第2話

2018年4月7日。

瀬名むつみを付き添わせて帰省中の瀬賀康介は道路を走る吸引機の音とともに午前3時に起きた。路面電車の保線車両である。



瀬賀康介は車やバイクの音とは違って苦手な鉄道の音に耐えかねたのかヘッドホンをしてノートパソコンのYomTwbeのゲーム動画を聞きながら寝始めた。瀬名むつみは好きな電車に会えたということで、外へ出て写真撮影に向かった。



午前5時に起床後、瀬名は家の近くを散歩することにした。家から出てすぐ近くに、路面電車の線路がある道路とその電停がある。この電停の名前は「岸田」。由来はこの電停の地名からとったらしい。

芽岸市内には2路線の路面電車が走っており、一つ目は芽岸市・山井市内を縦断するニコ鉄線の線路でほぼ対照的な線路を描く、芽岸山井循環線と本線が経由しない曙地区を通って芽岸駅に短絡する曙支線。岸田電停はこのうちの芽岸山井循環線に属する。

この路面電車の運営は芽岸湖電気鉄道。横瀬都市圏に大手私鉄路線を構える横瀬電気鉄道の子会社である。

1910年に現在の環状線にあたる部分が開通し、1918年に曙支線にあたる部分が開通する。1923年~2005年までは東西本線とは異なる経路で芽岸から芽岸湖を結ぶ路線があったが、東西本線の輸送力には敵わず、芽岸湖市内の部分を除いて廃止された。ちなみに、この路線廃止後も芽岸湖電気鉄道は高速バスと廃線跡を並走する道路を経由する路線バスを代替路線として運行しているが、地震や落雷停電といったどうしようもない事態を除いてはあまり重宝されていないようだ。

話を路面電車に戻すが、現存する2路線には200形という5連節車のIGBT-VVVF車が運行されている。2002年にデビューし、これまでに21編成が導入された。それまでは1985年に導入された150形という1M車のGTO-VVVF車5両と1970年に導入された1M車の100形というつりかけ式抵抗制御車が29両在籍していたが、いずれも老朽化や輸送力増強のために2006年までに退役している。



さて、路面電車に乗るために瀬名と康介は岸田電停で循環線右回りの路面電車を待つこととした。1分経つと電車接近を知らせる自動放送が流れ、その後、200形の208Fが到着した。運賃は前払い均一料金(150円)で、二人は前から二両目の車両に乗った。電車は二人が座るとすぐ発車した。

瀬名と康介の向かいの席には、朴哲とメイリンが座っていた。この二人は自宅最寄りの電停まで2000メートルを歩いて行ってこの路面電車に乗ったようだ。いったい何分間歩いたんだろうか。

「あの二人も路面電車に乗るんだ」と瀬名は思った。

路面電車は岸田電停を出発し、曙駅入口電停に向かう。鉄道好き仲間だと思ったのか、瀬名は朴哲にこう尋ねた。

「朴さん、あなたたちはなぜ路面電車に乗っているんですか?」

すると朴哲はこう答えた。

「俺は以前から路面電車に興味を抱いてね。今はこうして休日になると乗って楽しんでるんだよ」

メイリンも言った。

「俺もそうです。以前からこういった乗り物には興味がありました」と瀬名。

そして彼女はこう続けた。

「ところで、二人はどうして芽岸に来たんですか? お仕事とか学校があるんじゃないですか?」

朴哲は答えた。

「実は俺たちは仕事場は家の中にあるんだ」

興味を持った瀬名は行き先を尋ねたところ、同じ芽岸駅前と答えた。興味があったのか朴哲とメイリンは瀬名についていくこととした。



路面電車は、曙駅入口電停、科学館前、芽岸新都心駅前、本芽岸駅前を通って芽岸駅前電停につく。4人はこの電停で降りて駅前広場に行くこととした。



電停を降り、横断歩道を渡って駅前広場につくと、4人はお互いの鉄道写真情報を交換し合った。

「なるほど、鉄道マニアとはそういうものだったんですね」と瀬名。

瀬名の話を聞いて納得する朴哲。

すると一人の女性が現れた。

彼女の名前は鶴見鶴子。芽岸湖市から東西本線の快速で来たアマチュア学者。鶴見鶴子の話によれば、鶴見鶴子が訪れた理由は歴史に深い関係があったからだと言う。

鶴見鶴子は言った。

「この芽岸市は1880年1月に開拓され、当時の人口はわずか200人足らずでした。その当時の芽岸市には2つの町がありました。一つは現在の芽岸市、もう一つは現在の山井市でした。山井市はこの当時は芽岸市の一部だったのです。」

