霜履みて堅冰至る。しょうもないことでも間違いなくおおごとになるものよ。
生命を拒むような寒風の中で歩き続け、体力の限界も近づいた夕闇の中で見つけたのが、本章冒頭の邑、小屋である。人の生活していた形跡が強く残っていた。
「罠、偶然。試練か外へのヒントか」
頬骨付近を指でとんとんと叩きながら
「……凍えずにすむのは運が良い。しかし、このままではもたん」
乾ききった己の唇を撫でて呟く。飲まず食わずで何時間も歩き続けたのである。ここからまた元の世界を探しさまよえば、飢えと渇きで士匄さえも潰れるにちがいない。
どちらにせよ、夜が明けてからの話である。昼から夕を迎え夜となったのである。朝もあるであろうと士匄は楽観し、目をつむった。座ったまま仮眠をとり、一刻ていど――十数分から二十分程度と思えばよい――で起きて火を見ては、また仮眠する。根性無く奉仕精神の無い士匄と思えば、まあ、マメではある。武人として卓越した祖父の教導、厳しい父の教育、そして
「ミミズクか。墓か
士匄は思わず呟いた。ミミズクであるのかフクロウであるのか正確にはわからぬが、ホーホウホーウと独特の鳴き声が風音の合間を縫うように聞こえてくる。
当時、この夜行性猛禽類は墓や廟の屋根で鳴く鳥だとされており、その様子が絵として残っている。加護も求めたのか、ミミズク型の青銅器も多く発見されている。正面を見据える目に人は親近感を覚え、大きな瞳孔に神威を感じ、周囲を見張るようにぐるりと回る首に頼もしさを見たのかもしれない。時代がくだるにつれ、死に近い声と忌まれ、不祥の象徴とされていった。
士匄は、この場が異界よりは人界に近いと思った。彼の知るミミズクやフクロウは死したものを見守る、人に近い鳥である。
「……あさに、なれば」
ひとりごちりながら再び浅い眠りへ落ちた。
幾度か仮眠と火の番をくり返すうちに、陽光が立てかけた板のすきまから漏れ出てくる。得体の知れぬ場であるが、朝日がきちんと昇ったのだ。チッチ、ヒッヒといった鳥の声が聞こえてきた。士匄は立てかけていた『扉』をどけて、外に出る。風は思ったより弱くなっていた。
士匄は警戒する虎のような目つきで見回しした。夜明け独特の赤々とした光に照らされ、点々と佇む小屋が影を作っていた。古代の社会は夜明けと共に動きだす。この時点で誰も出てきていないということは、無人の邑なのであろう。
もしくは、死人の住処か。
――どちらでも良い。今は水と食糧だ。
士匄は探索など全くする気はない。邑の規模からして井戸は共同であろうと見当をつけ、歩きだす。共同体が所有するものは、どこの邑も同じような場所にあるものだ、と士匄は思っており、それはまあ、間違っていない。そこそこ大きな木の下に、井戸が掘られていた。てこの原理を利用して水を汲み上げる、平凡な井戸である。井戸に問題はない、井戸には。
足元へ視線を移せば、虫の死骸が目立つ。歩く度にバッタの死骸を踏みつけた。そもそも、士匄たちが身を寄せた小屋も、壁にいくつもバッタの死骸がめり込んでいた。夜の闇では見えなかったそれを目の当たりにしたとき、士匄は顔を引きつらせた。丈夫に作った土壁のおかげでそれ以上の侵略は防いだらしい。開きっぱなしの出入り口も、かつてはピッタリとはまる扉があったのであろう。士匄が適当に使った板きれでは、虫は防げまい。
とりあえず、邑に散らばるバッタたちは死骸である。襲ってくるわけではない。士匄は口を引き結び、井戸の水を汲んだ。枝に棒をひっかけ支柱とし、井戸の奥から水をくみ上げる。持ち手を備え付けられた縄で固定すると、士匄は井戸に向かい、水壺を手に持ち覗いた。
「うえ……」
思わず呻き声が出る。水自体は澄んでいたが、ぷかぷかとバッタが大量に浮いていた。士匄は衛生概念の無い古代人であるが、嫌悪感がないわけではない。どころか、生理的嫌悪で顔を思いきりしかめた。気持ち悪い。
