静女其れ姝たり我を城隅に俟つと、静かで優しげな美しい君を秘密の場所で僕は待つ

 ほとんど夜明けに出仕して、空いた時間で散策。

 常のそれをしているのだと、韓無忌かんむきは強いて己に言いきかせながら、宮中の庭を歩き出す。清々しい、秋の早朝である。湿気が少なくなった風は爽やかであり、冷たさを含む空気は寒さより心地よさを感じさせる。いまだ曙光しょこうが残る空は、眩しい陽光と薄い夜空が入り交じり、木々草花、そして韓無忌を明るく照らしていた。

 凛として清い菊の香りが漂う庭である。韓無忌は昨日と同じ場所を、杖をよすがに歩いていた。見回しながら進めば、色の群体を見つける。そこに菊が咲き乱れていることを、韓無忌は知っていたが、やはりひとかたまりの何かであった。

 昨日は、あんなに鮮やかに花の形がのに――。

 指でなぞった菊の花弁を思い出しながら、韓無忌は屈もうとした。慎重に、杖に負担をかけぬよう、屈む。

 一瞬、杖がまた飛んでいけば良いのではないか、と考え、韓無忌は眉をしかめた。浅ましいと己を戒める。

「……私はただ、この菊を『見たい』だけなのだ」

 その言葉は本当であった。ひとかたまりではない、菊の花々を見たいのである。韓無忌の世界はともすれば、かたまりばかりである。例えば、人が複数集まっていると、それは得体の知れぬかたまりに見える。それに怖れず、近づき声をかけ、観察し、ひとつひとつを知っていく。それと同じように、韓無忌はこの香り良い菊をきちんと、一輪一輪見たかった。

 ぼやけた風景、欠落した場所、勝手に補われる視界の中、韓厥はようやくしゃがみ、杖を土の上に置いた。二、三度触り、場所を覚える。そうして、菊をそっと触った。

 小さな花弁を指で静かに確かめていく。黄色、淡黄色、淡紅色、白色。それらがかたまりでなく、個体で分かる。指からもたらされた花弁の形、花と花の隙間から、韓無忌の脳内に菊の花が形取られていく。

「昨日は女官にょかんどのに労をとってもらった。やりたいようにできぬのが課せられた私の人生としても、やはり己でなしたいこともある」

 ふ、と息をつきながら笑み、呟いた。

 隣の空気が動き、ふわりと清涼な香りが匂いたった。深く濃い菊の香りであった。

「……昨日は出過ぎた真似を致しました、僭越というものでございます。申し訳ございません」

 視界に映るのは、平伏する大輪の花のようなものだった。菊茶きくちゃの女官であった。

「口に出せば誰かが聞き、考えなしの言葉は正しく伝わらぬもの。私の言い方が悪かった。違います。あなたの行いに感謝しております、僭越などと思いましょうか。ただ、私は人に手間をかけさせ生きているものです。昨日もあなたの職分を侵し、君公の財産を侵したてまつった。己でなしたいことを己でできぬような人間が国を支えることできぬ。そう、思って呟いたまでです。あなたを怨みそしったものではありません」

 韓無忌は丁寧に、そして優しく語りかけた。菊も見た、己の失言も謝った。そうなれば立ち上がり散策を続けるか、公族大夫こうぞくたいふの室へ向かうかのどちらかである。

「……あなたの菊茶はとても美味しかった。効能あり、体も楽になりました。職分を侵し、君公くんこうの権利を侵したてまつることになるが、また淹れてもらえないだろうか」

 さらなる失言といえるそれを、女官は拝礼し受け入れた。

「私の職分はみなさまがたのお世話です、大夫たいふさま」

 微笑んだ女官の笑みは、やはり清々しい菊の香りを思い起こさせる涼やかなものであった。

 韓無忌は昨日に続いて菊茶を楽しんだが、ゆっくりとはしなかった。と言っても、韓無忌が本分を思い出し、さっさと辞したわけではない。女官が切々と訴えてきたのである。

「この庭は君公のお住まいに続く場所でございます。あの先で、凶事がございました。穢れや不祥があなたさまを困らせるかもしれません。大夫さま、今日はもう、お庭を歩かず、お役目へお戻りいただきますようお願い申し上げます」

