恋は秋菊の香り
汝の美と為すに匪ず、美人の貽なり。この花が美しいのは君がくれたものだから、なんてね。
秋の夜の空気は清い水のように清々しく、浮かんだ月は明るさをもって清冽さを示している。月に照らされた木々が微かに
短い夕暮れが終わり、ふわりとした長い夜である。庭に出て夜空を見上げるのに良い日であった。――が。
若い
「我が君は、まあ……引き際を知らぬ」
士匄は小さく吐き捨てた。酔う前にさっと解散させぬから、醜態をさらしている。酒に強い士匄は、ほとんど酔わぬまま、苦い顔をした。
別段、酒席が嫌いなわけではない。晋公が苦手というわけでもない。単に、つまんねえ呑み会が不快なのである。士匄は、誰であろうと己を拘束するものを嫌がった。それは君主でも変わらぬのだが、まあ、立場上頷かねばならない。
「あの、お注ぎいたします」
空の酒杯を見て、侍っている女官が言った。この時代、正式な宴席に女官は侍らない。食事の儀は男の世界である。つまりこれは、晋公の極めてプライベートな遊びであった。己の所有物を見せびらかしているのである。
それなりに見目の良い女官は、初めて見る顔であった。士匄は他にも新顔の女官がいると思いつつ、酒を飲み干した。
せめて、秋の夜長を少しは楽しめれば良いが。微かに開いた窓から見える月を眺めながら、士匄は肩をすくめた。
結局、士匄は、その夜長をほとんど楽しめず、気づけば朝であった。自邸にも帰らず、君公に侍ったまま、酒に酔ったように意識を失い宮中で一泊。
士匄はうんざりした。
彼は父の怒りに触れると嫌気が差したわけでもない。己の失態に対しては、少々の苛立ちはあった。しかし、それでうんざりしているわけではない。
士匄の腿に絡みつくような、女の手があった。透き通るような白は、農耕民ではなく屋内の
その衣は、暗い
その女が美しかったかどうかなど、士匄は覚えていない。昨夜、侍った女であろうか。
女は腹を破られ死んでいた。刃物の傷というより、むりやりこじ開けひらき、肉をむしりとりながら破ったような傷で、そして死因らしい。肉片が飛び散り、士匄の頬にも飛んでいた。何より、士匄自身が返り血のように血飛沫で汚れている。
「
士匄は吐き捨てたあと、誰かおらんか、と声を上げた。宮中の一室である。呼びつけて来ぬでも、待ってれば小者が来るであろう。わざわざ立ち上がって騒ぐのは、気に食わない。血の臭いで吐きそうな部屋の中、士匄はやはりうんざりしていた。
誰がどのように殺したのか、なぜ殺したのかなど、どうでもいい。
彼は己が疑われるなどつゆほど思っておらぬ。士匄が公室の女官を殺す理由はない。誰が疑おうとも、己には無い。そして、たかが公室の女官と、
「……わたしに罪を被せようなどという浅はかさでこうなったのであれば――絶対に引きずり出して、手足をもぎ生きたまま晒してやる」
物騒なことを呟きながら、士匄は人を待った。
さて、秋である。豊穣、新嘗祭、オクトーバーフェスト。人類史において、春と並んで愛される季節である。
せっかくなので、時間を一日巻き戻して清々しい朝のほうからお送りしたい。
春はあけぼの、とは本邦で有名な言葉であるが、秋の夜明けも良い。
そのような夜明け頃、
さて、韓無忌は始業前に庭を散策することがある。小規模な韓氏の邸に比べ物にならぬほど、宮城の庭は広い。ただ美しく見せているだけではなく、世界の縮図のようなところもある。季節ごとの華やぎを楽しめる場でもあった。
前述しているが、韓無忌は弱視である。すべてのものはぼやけて見えている。その上で視界に欠損があり、なにもないと思っていた空間にいきなり木が現れることもあった。欠けた箇所を脳が勝手に処理するため、都合よい幻覚が視界を埋めているのだ。しかし、そのようなときも彼は驚くことなく歩く。そして杖を使いながらであったが、介添もなく進む。初めて宮中に参内してからもう十年は経つため、慣れがある。それ以上に、青年期をそろそろ脱しようというこの男は、冷静さと胆力を持ち合わせていた。その冷静さで慎重に歩き、胆力で迷いなく進む。彼の人生そのものでもある。
さて、この日も薄い視界に映る秋の様相を楽しみながら韓無忌は宮中の庭を散策していた。
「これは……菊か」
爽やかささえある、花の香りに韓無忌は立ち止まってあたりを見回した。視界に白、黄、薄緑、淡紅などが入り混じったかたまりが現れる。
他の者であれば、そのひとつひとつの美しさ、可憐さを見ることができたであろうが、韓無忌にとっては、群れは一つの塊でしかない。が、彼は知識として菊という小さな花を知っている。