康介は言った。

「山井市ってもともとは芽岸市だったのですか?」

鶴見は康介にこう答えた。

「はい、瀬賀さん左様でございます。それで、そんな芽岸市は芽岸湖高原でとれる鉱物を外国に輸出する貿易港として整備され、その結果多くの工場が建設されて人口が増えていきました。また、鉱山から産出される鉱石を運搬するための鉄道が敷設されて人口の増加に追いつけないほど発展していました。しかし、それは1910年代のことです。」

1910年代と言えば第一次世界大戦の頃である。つまり、ヨーロッパからの移民が大量に流れ込んできて、芽岸市に流入してきた時期である。

鶴見はこう説明した。

「その、第一次世界大戦の時期に横瀬州で独立戦争が起きて、結局はフランスの植民地ではなくなり、1919年にニコニコ国の領土の仲間入りを果たしました。ニコニコ国になってからはフランス植民地時代の残滓を一掃するために、芽岸市内でのルールを変えました。まずイギリス式の道路交通ルールが採用されて、右側通行から左側通行になり、言葉もフランス語ではなく英語と日本語と中国語に変更されました。」

そして、と鶴見は続けた。

「現在芽岸市民……いや、芽岸県民はドイツ料理やアメリカ料理をベースとしたソウルフードが有名ですが、こちらもニコニコ国の領土になったことによる変化の一つですね。ただし、学校や職場での体罰はフランス植民地のころから禁止になっていたのですが、こちらは引き続き禁止が続けられました。また、同性愛と同性婚はこのときに合法になりました。」

瀬名は開拓前は無人自体なことに疑問に思い、

「鶴見さん。なぜ芽岸市はもともと無人地帯だったのですか?気候が苛酷なインドネシアやオーストラリアもヨーロッパの植民地になる前から人は住んでいましたよ?」

この質問に鶴見が答える。

「瀬名さんもご存じかもしれませんが、芽岸市は夏はもちろんのこと冬場も落雷が多いですよね。これは発達した積乱雲が東の海から風で西に運ばれて芽岸市に非常に激しい落雷を伴った風雨や風雪をもたらします。この落雷があまりにも激しいため、芽岸市は開拓する前は人が住めない土地だったのです。アメリカの五大湖周辺や日本でいう日本海側でも雷を伴う雪はあったり雨季の赤道直下の国々にも雷雨はありますが、一日中ずっと落雷が起きているというわけではありません。しかし、芽岸県内の特に芽岸市や山井市地域は違います。一日中、落雷が発生している日が年に10日間続いていますもちろん、ゲリラ豪雨のような断続的な雷雨ではなくそのような極端な雷雨や雷雪が10日間休まず続くという意味です。つまり、その地域に人間や動物が住むには落雷によるケガで死亡するリスクが高く、開拓するまでは木がほとんど生えていない地区もあったようです。要するに、文明がない時代の動物や人間が生息できない地域だったのです。」

朴哲はこう語る。

「確かにこの地域は夏場や冬は起きている間も寝ている間も落雷が起きているというのが普通にあるけど、落雷で怪我したり死んだとかの話は聞かないな。昔はどうだったんだろう?」

鶴見はこう答える。

「確かに現在は落雷を考慮した厳しい建築水準の順守が徹底されているということもあってそういったけがや死亡事故はなくなりました、しかし昔は違いました。昔は落雷で死ぬ人が毎年、数百人単位でいたそうです。」

「そんなに雷で死ぬ人がいたのか?」

鶴見はこう語る。

「ええ、芽岸市は開拓が始まったのが1880年でした。1880年の開拓当初は雷が鳴ったらすぐ家に避難するといったような落雷に対する備えを心がけていましたが、落雷で家が燃えるということもありますよね。開拓時代は避雷設備の整備が徹底されていなかったということもあり、フランスによる開拓時代も落雷により1万人の死者が出たようです。」

鶴見はその慰霊碑がある場所に案内した。芽岸駅の南口の広場の一角にとある慰霊碑と羽のある妖精のモニュメントがある。羽のある妖精のモニュメントは落雷で死んだ人々の魂を鎮めるために建立されている。羽のある妖精のモニュメントには落雷で死んだ人々の名前が書かれており、その横には落雷を引き起こす悪い妖精のモニュメントがある。

