いずくんぞ然る所以を識らん、いずくんぞ然らざる所以を識らんや。みな成り行きまかせだけど、それでいいんじゃない?
黄金色にそまったいちょうの葉が、ふわふわと舞いながら地に落ちている。ふわふわとした落ち葉の絨毯の上で、
「どうした、
かがんで肩をつかむ
「いやあ!
と身をよじった。士匄はおおいに傷つきながら逃げようとする体を掴み抑えて怒鳴りつける。
「わたしは! 生きている! 泣くなわめくなおちつけ中行伯、何があった!」
士匄の剣幕にぽかんとした荀偃が脱力する。士匄はさらに怒鳴りながら、荀偃の肩をなおもつかみ、ふにゃふにゃの体を揺さぶった。ガクンガクンと首が振られ、脳が撹拌され、荀偃が白目をむきかける。追いかけてきた
「安心してください、中行伯。私は味方です。何があったのです」
しつこく怒鳴ろうとする士匄にむりやり割って入り、趙武が優しく言った。それは後輩が先達に対するものではなく、救助隊員のような姿であったが、まあ仕方があるまい。荀偃が蒼白ながらも安堵のため息をついた。士匄はさらに傷つき、口をとがらせ、中行伯のくせに、などと悪態をついた。
「は、范叔、范叔が……。頭に矢が刺さった范叔がやってきて」
思い出しただけで恐怖がわいた荀偃は泣きながらしゃくりあげた。そうして両手を出してくる。そこには矢じりにべっとりと血と肉片がついた矢があった。
「わ、私、びっくりしまして、痛くないですかと思わず申し上げたのです」
まぬけすぎる問いだ、と士匄は苦い顔をした。趙武は混乱極まったんだと同情した。
「そうしたら、お見苦しいとかなんか言って、矢をざくって抜いて、これ、目! 顔から血がどばって! そのまま笑顔で去っていったんで、す」
必死に言葉を絞り出し、荀偃が再び深いため息をついた。枯れ葉散らばる地面には、大量の血痕が散らばっていた。
「……頭の傷は派手に血が吹き出るものだ」
「そういうものですか」
士匄のつぶやきに荀偃が首を傾げる。そういうものだ、と断言する士匄に、なぜか荀偃が安心した顔で頷き返した。この二人、こういうことを繰り返してるんだな、と趙武は思った。
「そんなことより、この血痕だ。良い目印になる」
点々と続く血痕を指さし、士匄は言った。それは、庭向こうまで続いているようだった。
「邸内には向かっていないようですが……。どこへ行くつもりなのでしょう。いえ、そもそも目的があるのでしょうか」
趙武の言葉に応じず、士匄は歩きだす。荀偃はもう放っておいてもよい、となった。士匄の言うことに頷くのであれば大丈夫なのだ。
無視された趙武が追いかけてきて
「聞いてるのですか范叔、あなたのせいで中行伯は恐ろしい目にあったんです。他の方にもご迷惑おかけしてるかもしれないんですよ! あなたはどうされるおつもりですか」
と不快さを隠さず責めた。士匄はうんざりした顔を向けたが、後輩はひるまなかった。その眼差しに応じるように口を開く。
「この血の跡、進んでる向きからだいたいわかっている。ああ、迷惑なことだ、特にわたしに!」
吐き捨てて大股で歩く士匄を趙武が必死に追いかける。
「あなたの自業自得なんじゃあないですか? 范叔が封じた凶の卦なのでしょう。しかも、あなたの知識や経験をお持ちと見ました。あなたよりご立派な人格でしたけど」
「あんな気持ち悪いもんのなにが立派だ!」
本気で吐きそうな顔をして士匄は怒鳴る。やはり趙武は動じず、どうされるので? と静かに問うた。士匄は、行動力はあるが根性はない。こういった押し問答にもすぐ音を上げる。黙ってられず、ゆえに、墓穴掘り。舌禍の質なのだ。
「だいたいの目的はわかる。極めて悪質かつ迷惑なことをしようとしている。目的――いや、目標は
「知伯なら安心……。いえ、矢を放たれても、これだけの出血さえしても動くものです。何が起きるかわかりませんね」
厳しい声とともに趙武が必死についてくる。彼はなぜ荀罃が狙われているかを問わなかった。理由を問うて問答するより騒動を先におさめるべき、と思ったのだ。実務家らしい考えである。
士匄は内心、追及されず安堵していた。理由など言いたくない。
まあ、種明かしを先にしておく。とてもとても若い頃、厳しい荀罃に絞られていたころ、士匄はもう耐えられなくなって己の一部を封じたのである。
若い自分は少々直情で、向こう見ずであった。それが、成長した体を手に入れて暴走しているに違いない。頭に刺さった矢を抜いて、荀偃に渡すほどである、浮かれすぎている。やめろバカと叫びたい。
荀罃は返り討ちにしてくれるであろうが、だがしかし。最悪な展開になりかねぬ。楽観的な士匄とは思えぬほど、かれは悲観的な未来を考え、歯ぎしりをした。ここで途方に暮れず怒りを燃料に走り続けるのが士匄という青年であった。
荀罃は
初対面で穏和な風貌に勘違いし、侮り、酷い目にあったのは少年士匄である。思い出したくもない。
気づけば士匄は思いきり走りだしていた。趙武が取り残され、ぜえはあと荒い息を吐きながら、それでも追いかけていく。
庭を抜け、さらに道を走り、ひらけた場に出ていく。調練場だった。
ちょうど、
御者に何か命じた後、荀罃が『士匄』に向き直った。
「くっそ!」
