吾は待つ有りて然る者か。僕も同じく誰かの模倣だよ。そして誰かもそのように。

「きゃあああああああああああああああああああああっ」

 目の前で先達の頭に矢が刺さり、趙武ちょうぶが弓を放りだして悲鳴をあげた。なんと、『士匄』は倒れることなく立っている。

范叔はんしゅくーーー! 矢、矢ーーっ!」

 驚愕と恐怖の入り交じった声で、趙武が声を上げ続ける。高い空、流れる雲をつんざくような悲鳴は耳にうるさく、士匄しかいは苦い顔をした。

「うるさい趙孟ちょうもう! 耳がつぶれるわ!」

 のしのしと歩きながら怒鳴る士匄を見て、趙武が目を丸くした。やってくる先達、目の前にいる先達。何もかもうり二つの人物がいるのである。え? え? と交互に顔を見たあと、あほうのような顔で突っ立った。脳の処理能力が限界に達し、フリーズしたのである。

 士匄がつかみかかろうとするのをすりぬけ、『士匄』が走り出す。それをさらに追いかけようとする士匄を趙武がつかんだ。

「ちょっと、范叔二号! どういうことですか、范叔二号!」

「誰が二号だ、はなせ、こら! あ、おいちょっと待て!」

 混乱しきった趙武を引き離そうとしているうちに、『士匄』は逃げていった。士匄は茫然とする。絶対あれは、己が封じたものだ。何が害が無いだ、消えてしまう、だ。

「……ち。絶対捕まえて粉みじんにして永久に封じてやる」

 低くうなる士匄をなおも趙武が袖を引っ張ってくる。

「……范叔二号? いえ、異界の怪……? 世が世なら不審者で防犯ブザーというものですよね」

 代表的な防犯ブザーは紐を引っ張ることで大きな警告音を鳴らすものである。趙武のような小柄な要人は持っていたほうが確かに良い。それはさておき、こわごわと見上げながら後ずさる趙武に、士匄は怒鳴りつける。

「アホッ! わたしが本物だ! 何が二号か!」

 アホと言われた趙武が不快を隠さず怒鳴りかえす。

「どう見てもあちらが范叔でしたっ。頼りになってかっこいい。私はあっちがいいです!」

 趙孟は弓が苦手だったな。大変だろう力になろう。今までここまで積極的に指導してきた士匄がいたであろうか、いや無い。努力根性人間の趙武はこれ以上なく感動し、初めて士匄を先達として尊敬した。才ある先達が心を入れ替えたのだ、とも思った。

「あっちが! 范叔です! ご立派な人でした!」

「矢が頭に刺さって生きている人間がおるか!」

「そりゃそうですねっ」

 程度が低すぎる応酬は、二人に理性と冷静さをもたらしたらしい。お互い息をついたあと、趙武が改めて士匄を見上げた。

「で? 何が起きているのですか?」

 言われた士匄は、口を開いたまま固まった。手で制して首を振った後、頭を抱えてうずくまった。傲岸不遜、自身と矜持に満ち、自己肯定と顕示欲の塊の彼とは思えぬ、かよわさである。趙武がさらに、

「何が起きているのです? あれはいったい何でしょう、矢が目にささって頭くしざしなのに、笑顔で走っていきました、なんでしょう。何が起きているのです? なんなのですか」

 と畳みかける。士匄は頭を抱えて息を強く吐いたあと、すっくと立ち上がり、息を吸ってもう一度吐いた。

 ――集中力は良し。しかし周りに気を配れ。

 そんなことできやしないと言ったのは己であった。

 ――できないとなんじは死ぬ。戦場でやっていけぬ。敵も味方もみえなくなってどうする。

 ――汝の才なら、できる。

 死という強い言葉に反発を覚えた直後に、才を認められ褒められる。あの日あの時、己は有頂天になったのである。そう、士匄は有頂天になり、浮かれた。そして、世にも恐ろしいものが生まれた。