 ぼんやりとした視界の中、切れ長の黒い眼だけが、はっきりと見えるようであった。そして、真実を語り、韓無忌を心底おもんぱかっていることが伝わってくる。

「私を守ろうとするあなたに感謝を。しかし、君公のお膝元で凶事とは。我が君が心配です」

 立ち上がった韓無忌は、朝政へ向かった父に報告しようと考えた。ほんの小さなことも、国を傾けることはありえる。君主の住居で凶事となれば、なおさらであった。

「いいえ。君公は関係ないのです。女官が一人、死んだだけなのです。たいしたことございません」

 しずしずと返す女官に、韓無忌が珍しく動揺の顔を見せた。

「――君公に仕えるものの凶事を、そのような」

「私たち女官など、そのようなものではないのでしょうか」

 不思議そうに見上げてくる女官に、韓無忌は黙り込んだ。そのとおりである。家僕かぼくを惜しむ心はあろうとも、いなくなればすげ替えできてしまうものだった。君公の女官一人が死んだからといって、国を揺るがす凶事と見ることはない。常の韓無忌であれば、

 穢れが残らぬよう務めなさい

 と冷静に命じたであろう。己が何故かうろたえていることに戸惑いながら、韓無忌は咳払いをした。

「……穢れが残らぬよう、務めなさい」

 最適解をねじり出すと、韓無忌はゆっくりと去った。菊茶の女官は韓無忌が見えなくなるまで拝礼し続けていた。

 庭で韓無忌が、自己欺瞞に満ちた密会を行っていたころである。士匄しかいは宮中の一室で女の死体と過ごしていた。血と臓物の臭いが気持ち悪いが、それ以上にのしかかる雑霊や穢れがしんどい。士匄はだらしなく座りながら部屋を見回し、女の死体に視線を移す。

 腹の中から赤黒い臓物が引きずり出され、鉛のようなてかりを出しながらだらりと垂れていた。むしり取ったらしい肉片が周囲にまき散らされ、屠殺場を思わせる。女の顔は、醜く歪んでおり、きっと激痛の中で死んでいったのであろう。

 士匄はその顔を一瞥したあと、裂かれた腹をさらに見る。検分というより暇なのである。己でさっさと立ち上がり、人を呼べば良いところを、この男は意地でも動きたくないのだ。この場をなんとかしてくださいと他者にこそこそ頼むのは性に合わない。

 覗きこんだ腹の中は、かき混ぜられたようにぐちゃぐちゃであった。ぶちぶちとちぎれた腸が見える。近づくと悪臭が酷い。血や臓物だけではなく、腸からあふれた汚物が混じっているようであった。

「……本当にわたしが仕込んだとでも思ったのか、いまいましい」

 士匄は、ち、と舌打ちして呟く。まるで中を探したように壊されている。特に、下腹付近が酷かった。そこにあったであろうものは、潰されたか、それともこの部屋のどこかに転がっているのか。

 どう考えても、まともな殺しかたではない。現代人が見れば困惑するであろう。が、士匄は紀元前六世紀の、山神さんしん四凶しきょうも祟りも存在している世界に生きている人間である。何かの呪いだろう、とあたりをつけた。それが己に関係しているのかどうかはわからない。

「ひっ……ぎゃあああああああっ」

 ようやくやってきた寺人じじんが、惨状に叫んだ。そのままうやうやしく掃除をし、士匄に平伏して遅くなりましたと詫びれば良いものを、

「誰か、誰かあああああっ」

 とわめきながら走り去っていく。士匄は、宮中に仕えるやつがなんとみっともない、と憤慨した。士匄の神経のほうがおかしかった。寺人は、極めて常人である。

 寺人は己の職分を全て放り投げたわけではなかったらしい。他の女官や寺人、そして巫覡ふげきを伴って帰ってきた。

「な、なんということを。おそれおおいながら君公の女官をこのような……。恐れ入りたてまつります、いくら君公の覚え良い六卿りくけい嗣子ししとはいえ、ご無体な」

 拝礼する寺人の言葉に、士匄はますます憤慨した。まるで士匄が犯人だと言わんばかりである。まあ、女の死体のそばに返り血を浴びた男がおれば、そう考えるのが自然であろう。しかも、傲岸かつ横暴で有名な士氏ししの嗣子であった。