しかし、他に水源も無いようである。仕方無く持っていた麻布をフィルターがわりとし、手近な壺に水を入れ替え漉していく。布の上が虫で埋まれば、はたいて落とし、再び漉していく。何故、下級な民のようなことをせねばならぬのか、ということを考えないようにした。かつてそういった疑問を口に出せば、荀罃の拳が飛んで来たものである。
人生、何があるかわからぬ。一人で生き、いざとなれば己で処せるくらいにはなれ
そういったことを言われた。子供だった士匄は、
「あなたは己を処さなかった」
と真っ正直に返した。荀罃はかつて戦争で捕まり、敵国で虜囚となっていた。自分だったら耐えられないと、当時の士匄は続けて言った。荀罃が少年の自負心に肩を震わせて笑った。
「恥辱ではあったが、その程度で己を処すなど、
自ずから死ぬ理由など、いまだわからぬ。矜持が保てぬなら死んだほうがマシだ、と士匄は未だに思っている。が、バッタを除きながら水を漉すていどで死を選びたくない。
水を抱えて戻れば、
「范叔、良かった。えっとご無事で……。あの、あの、ここは? えっと」
趙武がどもりながら問うてくる。起き上がれば見知らぬところで一人取り残されていたのだ。不安と混乱のためか、言葉が迷子であった。士匄はめんどうであったので、無視をして、部屋に転がっていた煮炊き用の土器に水を注ぎ、火や炭を適度に整えると、水を温めだした。
無視された趙武といえば、諸々聞きたいことはあったが、士匄が己を助けてくれたということだけは察した。己の両頬を手で軽く叩くと、士匄に拝礼する。
「至らぬ私を助けていただき、ありがとうございます」
士匄は鷹揚に頷くと、縁が少し欠けた碗に湯を注いだ。火種があり、煮炊き一式が残っていたのであるから運が良い。湯を渡された趙武が、ふうふうと息を吹きかけながら、そろそろと口に含む。熱い湯が喉を通り抜け、痛いほどであった。体が少しずつ温かくなっていく。士匄も湯をすすった。味はともかく、体は温まり水が末端まで染みこむような心地であった。二人はしばらく、湯を飲み続けた。残った湯を士匄は竹の水筒に入れた。人の物を当然のように徴発するのが、士匄という男である。
ようやく落ち着いたらしく、趙武が静かに口を開いた。
「……范叔。この小屋はどなたからお借りしているのでしょうか」
趙武の言葉は危機感の無いそれであったが、声音は緊張に満ちていた。ここに人はいるのか、と問うているのである。士匄は首を振った。
「無人だ。ここだけではなく邑も無人だ。みな死んだか逃げたかだ」
「ここは、道祖の作った場所なのでしょう? 最初から誰もいないのでは」
趙武の疑問に士匄が力強く、誰かいた、と返す。
「どうせ出立するのだ。外に出ろ、見ればわかる。そろそろ立てるであろう」
士匄は立ち上がりながら顎でしゃくった。趙武が頷きゆっくりと立ち上がった。
外に出れば、日はそれなりに高くなっていた。冬独特の刺すような空気が頬にあたり痛い。うながす士匄に、趙武が茫然とする。
「
おびただしいバッタの死骸を見て、趙武が呟いた。そのまま少し後ずさりながら、士匄を見上げてくる。
お察し螽とは
「最近、
「境界の神、生者と死者の扉。道祖のいる場所は向こう側であり、こちら側でもある。この場は実際にある場所と重なっている。常に動くものを
士匄の言葉に、趙武が不審を隠さぬ顔をむけた。
「また適当なことを仰って、その場しのぎの考えをなされておられませんか。信用できません」
永遠に続くような荒野、先の見えぬ道などこの世に存在しない。つまり、この邑も存在していない可能性があった。士匄は趙武の指摘にそっぽを向いた。
「……勘だ」