 あの日に言われたことをそのままトレースして、趙武を指導していた『士匄』は、おぞましさそのものであった。

「あれは……わたしが昔、封じた凶だ。それが、出てきた」

 は? と趙武が声をあげて顔を歪ませた。歪んだ顔も美しく、銀木犀ぎんもくせいを思わせる控えめな可憐ささえある。お得な顔であった。

「范叔。とうとう、頭がかわいそうになられましたが、士氏ししも大変なことですが、従弟にご立派な方がおられると伺っております。安心してご静養ください」

 憐れみ、おもんぱかる笑みを浮かべながら、趙武がしずしずと拝礼した。

「お、前、絶対こんど泣かす。誰が頭かわいそうだ!」

 士匄は趙武の頭を掴み、思いきりゆさぶりながら怒鳴った。趙武はやめてやめてと言いながら抵抗しようと腕を動かすが、全く歯が立たない。傍目から見れば、男が女子にドメスティックバイオレンスをしているようにしか見えなかった。どちらにせよ暴力である。

「あれは! 偽物だ! わたしの影だ」

 言い切ると、士匄は力任せに趙武をこづきながら手を離した。趙武はくらくらする頭を抱えながら、士匄を睨み付ける。やはり、先ほどの『士匄』の方が良かった。

「そうは仰いますが范叔。影はそこにあるではないですか」

 趙武は地を指さして言った。秋の朝日に照らされ、士匄の影が地に伸びていた。すっかり、影が長くなる季節であった。趙武の言葉に士匄は鼻をならし嘲笑う。

「影がひとつだと思っているのか、アホが。強い光の中では他の影はかき消えるが、弱き光多ければ、ぼんやりと増えている。人の心と同じく影もとりとめなく湧きでるものだ」

 そこまで言うと、士匄は舌打ちをした上に歯ぎしりまで始める。

「あれはわたしの影……いや、影を使ったのであろう。解き放った瞬間に盗んでいくとは、小賢しい。我が凶の形、言わば凶の卦だ。祓うことかなわぬゆえ封じていたものが出てきやがった――どころか、わたしの影を使い、小知恵を使って凶行を働こうとしている。あれは極めて危険厄介、不祥のものだ。奪ったわたしの影から知識を学んだのだろう、狡猾なやつだ、お前もころりと騙されるところであった」

 地団駄ふまんばかりに怒り散らす士匄に、趙武がしらけた目を向けた。また、適当なことを言っている、と思った。確かに二人の士匄が現れたということはゆゆしき問題、怪異である。しかし、影を盗んだやら、凶行を働くやら、それは士匄の推測もしくは想像であると、趙武は思った。一年以上後輩をしていると、なんとなくわかってしまうものであった。何より、目の前の士匄より、ほんの十数分だけ教導してくれた『士匄』のほうが好ましかった。

 さて。士匄は趙武に怒鳴り散らし、相手を推測したあたりで重要なことに気づいた。

「そうでは、なく! あいつどこへ行きやがった!」

 ゆうに数分は、時間を無駄にしていた。趙武がのんびり首をかしげた。

「さあ……。心当たりないので?」

 士匄が封じていた、なにやらしらぬがゆかりのものである。趙武の指摘は常識的かつ正鵠を得ている。士匄は口を歪めて、眉をしかめた。あるには、ある。それは最悪の予想でもある。士匄がこめかみを指で叩こうとしたとき、その悲鳴は聞こえた。

「びゃあああああああああああああああっ」

 男にしては若干甲高いが、特に美しくもない絶叫が響き渡った。屋内ではなく、庭のどこからか聞こえたそれは、そこまで遠くもない。

「この声……。中行伯ちゅうこうはく!」

 士匄は躊躇せずに走り出した。その剣幕に驚いた趙武も、思わず後を追いかける。若者が朝から走り出した後、朝の清々しい風が枯れ葉を巻き上げ、散らしていく。射場には、弓が二つ打ち捨てられ、矢筒も放り出され、矢が枯れ葉と共に散らばっていた。片付ける奴隷たちの気持ちなど、若い貴族たちは考えないものであった。

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