士匄はたむろっていた、とりあえず適当な兵を掴むとその腰に帯びている剣を抜いて、無造作に突き飛ばした。全て反射で行っているのだから、士匄の身体能力は際立っていると言えよう。
「なにかな、范叔」
荀罃の言葉に、『士匄』が手を伸ばしながら口を開こうとする。
――させるか。
などと、余計な思考が脳裏によぎることもなかった。迷うことさえない。
士匄は『己』の背中から剣をぶっ刺し、脇腹に向かって刃を突き上げた。腹に空気が入るこれは、内臓を一気に腐らせていく。本来なら、致命傷であった。
だが、この『士匄』は頭に矢が刺さっても痛みひとつ無く動いた影である。コレは、士匄そのものの不敵な笑みを浮かべながら荀罃の帯びた剣を抜こうとした。その体をひねり、すでに迎撃体制に入っている。士匄は察し、顔をひきつらせた。突っ込みすぎて避けられる間合いではないと、一瞬で悟ったのである。
が。
すばやく荀罃が腰を引き、『士匄』の手が空をかく。そのまま己の剣を抜き、『士匄』の片手を叩くように切り落とした。『士匄』が不思議そうに無くなった手首を見た。少々、あどけない顔であった。士匄は、もう一人の己から離れながら、荀罃を見た。
荀罃は、士匄が二人現れても、一人が刺し貫かれても動じることなかった。軽い微笑を浮かべ、二つに増えた後輩を見る。余裕と冷静さと、練度ある大人の笑みであった。
ようやく追いついた趙武が、ひっ、と悲鳴を上げた。そこには刺し貫かれても立っている先輩、返り血を浴びている同じ顔の先輩、そして血に汚れた剣を持つ先達である。ちょっとした地獄絵図に周囲もどよめいていた。
「えっと、知伯……え? あ、范叔の手首を?」
貫かれた『士匄』の手首の先が無いことに気づき、趙武は思わず言った。他に色々言いたいことはあったが、脳が処理できず、それだけしか口に出てこなかった。
「ああ。この范叔が
さらりと返され、趙武は恐怖に鳥肌が立った。武門の人、本当にコワイ。さておき、荀罃が士匄たちに向き直る。
「で? なにかな、范叔」
士匄は封じたかつての己を止めようとしたが、遅かった。『士匄』が笑顔で口を開いた。
「わたしを弟としてほしい。わたしは知伯を兄としたい」
ぎゃあああっと士匄は叫んだ。バカヤロウとも怒鳴った。怒鳴られた『士匄』は満足げに頷くと、するっと消えた。消えて、しまった。
最悪だ、と頭を抱えてうずくまる士匄の上から荀罃が声をかけてくる。
「汝の気持ちは嬉しいが、その様子だともういらぬのかな」
「……お心遣いありがとうございます。忘れてください」
士匄は座り込んだまま、地を這うような声音で唸った。
昔。思春期ほどの、昔である。士匄は荀罃に引き合わされ、しばかれるように教育を受けた。少年にとって、厳しいが強い兄貴分は憧れにもなった。認められたく褒められたいと熱望もした。本来ならそれだけであったのだが、我の強すぎる士匄は、荀罃に憧れていることが
浮かれに浮かれきった己に気づき、耐えられなくなり――憧れそのものを見よう見まねで封印したのである。あのころの自分は、幼稚でアホだったのだ。
趙武が合点がいった顔をした。うずくまる士匄に目線を合わせるように座る。
「昔に封じた凶の卦だったんですよね。えっと。おねしょを隠そうとする子供みたいなことなされてたんですね」
しみじみと、傷を抉るような言葉を吐く趙武を、士匄は即座にデコピンした。痛いとわめく趙武をしりめに、立ち上がり、大きく息を吐いた。そして、遠巻きに見てくる人々を睨みつける。
「見世物ではない!」
噛みつくような怒声にみな、困惑し、怯えながら目をそらす。
「調練の邪魔をしたのはわたしの不徳のいたすところ、申し訳ございません。わたしはまだ至らぬ身、
何ごともなかったように見事な拝礼をすると、士匄は趙武を掴んで歩き去ろうとした。が、その襟首を掴まれる。荀罃が笑んでいた。
「何が原因か、なぜ范叔が二人いたかなど問わぬ。しかし、汝は敵を倒しきれなかった。私があれの手を斬らねば、斬られていたのは汝だ」
そのまま士匄を引き寄せると、趙武を解放し宮中へ送り出すような仕草で手を動かす。察した趙武は振り返らずに走り去っていった。
「ちょっ、こら、趙孟!」
手を伸ばし叫ぶ士匄の肩を強く掴み、荀罃が鷹のようにするどく睨みつけてくる。
「たるんでいたようだな、范叔。本日はお相手つかまつる。汝を教導することは私の責務でもある」
重く深いその声に、士匄は頬を引きつらせながら、ありがとうございます、と枯れた声でうめいた。
その日。
士匄は罵倒されながら極限までしごかれた。ボロボロになって帰宅した後、部屋で封印が解かれた箱を蹴っ飛ばす。竹簡がよじれるように飛び、床に転がった。
竹簡には、荀罃への憧憬や好意がびっしりと書いてある。昔の、己の字である。封じるために書き出したであろうそれは、妙に生き生きとしていた。己がこれに染まるのは幸せであったし、これに侵食されるのは恐怖だった。
士匄は厭わしさと懐かしさが混ざった眼差しを向けたあと、
「こういうのを捨てるな、わたしの財だ」
と、呟いた。
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