「わたしが殺すわけなかろう! その卑しい舌を切り取ってやろうか」

 ドスの効いた士匄の低いうなり声に、寺人が平身低頭謝った。この青年が犯人にせよ違うにせよ、切り取ると断じれば絶対に切り取るのだ。他の寺人や女官たちは、状況に怯え、動けない。

「……酷い穢れの部屋です。大夫さまも穢れておられる。私が祓いますゆえ、そのあとに部屋を浄めてください」

 巫覡が息を深くついたあとに言った。宮中での凶事を止めることのできなかった己の不才に忸怩たるものがある。そして、またこの嗣子か、という思いもある。士匄という青年が宮中に参内しはじめてから、何度祓ったであろうか。霊に憑かれやすい、不祥に弱いというわけではない。感覚が強すぎて己で引き寄せてしまう人間なのだ。

 ――嗣子ではなく、家に押し込めてかんなぎにでもしてしまえ。

 常に思わざるを得ない。宮中に仕える巫覡としては、この迷惑な嗣子がまた何かやらかしたのだと思った。むろん、そのような顔を表に出さず、彼は部屋の穢れ、士匄の不祥を祓った。

 巫覡が祓ったことで、みな少し安堵したらしく、おずおずと部屋の掃除にとりかかった。

「この子をどうしたらいいですか?」

 色素が若干薄い女官が寺人や巫覡を見て問うた。士匄は体がすっきりしたのもあり、すっくと立ち上がるとそのまま出ていく。寺人の一人が慌てて先導した。別の室に案内するとのことだった。

「祟らぬよう、しっかり祓ったあと、死体はこうの外へ放るしかない。凶事は追放するしかあるまい」

 波紋ひとつない水面のような巫覡の声を聞きながら、士匄は室を後にした。洛甲乙亥らくこういつがいの死を悲しんでいるらしい女官の首飾りが、窓からの陽光でキラキラと光っていた。

 別室に移り、衣服を改めたあと――寺人のものか君公のものかはわからぬ――、士匄は足止めを食らった。

「恐れ入ります。君公からのめいでございます」

 寺人の代表と思われるものが、強い口調で押し留めてくる。なんでも、二日酔いで蒼白の州蒲しゅうほいわく。

「この! 余が住まうところで凶事など、本来なら無い! かいがおるということは、やつのせいだ。匄は春に山神に祟られておった。似たようなものだ、解決するまで返すな、というか匄が解決しろ! 余は不浄が起きたから今日は寝る! 凶事のせいで頭が痛い! 吐きそうだ!」

 二日酔いのサボりの口実に使われ、士匄は歯ぎしりをする。泥酔する前に退かぬから、翌日にみっともないことになるのだ、と不敬にも吐き捨てた。

「おおかた、女官同士の争いいさかい妬みそねみの呪いであろう。何故わたしが卑賤のものどもを裁かねばならんのだ!」

 士匄はどなりちらしたあと、どっかと座り、

「バカバカしいが君命だ、一日くらいはつきあわねばならぬ。朝餉あさげを持って来い。わたしは空腹だ、まず食わねば頭も働かぬというもの」

 と、あごをしゃくって寺人に命じた。君命というが、二日酔いサボりの言い訳、正当化の建前である。このような命令も事件も、一日たてば無かったことにされるであろう。士匄はもちろん、州蒲にとっても女官の命などその程度のものであった。趙武であれば憐れみを覚えたであろうが、士匄はそのあたり乾いている。己のもの――例えばゆうであったり荀偃じゅんえんである――以外に無頓着なのである。強欲というものは、に対して冷たいということでもあった。

「ああそうだ。今日は学びの場へ行けぬと、伝えろ。わたしは本来、次代のけいとして研鑽せねばならぬ身。それが本日は為せぬ。わたしの不甲斐なさ、不徳のなせるところかもしれぬが、理由ははっきりさせたほうがよい。凶事に遭遇し行くことあたわず、と伝えろ。凶事とは何かと問われれば、きちんとお答えしろ。みな卿になろうという方々、深いお考えがあるであろう。返すのは凶事の内容だけで良い」

