我が心鑒に匪ず、以て茹るべきからず。あたしの心は鏡じゃないから、あなたの気持ちがわかるわけじゃないのよ。
見つめられた
「
するすると流れるように言うと、士匄は女官を追っ払った。彼女は名残惜しさを隠さず、州蒲に侍り、命ぜられるままに
違う女官が入れ替わりに侍る。今度は少々幼さが見え、所作も雑であった。しかも、いちいち口で小さく呟きながら酒を注いだり介添えをしている。失敗を怖れているのであろう。緊張のさまがパニック寸前の
ふと、女の首飾りに文字が刻まれていることに気づく。――
「おい。これはなんだ?」
士匄は女官に覆い被さるように近づき、首飾りを指で軽く引っ張った。女官が、ひぎゃあ、と小さな悲鳴をあげた。そこから口をぱくぱくさせて固まる。きっと、きちんとした文言が思い浮かばないのだろう。
「話し方など気にするな、我ら
男ぶりの良い顔が、至近距離で話しかけてくるのである。若い女官は頬を赤らめながら、何度も頷いた。
「あ、えっと。お守りです。この模様、あたし用って。あの、さっきの子が作ってくれたんです、あ! ……でございます」
思い出したように敬語を付け足す女官の話を聞きながら、士匄は数回こめかみを指で叩き、口を開く。
「お前は
女官がぽかんとした顔で頷いた。
洛甲――。『
この貴人は一目見て相手の故郷がわかるのか、と女官が驚くのをよそに、士匄はさらに口を開いた。
「……お前がこの
「はい。あたしたちは乙亥のものと言われてます」
共に買われ連れて来られた女たちを示しながら女官は答え、凄い、
乙亥――。
洛甲 乙亥
その文字が刻まれた首飾りを指で軽く弾いた後、士匄は女官――
「大夫がなんでもわかるわけじゃあ、ない。わたしがなんでもわかるだけだ。お前は人の善意を素直に受ける、みな親切にしてくれたろう。そのようなものは良きはしためになるであろう、励め」
このおめでたい衛女は、ありがとうございますと素直に受けながら、あたしよりあの子のほうが良い女官です、などと言う。
「さっきの子のほうが頭が良いし、何でも知っているんですよ。きびきび動いてかっこいいの。色んな子にお守りを作ってくれたの、こんな模様の。あの子をもう一度呼びましょうか」
模様ではなく文字である。まあ、この衛女は文字が読めぬのであるから、仕方があるまい。
「いや。あれは君公を楽しませている。お前はあの女を見習いながら今日はわたしの介添えをしていれば良い」
士匄は衛女から離れて
州蒲に侍るはめになった小賢しい女官は、士匄や
「……似た顔のものがおるな」
小賢しい女官も衛女にも興味が冷め、士匄は他の女官を幾人か見る。化粧が似ているのか、同じ印象の女官が幾人かおり、細々と動いたり、出入りしていた。
「お里によってお化粧は似ますからね。あの、お注ぎいたします」
空になった杯に、衛女が酒を注ぐ。士匄の耳に、州蒲と欒黶のはしゃぐ声が聞こえた。外はそろそろ月が昇ったか。きっと雲が薄くたなびく中、白い月がさっと薄い光を照らしているであろう。月明かりに紅葉は映え、秋の花々はさらに可憐さを魅せるに違いない。士匄はそういったものを愛でる己に陶酔するのが好きである。
が、州蒲や欒黶はもっと直裁的な娯楽を好む。例えば、この宴席もそうであった。州蒲が見せびらかしたい女官たちは、まあ悪くないが、その程度である。士匄は酒を飲み干した。杯を一応見せるが、州蒲はもはや気づかないようであった。
「我が君は、まあ……引き際を知らぬ」
典雅にほど遠い宴席に士匄はすっかり飽きている。つまらなさにうんざりした。そんな若者の
生薬より菊の香りが強く漂うものだった。どうも、違う酒になったらしい。それも飲み干す。――飲み干して、しまった。
瞬間、士匄は杯を落とした。
胃の腑を焼くような熱さと痛みが襲う。これは酩酊ではない。が、毒でもない。崩れる士匄を慌てて衛女が支えた。
「大夫さま、大丈夫ですか。あの、酔いがまわったようです、どうすれば」
士匄に声をかけたあと、他の女官に聞いている。違う、酔いではない、と士匄は言いたかったが、舌がしびれたように動かない。なんだこれ。なんだこれは。
他の室へ連れて行け、面倒を見ろ。そのようなやりとりが頭上で行われている。州蒲であるのか、他の女官が言い合っているのか、士匄にはいまいちわからない。支えられ何とか立ち上がると、
「こちらへ」
と衛女に伴われ連れて行かれる。行きたくないが、足は共に動いていく。うっそりとした目で宴席に視線を向ければ、同じような顔の女官たちがこちらを見ていた。その中に、小賢しい女官もおり、怨みがましい目を向けてきていた。
小部屋の一室で、衛女が士匄を寝かせ、濡れた布で首筋を冷やしてきた。薬湯も用意し、手慣れている。
「酔いすぎるのはつらいもの。あたしの夫もそうでした」
何度も濡れた布をかえ、衛女が首をすくめて言う。
「……なんだ。夫に売られたのか」
「いえ、夫が死んだので、舅に売られたんです」
衛女がからりと返したあと、士匄の額を撫でた。衛女の手は冷たく、士匄は心地よさで目をつむった。酔い、ではない。あの程度の量で己は酔わぬ。何か、酒に何かが入り込み、士匄を苛んでいるのだ。が、傍目からすれば、酩酊しているようにしか見えぬ。
「あ、あ。眠る前に薬湯を。すごいですね、こんな立派な薬湯なんて初めて見ました」
せっぱつまっているのか、のんびりしているのかいまいちわからぬ女の声を最後に、士匄は意識を失った。
そうして、起き上がって見たのは、腹を裂かれて死んでいる衛女であった。この死体に惹かれたのか雑多な霊が士匄にまとわりついている。その中に、この衛女がいるかどうかなど、知らぬ。名も知らぬ、顔もいまいち覚えていない、洛甲乙亥の女官である。
「
士匄がこの女を伴ったことで、子種を仕込んだとでも言いたいのか。
「……わたしに罪を被せようなどという浅はかさでこうなったのであれば――絶対に引きずり出して、手足をもぎ生きたまま晒してやる」
士匄は、頬に飛び散っていた衛女の肉片を払い落としながら、呟いた。
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