不快を固めたような声で吐き捨てた。士匄は古代人なりの合理主義者である。己の勘さえ理屈で正当化しないと気がすまない。が、その理屈を捨てた。悔しく、極めて不本意である。
「あなたの勘はとても当たります。その言葉を信じましょう」
趙武があっさりと前言をひるがえした。へりくつを捏ねる士匄の言葉は不実であるが、勘はよく当たり、何より真っ正直なのだ。勘の良さを自慢にしてはいるが、それ以上に理と弁を自慢にしている士匄は、口を尖らせた。
「……いや勘かどうかはどうでもいい。私も
「つまり?」
士匄の言葉に趙武が先を促す。
「小規模に終わり、冬になって収まった」
趙武が、ほ、と息をつく。安堵の顔を浮かべていた。蝗害の怖ろしさは干害、水害と並び大きい。強烈な飢餓だけではなく、住処さえ滅ぼし尽くす。
「被害が少ないまま終わったなら、安心ですね」
「アホか。次の夏に大きい蝗害がくるということだ」
士匄は苦い顔をして吐き捨てた。趙武が蒼白な顔をする。蝗害の恐怖と被害を思えば青ざめるというものであり、それに思い至らなかった脳天気さに血の気が下がるというものであった。己の至らなさに俯く趙武など無視して、士匄は周囲を見回した。水は確保したのだ、食糧が必要である。倉庫はもちろん食い尽くされている。ボロボロの小屋も多い。
――キョウキョウ
甲高い声が聞こえ、士匄と趙武は同時に振り向いた。捨てた
「来てくれるなんて、頭が良いのですね」
趙武がかけより、その珍獣を抱え上げた。と同時に、ぐうう、と腹の音が鳴る。珍獣と、趙武と、士匄と、同時に鳴ったのかもしれない。
「范叔。食糧が来てくれましたね!」
美しい後輩が、固い甲羅のような犰狳の皮膚を撫でながら微笑んだ。春の訪れが一足先に来たような、優美な笑みであった。士匄は黙って落ちていた黒曜石の刃物を渡した。――頬を少々引きつらせながら。
さて。犰狳という珍獣はおとなしいが、命の危機には抵抗した。体を丸めてその鱗を以て己を守ろうとしたのである。ダンゴムシを思い出し、士匄は嫌悪感で舌を出した。趙武が問答無用に頭や首に近い部位を石で殴り続け昏倒させると、身を開いて解体していく。井戸の横で捌き、虫まみれの水で時折洗い流す。その様子も野蛮だ、と士匄は辟易した。
「長くしてなくても手は覚えてますね、なんとかなりました」
最後、手を水で清めて趙武が切り分けた肉を掲げた。調理などもちろんできない士匄は、その後も全て趙武に丸投げした。趙武は料理人ではなかったが、邑内で見つけた蒸し器で犰狳を調理するくらいはできた。他の方法は加減がわからないとのことだった。
蒸したものを少し冷ましながら手で食う。塩も酢も
「脂がのってることは悪くない」
士匄は咀嚼しながら頷いた。淡泊ながらも良い脂の味であった。趙武も味わいながら
「料理人が作ればもっと美味しいのでしょうね。大叔父にまたいただきたいものです」
と笑う。そう、笑った後、肉を持ったまま暗い顔をした。
「大叔父がここまでするとは思いませんでした。私が甘かった、申し訳ございません」
趙武がぽつぽつと言う。倒れる前に同じことを彼は言った。士匄は肉をむしりちぎると口の中にいれて咀嚼する。飲み込んでから口を開いた。
「企んだのはあの
士匄の言葉に趙武が首を振った。大叔父への疑心というより、士匄への申し訳なさに、意味なく首を振り、ごめんなさい、と小さく呟く。士匄は、うざい、と思いながら己のこめかみをトントンと指で叩き、言葉を続けた。
「返していただくは儀にあらねど、差し上げたものは
言い終わると士匄は口の中に最後の肉を放り込んだ。たいして美味くもないが不味くもない。普段なら投げ捨てて犬の餌にしてしまうものだが、今はこれしかない。味わうようにゆっくり食べきった。その様子を見ながら趙武が少しだけ笑み、同じように食べきる。
「己の情に惑わされ何も気づきませんでした。……ありがとうございます」