瀬名は鶴見にこう質問した。

「なぜ妖精を悪魔視しているのですか?」

すると鶴見はこう答えた。

「それはね、妖精は魔法使いや魔女の使い魔として人間に害をもたらす魔法使いや魔女の手先として仕事するんです。」

瀬名は何をとち狂ったのか、

「魔法使いとか魔女に会いたい!!」

と言ってしまった。

それに対し鶴見は、

「科学は人間に有益な存在ですが、魔法は人間に害を及ぼす存在です。科学は人間の生活を豊かにしますが、魔法は人間の生活を害します。」

瀬名は鶴見にこう質問した。

なぜ科学は人間に有益なのに魔法は人間に害を及ぼすのか。

鶴見はこう答えた。魔法は科学が発展する過程で誕生したもので、科学は人間が作り出したものですが、魔法は人間が生み出したものではありません。

鶴見は瀬名にこう言った。

「魔法は人間を差別する存在です。科学は人間を差別しません。私は魔法を強く侮蔑しています。あなたなら科学を理解してくれるかもしれませんね。」

一方、康介はこう語る。

「なぜ科学主義のフランスで魔法使いだの魔法だの魔女だの妖精だの非科学的な迷信が信じられているのですか?少なくとも科学は世界を平等にするのですから科学こそが人類共通の力だと思うんですよ?」

これに鶴見はこう答える

「魔法を信じる人間など人権がないのです。魔法は下劣なんです!科学はあらゆることを理解しようとする姿勢を持ちます。魔法なんて馬鹿げておぞましいだけのもにこりともしないでしょう!」



しばらくすると、5人は路面電車芽岸駅から芽岸大学経由で山井駅東口に向かう路面電車で瀬賀川付近の公園に向かった。

その公園には瀬賀愛衣が公園の看板の前で立っていた。5人が看板の前に着くと、愛衣は看板に書かれていく禁止事項を読み上げた。

「瀬賀川の河川敷にはこわいウイルスを持っているダニなどが生息しているうえに、野鳥もこわい寄生虫を持っています。寄生虫やダニのウイルスに感染すると最悪の場合死に至ります。したがって瀬賀川は遊泳禁止です。草むらに立ち入ることもできません。」

そんな河川敷の公園だが、鶴見は瀬賀愛衣に山井市の由来について尋ねた。

「愛衣さん、瀬賀川を越えた先には山井市がありますが、この地名の由来を知っていますか?」

「知りません。」

「山井市は、1980年に芽岸市から分離独立した市です。山井市は1980年に芽岸市から分離独立しましたが、その時の芽岸市長が山井在寅(1920-2017)という人であったことが由来なのです。山井市は芽岸市のベッドタウンとして機能していますね。」

山井市は芽岸市以上に一戸建ての割合が多い。理由としては土地の値段が安いことと可住面積がだだっ広い場所が多いわりに安価で高度な公共交通が発達していることで芽岸市内の用事で住んでいる人はここに住む人が多い。



河川の幅が大きい瀬賀川を見て、鶴見は疑問に思った。

「芽岸地方は長い雷雨が多いのになぜ水害が少ないのだろう?」

これついて愛衣は答えた。

「日本中どこでもあることだと思いますけど、大雨によって川の水が増水するとその水位の高さが危険ラインを超えたところで洪水が発生しますよね。芽岸市はそんな洪水を防ぐための水門がありますから、被害が少なく済んでいるんですよ。また山井市に流れている川は氾濫を防ぐためにダムを建設して貯水量を増やしているためか洪水の被害が少ないんですね。それにしてもすごいですよね。」



詳しく話をするために、6人はレンタサイクルに分乗して河川敷の自転車道路を西側に移動し、レンタサイクルをステーションに置いた後に瀬賀の家に徒歩で向かった。



瀬賀の家で鶴見が芽岸市の歴史を話してくれた。

「1940年代になると、芽岸市は石炭・石油・天然ガスが採掘できるようになり、今の山井市ではコメやコムギといた農作物を国内外に輸出することで財政が豊かになってきましたね。しかし、1980年代では伝染病の問題でコメやコムギの栽培が山井市で行われなくなって住宅用地に転用されるようになり、さらに2050年代までに芽岸市内で石炭の採掘が終了するため、今後財政的に難しいかじ取りを迫られる自治体になると予想されています」

鶴見はそう言いながらも、タブレット端末を取り出した。

「ですがご安心ください! 2050年以降には新たな産業が生まれ、この芽岸地方でも産業が盛んになるのですから!」

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