな決意を胸に、そう叫ぶ。さっきの件だけじゃない……僕は、彼女が心に負っていた小さな傷を知っていた。それを見逃してしまった責任は、僕にある。
思いが届いたのか、
「……貴方にも、先ほどと同じ質問をさせてください。 貴方なら、他の先生や生徒に出くわした際、どう対処します?」
「僕は転校生だ。 転校初日の生徒の顔なんて誰も知らないだろうし、『学内の見学』とでも言っておけば、誤魔化せる」
「……なるほど。 理にはかなっていますかね」
どうやら、第一関門は突破できたらしい。彼女の居る席と少し距離があるせいか、
「……では、もう一つ質問です。 厳しい言い方かもしれませんが……貴方はこの問題の中心にいた存在ですよね。 そんな貴方が、今現在も気が立っているであろう
「それは……」
……確かに、
(どうしよう……)
このままだと、僕も彼女に論破され、
『───ファミリア・ストレンジャー』
『え……? ……あっ』
不意に頭に響いた、ハナコの声。それに一瞬驚きつつも、すぐに彼女の意図を察した僕は、そっくりそのままに言葉を発した。
「……ファミリア・ストレンジャーだ」
「は……? な、何ですか急に……?」
いきなり意味不明の単語を突きつけられ、戸惑っている様子の
「ファミリア・ストレンジャーっていうのは、アメリカの心理学者であるミルグラムが提唱した概念で、名前も知らない相手なのに、何故か親近感を覚えるような間柄の人間のことを指すんだ。 ほら、電車通学するような人だったら、『名前は知らないけどよく見かける』なんて人が一人か二人は居るでしょう? それがファミリア・ストレンジャーだ」
「……それで、そのファミリア・ストレンジャーと私の質問とに、どういう関係が?」
訝しげな表情を浮かべる
「一年生として入学してから、まだ二ヶ月弱しか経過していない僕たちは、ファミリア・ストレンジャーに近しい関係だと言える。
加えて、
「今日の問題にあまり関わりのない人が彼女を説得しに行ったとしても、効果は薄い。 でも逆に、今回のことで彼女の頭に強く印象づけられたであろう僕が行った方が、より彼女の心に訴えかけられる。 それに、遅かれ早かれ僕たち当事者が謝らなきゃいけないタイミングはあるんだから。 そういう点で言えば、たとえ『彼女をいたずらに刺激するだけ』だとしても、それは充分に意味のある行動だよ」
「……」
「……お願い」
ここからは、心理学の解説ではなく、僕個人の気持ち。どんな理屈を並べられても、どんな反論をされても、この気持ちだけは覆らない。メラメラと火の粉を纏う
「
「だからって、貴方だけが背負わなければいけない訳ではありません。 ですから、私たちと一緒に───」
「それにね、分かってたんだよ」
梓内さんの言葉を遮って、続ける。
「彼女と話した時にはもう、僕は気づいてた筈なんだ。 彼女が心に抱えてる闇に。 ……でも、何も出来なかった。 それどころか、その闇を解き放って、彼女の心を
……だから、僕自身の手で救いたいんだ! 彼女の心を、笑顔を取り戻すために!」
嘘偽りない本心を、真正面から皆にぶつける。僕の
だからお願いします! と最後に一言加えて、深々と頭を下げる僕を、しばしの静寂が包みこんだ。
「……元々」
その静寂を最初に破ったのは、
「テメェから始まった問題だ。 テメェがきっちりとケリつけんのは当然だろうが」
「
「転校初日でまだあんまりお前の事分かってないけど……でも、お前になら任せられる気がする!」
「
「
皆の言葉が、温かさを持って僕の胸に染み渡る。僕の思いが、クラスの皆にちゃんと伝わったんだ。それだけで、もう既にウルッときそうだった。
そうか……もしかしたらこれが、僕の
「はぁ……ここまで言われたら、止める訳にもいきませんね」
呆れたような口調でそう呟き、ため息をつく
「……分かりました。 では、私と
「分かった。
そう言って、もう一度深々と頭を下げる。クラス内に漂っていた険悪なムードはいつの間にか消え、やる気と結束が新たに生まれていた。
(待ってて、
心の中で、そう
そうして僕は、宿した心火を絶やさないよう、急いで教室を飛び出していったのだった。
つづく
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