泣きそうな声音であった。士匄は辛気くさい、と思いながら立ち上がった。
「行くぞ」
趙武が頷き、同じように立ち上がった。
邑を出るとやはり荒野が広がる。枯れた草、朽ちた木、乾いた大地を寒風が駆け抜けていく。うっすらと、道がわかるのが奇跡というものであった。
西へ、と向かっていると二股の道に出た。士匄はどちらに行くべきか考え足を止めた。趙武が寒そうな顔で見上げてくる。
ホウホウ
一瞬、聞こえてきた鳴き声に士匄は眉をしかめた。
「ミミズク?」
思わず言うと、趙武が首をかしげた。
「どうかしたのですか?」
「……ミミズクの鳴き声がしなかったか」
「今は昼です。ミミズクは夜の鳥でしょう。本当に、どうなさったのですか」
趙武の困惑した声に、士匄は道を見た。ミミズクは廟の上にいる。
「范叔! いかがなされたのですか!」
趙武が体を掴み強くゆさぶってきた。我に返り、士匄はめまいを散らすように首を振った。空を見上げれば、重そうな雲の合間に冬の陽光が眩しい。荒野には強い風が吹き荒れ、ミミズクどころかどんな鳥の声も聞こえない。そうだ、ミミズクの鳴き声など聞こえなかった。
「なんでもない、趙孟。行くぞ」
不安そうな趙武を尻目に、士匄はどこまでも続く一本道を歩きだした。
痛いほどの寒風の中、二人は歩き続ける。まるで空気が薄いように苦しく、手足が痺れるように痛かった。
「申し訳ございません。あなたを巻き込んだ」
趙武が枯れた声で謝りながら倒れた。まるで風にへし折られたようでもあった。
「これは私の責です、あなたは一人で行ってください。私は邪魔です」
そう言い残して失神した趙武を担ぎ上げ、士匄は怒りの形相で歩き続けた。士匄は趙武を連れ戻すと決めているのだ。邪魔であるが、放り出せるわけがない。
「こ、の程度。わたしができぬと思うなよ」
周囲が夕闇に溶けかけるころ、士匄は小さな小屋にたどりついた。あばら屋かと思ったその小屋は、人の住んでいた形跡があり、火も起こすことができた。ただ、扉が無かったため、適当な板でふさいだ。
翌朝、朝日に照らされた小屋の周辺は、バッタの死骸だらけであった。
「蝗害か。気持ちの良い眺めではないな。捨てられた邑ということか」
士匄は吐き捨てると、嫌々井戸の水をくみ上げた。蝗害のおそろしさは、草木のたぐいは全て食われることである。穀物はもちろん、それが家屋であろうとも。井戸の傍には木があり、それを支柱としててこの原理でくみ上げる。全てが食われた中、
起き上がってきた趙武も、蝗害の惨状に眉をひそめた。
「最近、周で蝗害が起きたのでしょうか」
干害、水害と並ぶ凶悪な災害である。本来なら、各国に知らせている。
「私も周都の近くで蝗害が起きたとは聞いていない。我が晋と周は接している、他の東国もだ、起きていれば影響がある。つまり小規模に終わり、冬になって収まった」
士匄の言葉に趙武が、ほ、と安堵の息をつく。
「被害が少ないまま終わったなら、安心ですね」
「――アホか。夏に大きい蝗害がくるということだ」
士匄は苦い顔をして吐き捨てた。趙武が蒼白な顔をして、俯く。――その直後、
――キョウキョウ
甲高い声が聞こえ、士匄と趙武は同時に振り向いた。捨てた犰狳が、一途に追いかけてきたらしい。趙武がかけより、その珍獣を抱え上げた。
「范叔。食糧が来てくれましたね!」
士匄は、趙武の発想に少々ドン引きしたが、屠るのも調理も全て任せ、肉にありついた。珍獣の肉はそれなりに食える味であった。
水を確保し、餓えをしのいだ二人は、邑をあとにした。
冬の陽光は鉛のような雲の合間で漏れ、時折眩しい。枯れた草や朽ちた木々の間、冷たく硬い土の上を寒風が駆け抜けていった。
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