韓無忌は、やはりまだ稚気を残しだ青年だったのであろう。彼は近づき手を伸ばそうとした。どこが本当の花なのか、どこからが都合の良い嘘の視界なのか、わからないままその花弁を触ろうと身を少しかがめた。彼にとってもう一つの目が指先なのである。
無理な姿勢になっていたらしく、体重がかかりすぎて杖が、たわんだ。気づいた韓無忌はとっさに手を離してしまった。勢いよく弾かれた杖は、思ったより遠くへ落ちたらしい。カランという軽い音は足元のものではなかった。
一通り地面を見渡すが、見えぬ。土や石、草花と杖は完全に同化してしまい、韓無忌にはわからない。杖は韓無忌の視界と同義であり、無ければまさに暗闇を歩くに等しい。
もし、彼が貴族でなければ、這いつくばって探し続けたであろう。が、韓無忌は貴族、しかも侍従長の
これが
謹厳実直が家風の韓無忌は、慌てることはなかった。しかし、前向きな行動も起こさなかった。彼は、諦めが早い。できぬことはできぬ、と生まれながらに知りすぎていた。
足元危ない状況と判じ、菊へ手を伸ばすのもやめた。そうして、慎ましやかに立ち尽くす。宮中の庭である、誰かが通りかかれば韓無忌に声をかけるであろう。その時に事情を話して助けてもらうしかない。それがいつになるかわからぬ。少なくとも今日の務めに遅れるか、最悪出られない。
韓無忌が己の未熟さを静かに憤っていた時、
「おそれいりたてまつります、
と、視界の外から声をかけられた。薄く細く、透明な若い女の声であった。
「杖を落とされたよし。私めが拾いましてございます。お渡しいたしますので、お手を」
韓無忌は薄目で虚空に頷き、手を伸ばした。
失礼します、と一声かけられたあと、そっと手を取られ、杖を握らされる。韓無忌は、ほ、と安堵のため息をついた。
杖が戻ってきた安心感もあるが、女の行き届いた配慮に安んじてもいた。
韓無忌のような視覚弱者は、いきなり触られると怖ろしさが強い。視界に映らぬものが体にふれるというのは、どれだけ胆力を育てても、本能的な恐怖があるものである。それが続けば、常に気を張っていなければならなくなる。虎の縄張りに入ってしまった兎の心地に等しい。しかし、目の見えるものにはそのあたりが分かりづらいらしい。韓無忌が困っているときに問答無用に手をつかみ、引っ張る。それは善意であるから、文句も言いづらい。
この女はまず声をかけてくれた。杖を渡すときも、一声があった。宮中の女官であろうが、よほど高位の教育を受けたのか、韓無忌のような視覚弱者の世話をしているのか、どちらかであろう。
「感謝を」
韓無忌は、声がした方に顔を向け、言った。視界にぬかずく女がいる。髪を美しく結い上げ、花で飾っている。女官らしく、清潔感と華やかさのある深衣が地に広がり、それも花のようであった。特に、ぼやけた視界の韓無忌には、人というより大輪の花に見えた。しかも、良い香りも漂わせている。
「……菊か。あなたは菊の良い香りがする」
思わず、言った。この男は生真面目かつ面白みのない男であり、このような言葉さえ珍しい。女官は顔をあげず、黙ってぬかずいている。
杖が戻った以上、韓無忌はそのまま立ち去るべきであった。しかし、何か離れがたい気持ちがあった。それほど、韓無忌は女官の配慮が嬉しかった。ただ、韓無忌が立ち去らぬため、この女官も立ち去ることができない。妙な緊張と膠着が場に生まれた。
物語において、こうした均衡を破るのは、たいがい善意の第三者である。このときも、そうであった。
「何をされている、
庭中にわんわんと響く声の主は、振り返らずともわかる。闊達かつ野性的な声は、ほんのりあたたかみもあった。韓無忌は薄目のままゆっくりと、そちらも向こうとした。
「いらん、じっとしてろ。こちらから向かう」
ジャリジャリと砂を噛みながら力強い足音が近づくと同時に、
「何をしている。お勉強会の前にこのようなところで突っ立って」
卿が言うには軽薄な言葉を投げて、郤至が覗き込んでくる。韓無忌は杖を持ったままでも、見事な拝礼をした。
「庭を散策しておりましたところで杖を落としてしまいました。この女官に杖を拾っていただいた。感謝を伝えておりました」
「ほう、女官か」
郤至が韓無忌の視線に合わせて体を動かし、顎をなでた。
「ええ。とても配慮行き届いたお人、良き働きをなされているのでしょう。菊の香り豊かで、清々しい」
「そのように菊の香りが匂い立つのであれば、その係のものではないか? 秋は
韓無忌は、は? と思わず聞き返した。ぬかずいていた女官が驚いたように顔をあげ、
「菊茶で、ございますか」
と尋ねてくる。韓無忌は、あなたは己の職分に戻りなさい、と声をかけ
「嗣子でしかない私が公室の女官に馳走されるは僭越となります」