 士匄の言葉に寺人は困惑を隠さなかった。意味がわからなかったわけではない。宮中に死人が出たことは答えろ、士匄が原因究明を命じられたことは言うな。若い大夫たちの中には士匄への心配や凶事への好奇心で、連れて行けと言い出すものが出てくるに違いない。つまり、事態は大きくなる。士匄は、さわぎをほどほどに大きくして、が出てくる前に『無かった』ことにしようとしているのである。つまり、州蒲が面倒になって投げ出すようにしたいのだった。

 寺人は、宮中に仕えているとはいえ、ただの家僕である。抗うことなく、下がっていった。ただ、自分の責が重くなると考え、ことづけは女官にさせた。新たに入った若い女官たちである。お育ちの良い青年たちが絆され、凶事を放置してくれるかもしれない、とかすかに願っていた。

 寺人の願いは極めて甘く脆く、そして士匄のもくろみは当たった。室にいるのは、韓無忌という生真面目な男と、趙武ちょうぶというやはり生真面目な青年であった。欒黶らんえんは下戸のくせに二日酔いでさぼっており、荀偃はまだ来ていない。妥協しない真面目な人間二人が、女官たちの若さに幻惑されるはずがなかった。

「……凶事。それは女官の死ではないか」

 凶事の内容を聞く前に韓無忌が言った。彼は前述通り、菊茶を飲むついでに女官の死を聞いている。報告に来た女官は三名、みなおののいた。士匄もそうだが、大貴族というものは全てを見通しているのか、とその慧眼に畏怖の念を抱いた。完全な誤解であり早合点であるのだが、為政者の支配というものは、おうおうにしてこのように積み上がっているのだろう。

 女官のうち、少々色素の薄いものが、

「さようでございます。惨たらしく殺されたよし。凶事不祥で、君公はお休みされ、士氏の嗣子も、その、お休み願っております」

 と、平伏して必死に返した。

「君公が穢れを気にしてお休みになるのは、まあ分からぬでもないが……。范叔はんしゅくが穢れたのであれば、すみやかに退出するのが最善ではないか。おおよそ、君公の寵臣でもないものが、身の回りのことに立ち入るものではない。卿は寵臣、近臣ではない。君公自身の凶事に行き合ったは范叔の日頃の行い、不徳であろう。しかし、臣として退出し、自邸にて浄めた後に君公へ改めての見舞いをするのが道理。それを宮中から出ぬとは理に合わぬ」

 韓無忌の言葉に、女官たちは首をかしげたり、困惑の目で互いを見る。彼女たちは、韓無忌の言う理がわからぬのだ。そして、韓無忌も趙武も、彼女たちがわかっていない、ということに気づいていない。教養や常識の格差というものは、中にいると気づけないものである。

 女官たちと青年貴族たちの断絶はともかく、韓無忌はひそかに士匄を心配した。士匄の危なっかしさのためであるが、韓無忌が長男気質というのもある。人の面倒を見る本能というものであった。

「范叔が、宮中から出ない。そして、惨たらしく殺された女官です。あの方は不祥にあってお困りになることもあります。そうなると、あとで周囲も迷惑いたします。私が様子を見てきてもよろしいでしょうか?」

 趙武が韓無忌に向かって言う。士匄を心配しているというより、韓無忌の心を慮ったのである。趙武は、韓無忌が剛直に見えて優しいことを知っている。表情が薄いが、情が深く人に添うことをよく知っている。趙氏と韓氏はまるで親戚のように近い。

「汝は范叔に教導される身。直接問うが良い。……頼む」

 韓無忌の低く柔らかい声に、趙武は頷き拝礼し、女官たちと共に部屋を出て行った。韓無忌は一人残され、待った。

 欒黶は来ない。サボりだからである。それは、すでに伝えられていた。

 荀偃も来なかった。運悪く、惨殺死体を運ぶ女官たちに行き合い、逃げ帰った。穢れがうつったと書を寄越し、しばらく出仕を控えるという言葉で締められていた。――あんなむごい殺されかたする女官は不吉不祥、よほど行いよくなかったのでしょう、恐ろしい――。そのような余計なことまで書いていた。読み上げられる書を聞きながら、そのようなところがよろしくない、と韓無忌は思った。

 そして、趙武も戻ってこなかった。韓無忌は瞑想するように目をつむり、時間いっぱい昼まで一人で座し続けていた。

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