と郤至に抗弁する。が、郤至は堅苦しい、と笑いながら韓無忌の肩を掴んだ。いきなり手が伸びてきたと韓無忌は眉をしかめる。この先達は、あまりこのような仕草をしない。一声かけるタイプである。ゆえに、これはわざとである。
「あの堂でよかろう、女官に菊茶を飲みたいと言え、韓伯」
郤至の指し示す先に、ぼんやりと堂が映る。菊を見るためのものか、世話するための堂か。どちらにせよ、この先達は、是が非でも韓無忌に菊茶を飲ませたいらしい。
「杖を拾い私を助けてくださった、あなた。職分侵し奉るが、私たちに菊茶を馳走いただきたい」
仕方なしに言うと、女官は拝礼し、慌てたように去っていった。後ろ姿も、花のようであった。
韓無忌をかつぐように堂へ連れて行くと、郤至は去っていこうとした。
「あなたは菊茶をお飲みにならないのですか」
言い出したのは郤至ではないか、という気持ちを込めて、言った。
「野暮というものだ、韓伯。ひとつ言う。菊の香りのする女官などというが、わたしにはそのような香りなどなかった。そこまで心を止めたのだ、ゆっくり過ごせ」
笑いながら去っていく郤至に、韓無忌は唖然とした。女官の職分を侵す、公室の財産を勝手に使う、若い女性と二人きりになる。慎み深く節度の高い韓無忌は、なぜか三つも禁忌を犯す羽目になってしまった。哀れなことに、彼は一目散に逃げることができなかった。弱視の彼は、安全に走ることなどできないのである。また、女官に命じた以上は責を取らねばならない。座して待つしかなかった。
女官が煎じた菊茶を持ってきて、侍る。手渡し方も配慮が行き届いており、なおかつ茶の香りも良かった。清々しい、気持ちの良い香りであった。
「我が家でこのように香り良い菊茶を飲んだことはない。あなたは
「……菊に関するものでございます。ありがたいお言葉、喜びといたします」
女官が美しく拝礼したあと、何かを差し出した。ぼんやりと、美しい色であった。韓無忌はそれを取り、撫でる。柔らかく瑞々しい花弁は細かい。視界に、花が現れた。それは、脳の補正であったが、韓無忌にとっては真実である。
「僭越でございますが、菊を手に取るように思われましてお持ちしました」
「感謝する。私は人として至らぬ身、こうして触らねば菊を見れない。あなたのお務めを妨げてまで楽しむものではないのだが、嬉しい」
韓無忌は女の方をゆっくり見て少し笑んだ。この男は表情が薄い。他のものであれば満面の笑みと言える表情も、薄く小さなものとなる。
しかし、女官は韓無忌の深い感謝をきちんと受け取ったらしい。もったいないこと、と深々とぬかずいた。その姿は、やはり花のようであった。
そのようなわけで、韓無忌が学びの場に来たのは、少し遅くなった。常なら最初に部屋に座している彼であるが、荀偃と変わらぬほどである。
「おられなくて、どうなされたのかと。ご無事で良かったです」
趙武が、おっとりと現れた韓無忌に駆け寄り、手を引いて話しかけた。宮城のどこかで倒れていたのではないかと気を揉んでいたのである。
「心配をかけた」
韓無忌が座しながら言葉を返す。趙武が、少し力の抜けた顔をした。
「……菊の香りがする。韓伯とは思えぬ華やかな香りだ」
鋭い指摘をしたのは、やはり士匄である。他の者が、それほどか? と首を傾げる中、士匄はくつりと笑った。
「あなたに残り香がうつるほどの菊ですか。それは清々しい美しさだったのでしょうね」
士匄の揶揄に、荀偃が引きつった顔を見せる。趙武が菊の
「菊茶です。縁あって、女官に馳走いただいた。
女と会ったが下卑たものではない、と一蹴され、士匄は興醒めした。その上で趙武を出され、思わず美しい後輩を見る。趙武も不思議そうに、韓無忌と士匄の顔を見た。
韓無忌は戯言を言うような人間ではない。全身、政治と公事でできているような、くそ真面目な男である。士匄がふざけて出した色ごとを切り捨てぬどころか、趙武に言えとは天変地異である。
「おそれながら申し上げます。私は鈍才にて、話がついていけてません。范叔に何を学ぶのでしょうか、法でしょうか」
趙武が韓無忌に問うた。韓無忌が薄目で趙武を見る。
「あなたの、来春の儀礼の話です」
「え? え?」
韓無忌の言葉に、趙武がさらに混乱したようで、首を傾げる。当事者より先に、士匄は気づいた。
「来春、か。……趙孟、お前、年が明けたら嫁取りか」
「あ、はい。ようやく整いまして、来春結婚します」
趙武が、さらっと言った。と、同時に部屋へ足を踏み入れた欒黶が、叫んだ。
「は!? なんだ!? 趙孟が嫁を取る!? え!? 汝に陽物があったのか!?」
即座に趙武が走りだし、欒黶の整った顔を殴りつけたが、誰も止めなかった。
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